第86章 : 向き直る刃
レナに一瞬で距離を詰められ首元を侵された衝動により、聖なる神官ミッチーの集中力が寸断された。その影響で『罪の特性』の統制が狂い、下の兵士たちの精神を苛んでいた漆黒のオーラに亀裂が走る!
西の森の境界。帝国の総司令官は、割れるような激しい頭痛を両手で押さえた。山頂での死闘の光景が残像となって兵士全員の脳裏へ流れ込む。赤い血のようだった瞳が少しずつ元の色を取り戻し、激しい息を吐きながら周囲を見渡した。正気を失った狂乱から目を覚ました帝国の重装甲兵と隣国の軍勢が、傷つき倒れながら地面に横たわっていた。
「俺たちは……一体どうなってしまったんだ!?」隣国の司令官が血を吐き出しながら叫ぶ。彼の視線もまた、黒い煙が渦巻く山頂へと向けられた。
「あれは人間の魔法などではない……」帝国の総司令官は覚悟を決めた足取りで前へ進み出た。その瞳には真実への理解が満ちていた。「俺たちは踊らされていたのだ……あの聖なる神官め、最初から我ら全員を捨て駒として利用していたのだ!」
全軍に向け、即座に緊張緩和と停戦の号令が同時に響き渡った。互いに向けられていた刃が収められる。無意味な戦いで殺し合いを演じさせられていた両国の兵士たちは、真の敵が目の前の相手ではないことを悟り、悲痛な思いで視線を交わし合った。
「帝国の兵士、アンド隣国の勇士たちよ、聞け!」総司令官は力強い声で全軍に呼びかけた。「一時的に恩怨を捨てよ! あの化け物を解き放てば、いずれの国も生き残れん! 目標は山頂……陣形を整え、支援魔導の全弾射撃準備!」
「先鋒隊……共同で防衛線を構築せよ!」隣国の司令官が即座に呼応する。
ガキィン! ガキィン!
かつて敵対していた二つの国の鉄盾と重装甲が噛み合い、堅固な防壁を作り上げる。近衛魔術師団と先鋒の魔導士たちが陣形を統合し、巨大な属性エネルギーの光柱を空へと放った。山頂にいるミッチーをめがけて一斉に牽制射撃を叩き込み、上空の戦士に勝機を作るために注意を逸らす!
山頂に立つミライは眼下を見下ろした。兵士たちの決意と一致団結を目にし、冷ややかな口元に微かな笑みが浮かぶ。
「どうやら……あなたが弄んでいただけの駒は、あなたが思っていたほど愚かではなかったようですね、ミッチー」
ミライは淡々と呟くと、罪の法則が乱れたこの一瞬の隙を見逃さず、追撃の手を打つべく地を蹴った!
兵士たちの魔導では『罪の特性』の本体に致命傷を与えるには至らない。しかし、数万の人間が放つ凄まじい衝撃と意志の奔流は、ミッチーの狂った精神を激しく揺さぶり、周囲の空間歪曲を完全に瓦解させた。
「手先どもが! 神である私を遮ろうなどと、よくも……!」
ミッチーは怒りに狂って咆哮し、下の軍勢を一掃せんと黒い爪を振り下ろそうとした。
だが——最大の隙が生まれたその瞬間!
シュカッ!
ミライの移動は、もはやミッチーの知覚し得る領域を超えていた。兵士たちが穿った歪みの亀裂を通り抜け、零距離まで肉薄する! ミライの手に眩い純白の魔導が宿り、ミッチーの胸の真ん中へ容赦なく叩き込まれた!
ドカアアアアン!
純粋な衝撃が黒いオーラを粉砕した。聖なる神官の体は流星のごとく山頂から吹き飛ばされ、下の地面へと叩きつけられた。罪の力が抑圧され、絶叫を上げながら衰退していく。
一方、森の裾野の木造小屋——。
しおりを護衛するために舞い戻ったアイリンは、目にした光景に息をのんだ。しおりは恐怖に怯えて隠れてなどいなかった。彼女は小屋の前に立ち、黒い威圧感の煽りを受けて顔色こそ蒼白だったが、その瞳には強い決意の光が宿っていた。
「アイリンさん……外の兵士さんたちの傷が……」
しおりは静かな声で言いながら、細い両手を胸の前で組み合わせた。
「しおりちゃん! 無茶よ、危険すぎるわ……」アイリンが止めようとする。
「私は……もう二度と、誰も失いたくないんです!」しおりは力強い声でそれを遮った。「ライアンさんたち……皆が戦っているんです。だから、私だけが見ているなんてできません!」
カッ……!
しおりの足元から、巨大な古代治癒陣が爆発的に展開された。西の森全体を包み込み、麓の戦場へも一気に広がっていく! 天空から純粋な黄金の光粒子が雨のように降り注いだ。
傷を癒やされ、活力を取り戻した下の兵士たちは、驚きと共に深い感謝と敬意を込めて森の裾野を見上げた。
「あれは……しおり様の治癒魔導だ!」総司令官が叫ぶ。「彼女の献身を無駄にするな! あの化け物を押し潰せ!」
数万の兵士たちが勝ち鬨を上げ、地表に落とされたミッチーを取り囲む。そしてミライもまた、決着を付けるべく山頂から静かに降り立ちつつあった。
黄金の光粒子が降り注ぎ、兵士たちの傷を癒やし毒を浄化し続ける。しかし paper その代償として、しおりの足元の治癒陣は激しく揺らぎ始め、その輝きを失いかけていた。彼女の肌は血の気を失って蒼白となり、額から大粒の汗が流れ落ちる。細い体が震え、立っていることすら限界に達していた。
隣にいたアイリンは焦りを隠せず、震えるしおりの肩を強く掴んだ。かつてないほど切迫した声を張り上げる。
「しおりちゃん……もうやめて! これ以上無理に治癒の範囲を広げたら、体内の魔力要素が底をついて死んじゃうわよ!」
「私……止められません、アイリンさん……」しおりは苦しげに声を絞り出した。瞳は小刻みに震えながらも、なお戦場を見つめ続ける。「今私がやめたら……持ち直した兵士さんたちがまた闇に呑まれてしまう。それに、ライアンさんや皆の努力が……きゃああっ!」
ミッチーから打ち返された黒い衝撃の反動が治癒の波と衝突し、しおりは口から鮮血を吐き出した。そのまま崩れ落ちそうになる体を、アイリンが咄嗟に抱きとめる。
「この分からず屋のバカ娘……!」
アイリンは歯をくいしばり、胸中で激しく葛藤した。ミライからは護衛を命じられているのであって、誰かを救うためにしおりが命を散らすのを見るためではない。
(身の程知らずな真似をして……私があなたを死なせるわけないじゃない!)
だが、しおりの瞳——誰の負担にもなりたくないと願う、頑ななまでの愛と意志に満ちたその瞳を見つめた瞬間、アイリンは大きくため息をついた。諦めたような苦笑が唇に浮かぶ。
「まったく、仕方ないわね……ミライに知られたら私、絶対にお説教コースだわ」
アイリンは背後からしおりの体を抱きかかえるように寄り添った。しおりの小さな手を包み込むように重ね、静かにまぶたを閉じる。アイリンの全身から、濃密な紺碧の古代符牒が眩い光を放ち始めた。無制限に等しい純粋な魔力要素が、アイリンの手のひらからしおりの魔力回路へと、優しく、そして絶え間なく流れ込んでいく!
「受け取りなさい、しおりちゃん! 私の魔力があなたの治癒の基盤になってあげるわ!」アイリンが耳元で囁く。
ブワアアアアアン!
アイリンからの膨大な魔力支援を受けた瞬間、しおりの足元の治癒陣は百倍もの輝きを取り戻した! 巨大な黄金の光柱が天を突き、森と軍勢全体を覆う絶対的な防護の結界へと変わる。
膨張しようとしていたミッチーの黒いオーラは、しおりとアイリンが放つ純粋な光によって押し潰され、奴の身体の周囲数メートルにまで縮小・封じ込められた!
膨大な生命力を注入された数万の兵士たちが歓喜の声を上げる。逃げ場を完全に塞がれたミッチーは、恐怖に身を震わせた。そしてミライが、至近距離へと静かに歩み寄っていく——。




