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第84章 : 逆転の盤面

強まり始める午前の風の中、小屋の後ろにある大木の陰で、ミライの魔術通信が再び微かに震えた。薬師ライアンの姿をしたミライは、森の入口の方角へ視線を向けた。その瞳は静まり返り、恐れなど微塵もない。


(レナ、アイリン……作戦を開始しろ)ミライは念話で絶対の命令を下した。(国王の重装甲師団を迎え撃つ必要はない。隣国の進軍を阻む必要もない……両者を好きに前進させろ)


『了解いたしました、ミライ様〜』レナの興奮気味な声が返ってくる。『ちょうど森の境界線の手前で衝突させるのですね?』


(そうだ)ミライは口元に深淵な笑みを浮かべた。(聖なる神官は、帝国を他の軍勢とぶつけて消耗させ、自分が出し抜く機会を伺っている……ならば望み通り舞台を整えてやる。ただし、獲物と狩人の立場を入れ替えてな)


『理解しましたわ』アイリンが冷ややかな声で付け加える。『次元歪曲の魔方陣を使い、隣国の進軍ルートをすり替えます。国王の近衛魔術師団と重装甲師団の真っ正面に躍り出るように』


それから数時間後。西の森の境界付近。


四つの重装甲師団と近衛魔術師団を率いる帝国の総司令官は、意気揚々と進軍してきた。森を叩き潰し、王命に従ってしおりを捕らえるつもりだったのだ。しかし、彼らが森の領域に足を踏み入れるより早く、全方位の地面から空間を歪める魔術の煙が立ち込めた。


ゴゴゴゴゴ……!


魔術の霧が晴れると、帝国の重装甲師団はその目の前の光景に愕然とし、目を剥いた。


「な……なんだと!? あれは隣国の軍勢ではないか!」総司令官は衝撃のあまり怒鳴り散らした。「奴らがなぜここにいる!? 我らを急襲するために、他国と共謀したというのか!?」


一方、隣国の司令官も同様に激しく狼狽していた。聖なる神官が暗号サインで「防備の薄い抜け道だ glance 」と教えてくれたはずのルートが、あろうことか帝国の近衛魔術師団の待ち伏せ地点と化していたのだから!


「くそったれが! 聖なる神官のサインは罠だったのだ! あいつら、我々を騙して帝国に一掃させるつもりだったのか!」隣国の司令官は狂ったように命令を下した。「剣を抜け! 全員、戦闘準備だ!」


ジャキッ! ガキィン! ズドン!


武器がぶつかり合う音と、属性魔術の爆発音が境界線全体に響き渡った。西の森の入口は、前触れもなく二大勢力が激突する凄惨な戦場と化してしまった。双方が「相手こそが待ち伏せしていた敵だ」と固く信じ切っていた。


戦場全体を見渡せる高台の頂。


純白の法衣を着た聖なる神官は、目を極限まで見開いていた。その顔から狡猾な笑みが消え去り、驚愕と狼狽の色が広がっていく。入念に組み立てたはずの盤面が完全に歪められ、彼の心は混乱に蝕まれていた。


「そんなバカな……」聖なる神官は己の目を疑うように呟いた。「なぜ隣国の軍勢が、これほど完璧なタイミングで本隊と衝突するのだ!? 一体誰が……誰が魔方陣のルートを書き換えた!?」


「私をお探しですか? 聖なる神官様」


背後から、低く平坦な声が響いた。聖なる神官は全身を跳ねさせ、極限の衝撃とともに振り返った……。


ウィッグを外し、本来の髪を風になびかせた漆黒の長衣姿のミライが、そこに立っていた。腕を組み、冷徹で深淵な瞳で彼を見下ろしている。その左右にはレナとアイリンが控え、彼の退路を完全に塞いでいた。


「他者を囮にして王座を奪うというあなたの計画も……どうやらここで終わりのようですね」ミライは薄く冷ややかな笑みを浮かべた。その笑みは、聖なる神官の心臓を凍りつかせるに十分だった!


その深淵な瞳が、今や激しい狼狽と恐怖に小刻みに震えている。


「嘘だ……私はすべてを完璧に計画したはずだ!」聖なる神官は後ずさりし、正気を失った声で叫んだ。「お前たち……一体何者なんだ!?」


ミライは腕を組んだまま、静かに白い長衣の男を見つめていた。無関心で、一切の感情を交えずに。


「諦めなさいな、神官様」レナは手の中で短剣を弄びながら、戯れに微笑んだ。「ミライ様の知覚領域は、あなたのような下等な駒が想像できる範囲を遥かに超えているのですよ〜」


「黙れ! 私はすべてを超越する者だ! こんな場所で終わるわけにはいかない!」


追い詰められた聖なる神官は正気を失い、持てる力のすべてを解き放とうとした。彼は咆哮し、眩い黄金色の霊力を爆発させた。頂の空に巨大な七重の聖なる魔方陣が現れ、その聖なる光の中に漆黒の禁忌の符牒が編み込まれていく。


【最高位神聖魔術×禁忌魔術:陰日向の太陽裁判】


空から巨大な光柱が高速で降り注ぎ、ミライとこの山頂ごと一瞬で粉砕せんと迫る。その圧倒的な破壊力は空気を悲鳴させ、街一つをまるごと滅ぼすに足る威力だった!


しかし……。


フッ!


アイリンが前に一歩踏み出した。彼女が右手をごく軽く払うと、彼女の目の前に空間の亀裂が出現した。恐ろしい威力を誇る裁判の光柱は、その次元の裂け目へとあっけなく呑み込まれ、消滅した。


「な……なんだと……私の禁忌魔術が……」聖なる神官は目を見開き、膝から崩れ落ちそうになった。


ミライはゆっくりと前へ足を進めた。たった一歩。しかし彼は、相手が残像すら認識できない速度で、聖なる神官の目の前に現れていた。ミライは右手を伸ばし、彼の胸元へとそっと触れた。


ガハッ!


重厚で純粋な魔術の波動が聖なる神官の体内に雪崩れ込み、全身の魔力回路を瞬時に破壊し、封印した。銀色の刻印が皮膚を駆け巡り、魂に深く打ち込まれる。聖なる神官は絶叫し、魔力を完全に奪われた状態で床に倒れ込んだ。


「ぐ……あ……このレベルの力は……」聖なる神官は恐怖に顔を歪ませ、ミライを見上げた。全身が芯から震えている。


ミライは冷酷な視線で見下ろした。「あなたの命はひとまず取らずにおきましょう……下の二つの王国の無意味な戦いを止めさせるための道具としてね」


ミライはアイリンに向き直った。「アイリン、こいつを連れて行け。今すぐ通信魔術で隣国の軍勢に撤退命令を出させろ」


「了解いたしました!」アイリンは地面から聖なる神官を易々と引き上げた。


体内の魔力回路を完全に封印されたにもかかわらず、目を血走らせた聖なる神官は狂ったように暴れ始めた。地面にへたり込んだ彼の体から、耳を劈くような狂気と掠れた叫びが響き渡る。


「私はまだ負けていない! 私は聖なる神官だ! 大神官をも超える聖なる神官なのだぞ!」彼は恐ろしい速さで高笑いを上げた。「末席とはいえ聖なる神官が負けるはずがない! 私が負けるなどあり得ないのだ! 私こそが勝者とならねばならないのだ!」


ドックン……ドックン……!


聖なる神官の心臓が不規則に激しく脈打ち始めた。周囲の空気が、かつてないほど歪み、禍々しく黒ずんでいく。ミライが彼の魂に刻み込んだ銀色の束縛に亀裂が走り、ドロドロとした黒へと溶けていく!


血のように濃密な漆黒のオーラが、聖なる神官の体から爆発的に噴出した。凄まじい竜巻が山頂の岩や土を吹き飛ばし、腐敗した冷酷な威圧感が全方向に広がる!


「神の声が……聞こえる! すべてを創りし神の声が!」聖なる神官は両手を天にかかげ、全身を歪にねじらせた。その顔はもはや人間の域を外れている。「私が手に入れたのだ……罪の特性! 野望の罪を! これで私は無敵だ……ハハハハハ!」


伝説の罪の刻印が首筋から顔面へと駆け上がり、闇の力が彼の体を膨張させ、爪が異常に伸びていく。黒いエネルギーの柱が天を突いて宇宙へと立ち昇り、かつてレナが展開していた結界と次元を瞬く間に粉砕した!


ドカーーーン!


『野望の罪』の覚醒による激しい衝撃は、山頂だけに留まらなかった。狂乱の黒い魔術波は、麓の戦場へと雪崩れ込んでいく!


激突していた帝国の重装甲兵も、隣国の先鋒も、ことごとくその闇の力に精神を侵食され、飲み込まれていった。兵士たちの瞳は血のように赤く染まり、理性を失って互いを殺し合い始めた。鮮血が川のように地面を染めていく!


それだけに留まらず、膨大な罪の波動は西の森の奥深くまで浸透していった。草木は一瞬にして枯れ果て、森の底で眠っていたスライムの魔物たちが狂乱して目を覚まし、あらゆる方向へと暴走し始めた!


小屋を護っていた防護陣に亀裂が入り、激しく揺らぎ始める。小屋から出てきたばかりのしおりは、邪悪な罪の力が体内の魔力を蝕もうとした激痛に耐えかね、その場に膝から崩れ落ち、胸を強く押さえた。


「きゃああああっ!」


しおりの苦痛に満ちた悲鳴が、ミライの耳にまで届いた!


アイリンとレナの表情が瞬時に引き締まった。この『罪の特性』という力が、極めて危険な領域に達していることを悟ったからだ。


ミライは、もはや罪の魔獣と化した聖なる神官へと冷たい視線を向けた。いつもの軽やかな微笑みは完全に消え失せ、その瞳は深く、極限まで冷酷に研ぎ澄まされていた。事態は最悪の局面へと突入していた。

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