第73章 : 過去の影と忘れ去られた名
八日目の朝、空気は澄み渡り、心地よい涼しさに包まれていた。しおりは久しく味わっていなかったような、ふっと体が軽くなる感覚と共に目を覚ました。肉体的な傷はすっかり塞がり、ほぼ完治に近い状態となっていた。残っているのは、時と共にゆっくりと薄れていくであろう、かすかな傷痕だけだった。
彼女は小屋から足を踏み出し、ライアンに教わった小さな薬草畑に、手際よく、そして心を込めて水をやった。森の鳥たちの澄んだ鳴き声が遠くまで響き渡る。プレッシャーとは無縁のこの静けさは、いつしか不思議な安心感をもたらす愛着へと変わり始めていた。
ライアンが大きな竹編みの籠を手に、小屋から出てきた。彼は目の前の作業に没頭しているしおりを見つめ、いつもの落ち着いた低い声で声をかけた。
「今日は山の麓の村へ、薬草を日用品と交換しに行かないといけないんです」ライアンは籠を持ち上げて位置を直しながら言った。「帰りは少し遅めの午後になるかもしれません。あなたも荷車に乗って一緒に行きませんか?」
しおりは水やりをしていた手を少しだけ止めた。その視線は真っ直ぐ前方の山並みに向けられる。村の景色、人々、そして自分に向けられるかもしれない視線が脳裏をよぎった。だが、かつて彼女の心を締め付けていた狂気じみた恐怖が、以前のように激しく襲いかかってくることはもうなかった。
「遠慮しておきます……」彼女は薄く微笑みながら答えた。「私はここで……小屋の留守番と、残っている乾燥薬草の仕分けを手伝いたいので」
ライアンは理解したように頷き、しつこく誘ったり無理強いしたりはしなかった。「それじゃあ、お願いしますね。鍋にまだお粥が残っているから、お腹が空いたらよそって食べてください」
短い別れの挨拶を交わした後、ライアンは山を下りていき、しおりは一人でこの場所の管理を任されることとなった。
午前中いっぱい、しおりは乾燥した葉や木の根の仕分けに真剣に取り組んだ。木の窓から吹き込む風が、絶え間なく清涼感を運んでくる。やがて昼時になった頃、木の盆の上に干されたある種の薬草を目にして、彼女の視線が釘付けになった。
それはオレンジがかった黄色の木の根で、独特の強い香りを放っていた……。この薬草は、彼女がかつて軍の騎士たちの傷の治療に使ったものであり、宮廷の侍医が皇帝の酒に混ぜる重要な薬でもあったのだ。
その香りに触れただけで、封じ込めようとしていた記憶の波が、まるで決壊したダムのように溢れ出してきた……。
巨大な本宮の光景……皇帝の冷酷な態度。セネスティアの狂気に満ちた笑い声……貴族たちの呪詛の叫び……アイリスとの死闘、そして、茂みの後ろにいた罪のない幼い少年の姿。
震える細い指が、無意識のうちにその根を砕けそうなほど強く握りしめた。呼吸が浅くなり、激しく息を乱す。静まっていた危険な本能が、再び目を覚まそうともがいていた。
(どうして……どうして私は、あの時のことをこんなにも鮮明に覚えているの……)しおりは苦痛に顔を歪めながら心の中で呟いた。美しい瞳に涙が滲み始める。
だが、意識が再び過去の奈落へと引きずり込まれそうになったその瞬間、炉でポコポコと沸き立つお湯の音と、足裏に感じる素朴な木の板の感触が、彼女を現実へと引き戻した。しおりは深く息を吸い込み、湧き上がる痛みをそのまま受け入れた。もう、それを突き放したり拒絶したりはしなかった。
彼女はゆっくりと掌を開き、その木の根を元の場所に整然と戻した。両手はまだ小刻みに震えていたが、その瞳には以前とは違う揺るぎない決意が満ちていた。
遅めの午後になり、ライアンは日用品や新しい食材を詰めた籠を持って戻ってきた。彼が小屋に入ると、そこにはすべての鉢や盆の薬草を綺麗に並べ終え、静かに座っているしおりの姿があった。
「戻りましたよ」ライアンは荷物を下ろしながら声をかけた。「すべて順調でしたか?」
しおりは顔を上げて彼を見つめた。窓から差し込む夕日を全身に浴びている。
「順調でしたよ……」彼女は立ち上がりながら答えた。「ライアンさん……あなたに言っておきたいことがあるんです」
ライアンは荷物を片付けていた手を止め、無言で振り返り彼女の言葉を待った。
「これまで……自分の名前をあなたに伝えていませんでしたね」しおりのその声は微かであったが、確かな芯があり、怯えは一切なかった。「私の名前は……しおりです」
ライアンはその名を真摯に受け止めた。手配書や外部の人間の噂話で耳にしたことがあったかもしれないその名前を聞いても、彼は驚く素振りを見せず、ただ静かに微笑みながら軽く頷いただけだった。
「改めて、初めまして……しおりさん」ライアンは穏やかに答えた。
九日目
本当の名前を口にしたことは、まるで肩の荷が下りたかのようだった。重苦しい記憶が消え去ったわけではないが、しおりとライアンの間の空気は目に見えて和らいだ。名もなき赤の他人という障壁はもうそこにはない。
今朝、しおりは自ら山を下りてライアンと一緒に薬草の交換に行きたいと申し出た。
「本当に大丈夫ですか?」ライアンは少し心配そうに彼女の目を見つめながら尋ねた。「村の人たちは、あまりよそ者に慣れていないかもしれませんよ」
「準備はできています」しおりは力強い声で答えた。「小屋の中で隠れてばかりいたら、きっと永遠に乗り越えることなんてできないですから」
山の麓の村への道中、そして人々との出会い。見知らぬ若い女に対する村人たちの疑念の視線を向けられても、しおりは見事に理性を保ち、呼吸を整えていた。彼女は落ち着き払った態度でライアンの薬草の仕分けや取引を手伝った。そこには、かつての狂気に取り憑かれた姿の面影は微塵もなかった。
十日目
小屋に戻ると、しおりはライアンからより複雑な薬草の調合を学び始めた。元宮廷侍医であり治癒魔法の使い手であった彼女の医療知識が再び生かされることとなった。しかし今回は、名誉を求めたり戦争に奉仕したりするためではない。ただの一人の人間として、人々を助けるためだった。
「この薬草のすり潰し方……傷薬の効き目が倍くらい早くなりますね」しおりが調合の技術を実演して見せると、ライアンは感心したように称賛した。
「昔……少し学んだことがあるんです」しおりは顔に薄く微笑みを浮かべながら答えた。それは、彼女がこの場所で目を覚まして以来、初めて見せた心からの笑顔だった。
十一日目
死の淵を彷徨ったあの夜から十一日目に入り、しおりの体調はほぼ百パーセントに近い状態まで完全に回復していた。重傷だった傷跡は薄い色を残すのみとなり、深く刻み込まれた教訓を彼女に思い出させるだけとなっていた。
夕暮れ時、しおりとライアンは小屋の前の丸太に座り、風を浴びながら徐々に地平線へと沈んでいく夕日を眺めていた。
「この先……しおりさんはどうするつもりですか?」ライアンは淡々と尋ねた。決して強いることはせず、彼女自身に自分の生きる道を選ばせるための問いかけだった。
しおりは少しの間考え込み、広大な森に視線を巡らせた後、自分に新しい命を与えてくれた薬草採りの男の方へと振り返った。
「もし、あまり迷惑にならないのであれば……」しおりは柔らかく、しかし確固たる声で言った。「このままここに残って……あなたの仕事を手伝いながら、この薬草で苦しんでいる人々を治療したいんです。いいですか?」
ライアンはしばらくの間、彼女の顔をじっと見つめ、やがてその顔に温かい微笑みを浮かべた。「この小屋は、いつだって二人で暮らすには十分すぎるほど広いですよ……しおりさん」




