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第70章 : 名づけなき日々

シオリは薄暗い部屋の隅に膝を抱えたまま、一晩中一度も目を閉じることはなかった。ボロボロに傷ついた肉体は、木の床板の冷たさにすっかり麻痺していたが、彼女は身じろぎひとつせず、まるで暗がりに放置された命のない彫像のようにじっと座り続けていた。


やがて、黎明の光が木の窓の隙間から少しずつ差し込み、彼女の座る場所に長く広大な影の帯を描き出す。


部屋の反対側で、男はすでに目を覚ましていた。彼は一晩中、シオリに近づこうとはしなかった。ただ、彼女が身動き一つせずとも手が届く距離に、厚手の毛布をそっと置いておいただけだった。


彼は起き上がるとかまどの前へ歩み寄り、音を立てないように静かに湯を沸かし、朝食の準備をする。挨拶の言葉はなく、詮索するような視線も向けない。ただ黙々と、自分の果たすべき役割をごく自然にこなしていた。


食事が用意されると、彼はスープの入った温かい椀を、彼女から十分な距離を保った床の上にそっと置いた。それから、何食わぬ顔で元の自分の場所へと下がっていく。


「無理して食べなくていい……」


振り返ることもなく、彼は低く落ち着いた声で言った。


「そこに置いておくから。腹が減ったら、いつでも食べろ」


シオリからの返事はない。うつろな瞳は、ただ床の上の一点を見つめたまま動かなかった。


時が、信じられないほど緩慢に流れていく。男は家事の合間に、道具の手入れをしたり、集めてきた薬草を黙々と仕分けたりしていた。彼女に言葉を強要することもなく、早く立ち上がるよう急かすこともしない。


時折、彼は横目でそっと様子を伺ったが、そこに置かれた椀は、冷め切ってもなお誰の手も触れられぬまま、静かにそこに収まっていた。


太陽が頭上を通り過ぎ、やがて午後が深まる頃、シオリがその日初めて微かに身じろぎした。震える細い指先が、冷えきった椀へとそっと伸びる。しかし、すぐにそれを口へ運ぶわけではなく、ただ陶器の器を両手でしっかりと包み込み、その底冷えするような硬い感触を手のひら全体で確かめていた。


男はその変化に気づいていたが、あえて声をかけたり、驚かせたりすることはしない。ただ黙々と、乾燥した葉の分別作業を続けていた。


しばらくの沈黙の後、シオリは冷めきったスープをほんの少しずつ、喉の奥へと流し込んだ。震える両手が、器の重みを支えている。


「どうして……」


かすれ、すっかり乾ききった声が、部屋の空気を震わせた。


「どうして……逃げないの」


男は薬草をまとめる手を止め、その日初めて彼女の方へと顔を向けた。しかし、十分な距離はしっかりと保ったままだ。


「ここ俺の家だからな……」


彼は淡々と、ごく当たり前の調子で答えた。


「なんで自分の家から逃げなきゃいけないんだよ」


「あたしは……あなたを殺しかけたのに」


彼女の声は、さらに細く小さくなっていく。


「あなた……怖くないの」


男は少しだけ考え込むような仕草を見せたのち、飾らない本心を口にした。


「そりゃあ、少しは怖かったさ」


嘘偽りのないその言葉に、隠し立てはなかった。


「だけど、お前が手をパッと離したときの顔……あれを見てたからな」


シオリは何も言えず、ただうつむいて器の中の残り少ないスープを見つめた。


「あんな風に手を離せる人間てのは……本当は誰かを傷つけたいわけじゃないんだよ」


男は言葉を継いだ。過剰に優しく慰めるわけでもなく、ただ淡々と、事実を告げるように。


「ただ、そのときの自分が抱えきれないほど、あまりにも痛くて苦しかっただけだろ」


シオリはそれ以上何も言い返さず、ただ静かに冷えたスープを飲み干した。男もまた自分の仕事へと戻り、余計な詮索をして彼女の心の澱をかき乱すようなことはしなかった。


部屋を満たす静寂は、もはや朝のような張り詰めた重苦しさを含んではいなかった。しかし、それはまだ真の平穏などではない。ただ、傷ついた二人の他人が、それぞれの最低限の距離を保ち合っているだけの「余白」にすぎなかった。


日暮れが訪れ、周囲が夜のとばりに包まれても、シオリは同じ場所に座り続けていた。だが、一日中こわばっていたその体からは、わずかに力が抜け始めていた。


男は小さな油灯に火を灯し、部屋の中央へ置いた。眩しすぎず、かといって恐怖を覚えるほど暗くもない、穏やかな光が広がっていく。


「今夜は……よかったら、ベッドで寝てくれよ」


男は古い木製の簡易ベッドの方に軽く視線を向けながら言った。


「俺は床で寝るからさ」


シオリは小さく首を横に振った。


「ううん……ここでいいの」


肉体的な緊張が和らいでも、心の奥底では悪夢のような記憶が容赦なく爪を立てていた。


――木陰の裏で震えていた、あの無力な少年の姿。


――自分を温かく迎え入れてくれた村人たちの笑顔。


――そして、冷酷な皇帝である父の、侮蔑に満ちた眼差し。


その幻影が頭をよぎるたび、彼女は自分の両膝をより強く抱きしめた。深く息を吸い込み、再びあの狂気に引きずり込まれそうになる自分を、必死の思いで押しとどめる。


男は彼女のその強ばりと、痛みに満ちた横顔に気づいていたが、やはり余計な言葉をかけようとはしなかった。近づきすぎて追いつめることも、放置して孤独の底に突き落とすこともせず、ただ適切な距離を保ったまま、同じ空間に身を置く。


「あなた……名前は、なんていうの」


突然の問いかけに、シオリは顔を少しだけ上げた。その声はまだ微かに震えていたが、朝よりもいくらか芯があった。


男はわずかに驚いたように目を見張り、それから静かに微笑んだ。


「ライアンだ……」


彼はそう答えた。


「この辺りで細々と薬草を採りながら暮らしてる、ただのしがない男さ」


「ライアン……」


シオリはその名を口の中で小さく転がしてみる。その響きが、心のどこかに微かな温もりを落としていくのを確かめるように。


「ねえ……あなたって、なんだか変な人ね。私のこと、まるで何でもお見通しみたいに……」


ライアンは優しく微笑み、彼女の頭をそっと撫でるように空中で手を動かした。


「そんな大層なもんじゃないさ。ただ、見てりゃ大体分かるもんだよ……それで、お前の名前は?」


彼女は自分の名を名乗らなかった。そして、ライアンもそれ以上深く追及することはしなかった。


やがて、部屋を包む闇が深まり、ライアンは油灯の芯を絞って消した。窓の隙間から差し込む朧げな月明かりだけが、室内をうっすらと照らし出している。彼は部屋の隅、彼女から離れた位置にゴロリと横になった。


シオリはその場に座ったままだったが、あまりの疲労の蓄積に、ついにまぶたが重く垂れ下がってきた。彼女はゆっくりと体を横たえ、ベッドではなく、暗い部屋の隅で小さな体を丸めた。


意識が完全に暗黒の眠りへと落ちる直前、脳裏にあの少年の姿が最後の幻影として鮮やかに浮かび上がる。


音のない闇の中で、冷たい涙が一筋、頬を伝って静かに床に染み込んでいった。激しい嗚咽もなく、ライアンを起こすような動きも一切ない。


ただ、心に刻まれたあまりにも深い亀裂だけが、明日という日が何をもたらすのかを知らぬまま、静かに夜の底へと沈んでいった。

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