第66章 : 拒絶の代償
キシリは奥歯を砕けんばかりに強く噛み締め、今まで味わったことのないむき出しの狂気と怒りを、青く光る瞳に宿した。小刻みに震える手でカタナの柄をしっかりと握り締め、身を低く沈めると、ついに最後の決戦へ向けて全身の跳躍力を爆発させた!
ドオオオオオオオッ!!
地面を踏み砕く凄まじい勢いでアイリスへと肉薄する。その突撃にはもはや計算も、防衛の意識も、冷静な判断すらなかった。ただ胸に渦巻く激痛、流した涙、そして引き裂かれた魂の底から絞り出された、剥き出しの衝動だけがあった。
だが――アイリスはあまりにも容易く、その猛攻を受け止めた。
ふわりと刃の角度を変え、キシリの荒々しい一撃をいなすように軽く弾き飛ばす。そして、そのわずかに生まれた隙を逃さず、正確無比なジグザグの軌道で懐へと滑り込んだ。冷徹に振り抜かれたカタナの切先が、キシリの腹部と脇腹を深く、容赦なく切り裂いた!
ザシュッ……!
「ぐっ……はっ……!」
鮮血が口から大量に吐き出され、赤く染まった地面にキシリの体が力なく崩れ落ちた。凄まじい激痛が全身を駆け巡り、意識の糸がプツリと音を立ててちぎれそうになる。
血の池と化した大地に横たわり、途切れそうな息を整えようともがく彼女の視界に、走馬灯のようにかつての記憶が次々と蘇っては消えていった。
静寂に包まれた広大な離宮で、孤独に過ごした日々の記憶……。
いつも温かい笑顔を向け、自分を支えてくれた侍女ヘレンの顔……。
新しく手に入れた名前を優しく受け入れてくれた、あの温かな村の人々……。
食堂で当たり前のように分け合ってくれた、名もなき老夫婦の優しい笑顔……。
そして、あの木陰の裏で小さく震えていた、無力な少年のおびえた姿……。
(どうして……どうしてこんなことになってしまうんだ……)
心の奥底で、彼女は慟哭した。この一年間、自分の魂に刻み込んだはずの復讐心と理想――無力な人々を守りたい、二度と同じ悲劇を繰り返させたくないという純粋な願いが、無残にも踏みにじられていく。
(たった一度きりの……かけがえのない命なのに……)
頬を伝う涙が血にまみれた土へと染み込んでいく。声にならない声が、引き裂かれた魂の奥から叫び声を上げていた。
(どうして、他人の命をそんなにも簡単に奪えるんだ……どうしてだよ……!)
その問いかけは目の前の殺人鬼に届くはずもなく、ただ打ち砕かれた魂の断末魔として夜空に消えていく。
キシリはボロボロに破壊された肉体を気力だけで奮い立たせ、ふらふらと再び立ち上がった。血の海に足を取られながらも、両手はなおも執念でカタナの柄を握りしめて離さない!
彼女は周囲に漂うすべての魔力を限界を超えてかき集めた。かつて必死に抑え込もうとしていた灼熱の赤い熱量が、再びダムを決壊させたようにあふれ出す。驚異的な速度で身を翻し、アイリスの周囲を幾重もの残像を描きながら、予測不能の軌道で狂乱の突撃を繰り返す!
カンッ! カンッ! カンッ!
圧倒的な猛攻の前に、さすがのアイリスも一歩、二歩と後じさりを強いられた。その無機質な瞳に、わずかながらも本物の警戒と深い関心が宿る。
しかし――キシリが放った必死の一撃が、アイリスの喉元へとまさに届こうとしたその瞬間。
ザワッ……! ――バサバサバサッ!!
空間の歪みから突如として、数千、数万もの悍ましい蝶の群れが溢れ出した。色彩豊かなその羽は、鉄板よりも硬く、鋭利な刃物のように冷たく光っている。
それらは瞬く間にアイリスを護る堅固な盾となり、同時に周囲からキシリめがけて一斉に襲いかかった! 無数の羽が全身を切り刻み、一瞬にして数百もの浅い裂傷がキシリの肉体を這い、鮮血が霧のように飛び散る。
「――そろそろ、お返しの時間とさせていただきますね」
数多の蝶に囲まれた中心で、アイリスが冷ややかに告げた。
シュッ……!
視認不可能なほどの神速でアイリスが肉薄する。キシリは本能的に刀を突き出したものの、その刃が捉えたのは虚無の空気だけだった。
次の瞬間、頭頂部にふわりと温かな重みが乗った。
驚くべきことに、アイリスはいつの間にかキシリの頭上に軽やかに跳び上がっていたのだ。彼女は片手をキシリの頭に置き、その小さな頭を無理やり地面へと押し下げるようにして体重をかけ、そのまま背中めがけて強烈な飛び蹴りを叩き込んだ!
ドオオオオオッ!!
「があっ……!」
凄まじい衝撃波と共に、キシリの体は数十メートル先へと激しく弾き飛ばされ、地面を何度もバウンドしながら転がった。
だが、身体が完全に地面に叩きつけられるよりも早く、アイリスの姿はすでにテレポートのように目の前へと現れていた。しなやかな美脚が、哀れな少女の腹部を容赦なく捉え、強烈な蹴り上げを放つ。
ガキィッ……!
凄まじい反動でキシリの身体は宙を舞い、そのまま背後の頑丈な石垣に激突してそれを粉々に砕いた。口から血の泡と大量の血塊が止めどなく溢れ出る。
その背後で、無数の蝶たちがアイリスの手にするカタナへと吸い込まれるように集まり、同化していく。それに合わせるかのように、彼女の纏っていた美しい着物はたちまちほどけ、黒い蝶の群れへと姿を変えて霧散していった。最後に残されたのは、完璧なプロファイルを隠す黒い下着の姿だけだった。
「――せっかくの機会でしたが、あなたがその肉体と忠誠の申し出を拒絶するのなら」
アイリスは感情の欠片もない平坦な声で言い放った。その青く輝く瞳には、無機質な冷酷さだけが宿っている。
「これ以上、あなたとお話しを続ける必要もありません」
彼女はゆっくりとカタナを頭上に掲げた。刀身の周囲に凝縮された圧倒的なエネルギーが空間そのものを歪ませ、周囲の空気が悲鳴を上げる。
「かつて四魔王国の一つに名を馳せた姫君の血統として――私の名の下に、ここで消滅しなさい。アイリスという名を、最後の記憶に刻むといいでしょう」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!
刃の先端から、すべてを灰燼に帰す破壊の魔力が暴風となって解き放たれた!
ドオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
直撃を受けたキシリの全身から、凄まじい爆発と無数の裂傷が同時に弾け飛んだ。骨の髄まで焼き尽くすような過酷な痛みが全神経を麻痺させ、声をあげることすら許さない。
彼女の視界が急速に色を失っていく。アイリスが冷たく見下ろすその姿も、夜空の月も、すべてが漆黒の闇へと溶けていくように遠ざかっていった。
必死にまぶたを開こうとする。まだ戦えると、まだ守りたいと、心の奥底で叫ぶ。だが、肉体も魂も、もはや微動だにすることはできなかった。
少しずつ、少しずつ……。
すべての感覚が霧散し、消え去っていく。
そして、この世界の一切の喧騒が消え去り――完全なる静寂と底知れぬ闇だけが、キシリの意識を優しく、そして冷たく包み込んでいった。




