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第64章 : 月下の激突

先に動いたのはアイリスだった。細身の体躯からは到底信じられないほどの驚異的な速度で踏み込み、手にしたカタナをキシリの左肩めがけて斜めに振り下ろす。


キシリは咄嗟に刀を掲げてその一撃を受け止めた。小屋中に金属が軋む高い音が響き渡り、すさまじい衝撃に押し戻されて床板の上を半歩滑る。


「速い……!」歯を食いしばりながら呟くと、相手の刀を力任せに弾き飛ばし、一気に跳び退いて距離を取った。


手狭なこの小屋では満足な立ち回りなどできない。このまま戦いを続ければ、お互いの攻撃の余波で小屋が自壊し、下敷きになるのは目に見えていた。


二撃目を身をかわしつつ、キシリはベッド脇にあった小さな木製のテーブルを足で蹴り飛ばし、一時的な盾としてアイリスへと投げつけた。アイリスは迷うことなくそのテーブルを紙切れのように一刀両断し、周囲に無数の木片が飛び散る。


——外に出るしかない。


テーブルを両断したことで生じた一瞬の隙を突き、キシリは割れた窓へと飛び込み、ガラスの破片を散らしながら外へと脱出した。


着地したのは小屋の前の広場だった。キシリは素早く身を翻し、即座に刀を構えて身構える。アイリスもまた、割れた窓枠から一ミリの迷いもなく飛び出し、まるで重力など存在しないかのように宙を舞って追従してきた。


「うまく逃げ出しましたね」アイリスは戦闘の最中でありながら、相変わらず平坦な声色で言った。「ですが、だからといってあなたに有利になったわけではありませんよ」


言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女は再び突撃する。月光の下、カタナの軌跡が無数の白銀の光の線となって夜空を切り裂いた。


キシリは連続して三撃を防いだ。そのたびに腕の骨にまで響く強烈な衝撃が走り、痺れが広がっていく。彼女は体勢を立て直すために三歩後ろへと下がり、荒い息を吐き出した。


(思っていた以上にパワーがある……。このまま正面から斬り合えば、間違いなく押し切られる)


庭先を見渡し、すぐそばに積み上げてあった薪の山、中央にある古びた井戸、そして少し離れたところにある大木を確認する。


キシリは薪の山へと駆け寄り、その中から手頃な太さの木片を掴むと、側面に回り込みながらアイリスめがけて投げつけた。アイリスは空中ですれ違いざまにそれを一刀両断したが、その動作の分だけわずかに体勢が崩れる。


キシリはその隙を見逃さず、大木の背後へと回り込んで一気に幹を駆け上がり、高い枝の上から重力を利用した強烈な跳び斬りを放った。


アイリスは瞬時に反応して刀を頭上に掲げ、空中で二人の刃が激しくぶつかり合い、激しい火花が夜の闇に散った。


「お見事ですね」アイリスはキシリの刀を力任せに押し返しつつ言った。「ですが、それだけでは足りません」


彼女は大きく円を描くように刀を薙ぎ払い、キシリに強制的な後退を強いる。その直後、予測不能の変則的なステップで急接近し、その刃を胴体めがけて突き出した。


キシリは紙一重で身を捻り、かろうじて直撃を免れたものの、鋭い刃先が二の腕の皮膚をかすめ、たちまち鮮血が滲み出た。


「っ……!」激痛を歯を食いしばって堪え、再び距離を取る。


アイリスは一秒たりとも休む隙を与えない。複雑なリズムで繰り出される連続攻撃は、左から右へ、上から下へと容赦なく襲いかかり、キシリの知らない未知の剣技の型へと変化していった。


キシリは、この一年間で積み上げてきた修練のすべてを総動員してその猛攻を凌いだ。紙一重の回避、ギリギリのブロック、そしてわずかに空いた隙を突いた反撃。疲労と極度の緊張から、汗が滝のように流れ落ちていく。


「一体、なぜこんな真似をするんだ!」激しい攻防の合間を縫うように、キシリは叫んだ。「罪のない人たちを殺し、何の関係もない連中を傷つけて……何が目的なんだよ!」


「あなたを試すためです」刀と刀が激しく擦れ合う音の向こう側で、アイリスは淡々と答えた。「あなたが十分に強くなければ、リセルロット様が用意してくださった力など何の価値もありませんから」


「そんな理由で人を殺していいわけがないだろう!」キシリは怒号を上げ、全身の力を込めてアイリスの剣を押し返した。


その一瞬の隙を突いて反撃に転じ、渾身の一撃をアイリスの腕へと叩き込む。浅からぬ裂傷が走ったが、アイリスは痛みを訴えるどころか、表情ひとつ変えなかった。まるで痛覚など存在しないかのようだった。


その異様な反応を目にして、キシリは思わず動きを止める。


(なぜだ……痛くないのか?)


アイリスは自身の腕に刻まれた傷を静かに見つめ、それから冷たく光る無機質な瞳でキシリを見上げた。


「私の『忠誠の罪業』は、肉体的な苦痛をすべて遮断してくれます」彼女は淡々と説明した。「任務を遂行するためならば、この身体がどれほど破損しようと関係ありません」


そう言い終わるやいなや、再び猛スピードで突進してくる。キシリに思考を巡らせる暇など与えない。


月明かりの下、薄い雲間から差し込む光を浴びながら、終わりなき斬り合いが続いた。キシリの体力が目に見えて削られていき、全身には小さな傷が無数に増えていく。一方のアイリスは、初期と変わらぬ高速の動きを維持し、疲労の色を一切見せない。


(このままでは、確実に押し切られて負ける……)


脳裏に危機感がよぎり、状況を覆すための打開策を必死に探る。再び、視界の隅に古びる井戸が映った。


キシリはわざと井戸の方向へと後じさっていく。アイリスは罠だとも気づかずに、その足取りを追うように迫ってきた。


十分に距離が詰まった瞬間、キシリは素早く横へと跳び退き、朽ちかけていた井戸の縁を勢いよく蹴り飛ばした。古びた石が崩れ落ち、中に溜まっていた泥水が周囲の地面に飛び散り、足元を滑りやすい泥沼に変える。


案の定、アイリスはぬかるんだ足場に足を取られ、わずかにバランスを崩した。キシリはその千載一遇のチャンスを逃さず、一気に間合いを詰めて斬り込む。


再び二人の刃が交錯し、この夜最大の衝撃が周囲の空気を震わせた。静まり返った村中に金属の激突音が響き渡り、キシリは残されたすべての筋力を総動員して、相手の防御をこじ開けようと体重を浴びせた。


「……ずいぶんと強くなりましたね」アイリスの声に、初めてかすかな関心が混じった。「あの謎の力に選ばれた人間だけのことはあります」


「そんな力のことなんて知るか!」キシリは叫び声を上げ、さらに力を込めた。「これ以上、この村の誰も傷つけさせない!」


その瞬間、キシリの胸の内部で、言いようのない奇妙な感覚が沸き起こった。かつて感じたことのある、身の毛もよだつほどの強烈な熱感が、体内の奥底からむくむくと這い上がってくる。彼女は思い出した。それは、あの適性検査の儀式の日、暴走した赤いエネルギーが体表を突き破ったときと同じ感覚だった。


(くそっ……こんなときに……!)


その熱を必死に抑え込もうとしたが、血管を伝うエネルギーの奔流はもはや制御を失いかけていた。完全には抑えきれず、彼女の周囲の空気が揺らぎ、淡い赤色のオーラが纏い始める。


アイリスはその変化を即座に察知し、発光する瞳をわずかに見開いて興味深そうに観察した。


「……なるほど」彼女は小さく呟いた。「リセルロット様がおっしゃっていたのは、これのことですね」


キシリの体内で暴れ回るエネルギーは、これまでの戦闘で使ってきたどの魔力とも異なっていた。もっと重く、もっと熱く、まるで肉体の内側からすべてを焼き尽くすかのような暴力的な熱量が、今にも爆発しようと暴れ狂っている。


彼女はアイリスから一歩大きく跳び退き、意識を保とうと必死に歯を食いしばった。両手でしっかりと刀の柄を握り締め、関節が白くなるほどに力を込める。


「……今だけは、暴れるな……!」自分自身に言い聞かせるように呟き、荒い息を整えながらあふれ出る力を必死に押し込める。


アイリスは少し離れた場所で静かに立ち尽くし、焦る様子もなくその様子を眺めていた。


「焦る必要はありませんよ」彼女は冷ややかなトーンで告げた。「あなたの本当の力がどれほどのものか、私は心ゆくまで見届けたいのですから」


重苦しい沈黙が、夜の広場を支配していた。キシリの荒い息遣いと、その身体を包み込むかすかな赤色の光だけが、この戦いがまだ終わっていないことを証明している。


己の内部で渦巻く得体の知れない力と孤独に戦いながら、キシリは傷だらけの体を支え、目の前に立つ冷酷な敵を強く睨み据えた。体力の限界と痛みが全身を蝕みようとも、彼女の瞳に宿る意志の炎だけは、決して消えることはなかった。

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