第63章 : 誓約の履行者
キシリの建てた古びた小屋の木戸は、きしむ音ひとつ立てずに開いた。まるで丹念に油を注がれた蝶番のようだったが、あるいは、その訪問者が物理法則に縛られた普通の人間ではないからかもしれない。
キシリは古びた木のベッドですやすやと眠っていた。静かで規則正しい寝息を立て、窓から侵入した一つの影が敷居のところで立ち止まり、長い間じっと自分を見つめていることなど、彼女はまだ知る由もなかった。
やがて影は静かに歩を進め、耳元へ近づき、夢の世界へと染み入るように囁いた。
「セラフィナ様……」
キシリはその声で瞬時に目を覚ました。本能的にベッドの脇に立てかけてあった刀へと手を伸ばし、視線を向けたその先には、窓から差し込む月明かりの中に佇む影があった。
白銀のロングヘアを揺らして静かに立つ女性。その淡く発光する青い瞳には、底知れぬ深い悲しみが隠されていた。彼女の視線は少し下方に向けられており、まるで正面から顔を合わすことを恐れているかのようだった。
彼女の纏う黒い着物はひどくはだけ、なめらかな肩と背中を露わにしている。その布地には青い波と雲の模様が走り、背中側には深い藍色の帯が大きなリボンに結ばれていた。
「セラフィナ様」彼女は再び口を開いた。その声は平坦でありながら、重みを含んでいた。「あのときの約束を果たしにまいりました」
キシリは慎重に上体を起こした。刀を握りしめたまま、警戒心を解かずに目の前の訪問者を睨みつける。
「約束……?」キシリはゆっくりと言葉を返し、たった今耳にしたばかりの言葉の意味を探った。「何の約束だ」
「地下牢で、あなたが意識を失いかけていたときです」アイリスは淡々と答えた。まるで暗記した台本を読み上げるかのような平坦な声だった。「リセルロット様があなたにこうおっしゃいましたよね」
キシリはわずかに動きを止めた。あの暗黒に閉ざされた地下牢の記憶が、頭の奥からじわりと蘇ってきた。荒い息遣いと、途切れそうな意識の狭間で――妖しくも甘く、そして奇怪な魔力を孕んだ鈴を転がすような声が、再び脳裏の聴覚に響き渡る。
「――復讐のための力が欲しいのなら……この試練を1ヶ月間耐え抜いてごらん。生き延びることができたなら、この私が力を授けてあげるわ」
あの時、あの言葉は意識を飲み込む暗闇の中を漂っていた。だが、全身を駆け巡る激痛で肉体がしびれきっていた彼女には、そのすべてがただの遠い雑音にしか聞こえなかった。謎の声が何を囁いているのかなど、理解する余裕すてなかった。自分の肉体と精神が認識していたのは、ただ終わりのない闇と、数え切れないほどの激痛だけ。そしてすべては、あの地獄の初日の夜とともにプツリと途切れたのだ。
「なんとなく、記憶の片隅にあるような気もするがね」キシリはついに口を開いた。鋭い眼光は変えずに、用心深く相手を観察する。「それよりもお前だ。どうやって私を見つけた。しかもその格好はなんだ」
彼女は一度言葉を切り、毅然とした口調で付け加えた。
「それに、その約束とやらの返答だが――たとえそれが何の話しであれ、断る」
「何を不思議がっていらっしゃるのですか?」アイリスは表情を変えずに問い返す。「私にはセラフィナ様と同じ銀の髪があります。だからこそ、分かり合えると思っていましたし、自分のすべてをリセルロット様に捧げてもいいとさえ思っていましたから」
キシリは眉をひそめ、混乱を深めた。「そういう意味じゃない」彼女の声に少し強さが宿る。「それに、私聞いているのは、なぜお前がそんな状態になっているのか、そしてどうやって私を嗅ぎつけたのか、その理由だ」
窓から差し込む月明かりが、アイリスの髪の根元で怪しく光る青い蝶の髪飾りを捉えた。その光が反射し、壁にかけられた小さな手鏡に当たる。その瞬間、彼女の無防備な背中がくっきりと照らし出された。
両肩のちょうど中間に位置する場所に、矢あるいは刀が突き刺さったような刻印があった。肩から首筋にかけては滑らかな曲線を描く刺青の文様が走り、背中の中心にある痛々しい火傷の痕には、こう刻印されていた。
「Slave(奴隷)」
その光景を目にした瞬間、キシリはわずかに目を見張り、息をのんだ。
「鮮やかな血痕があちこちに飛び散っています」アイリスは淡々と言葉を続ける。まるで他人の天気予報でも実況するかのような平穏なトーンだった。「右の頬、首筋、背中、着物に至るまで……そして、私の愛刀であるカタナの刀身にも、たっぷりとこびりついていますよ」
彼女は一度言葉を止め、再びうつむいた。
「すべては、この村に暮らしていた人たちの血ですから」
キシリは全身を凍てつくような寒気が駆け抜けるのを覚えた。刀を握る手に自然と力が入る。
「今私が纏っているこの衣装こそ、血統の力が完全に覚醒した証しです」アイリスはさらに言葉を重ねた。「そして、それは私にしか扱えない独自の形態なのです」
「お前……」キシリはかすれた声で呟き、すさまじい勢いでベッドから跳ね上がった。その手にある刀の切っ先が、寸分の狂いもなくアイリスを指し示す。「この村の人たちを……殺したのか」
怒りと動揺が、彼女の瞳の中で激しく渦巻いていた。あのとき、自分をごちそうでもてなしてくれた老人の顔、スライムの肉を温かく取り分けてくれたおばあさんの顔、村を駆け回る子供たちの笑顔――そのすべてが、次々と頭の中に蘇ってきた。
「この村の人たちは、こんなこと何の関係もないはずだ!」キシリは怒りに震え、掠れた声で怒鳴り声を上げた。
アイリスは相変わらず冷めた目で彼女を見つめている。その顔には、罪悪感の色も、痛みの感情の欠片すらなかった。
「あなたを見つけることなど、私にとっては造作もないことでした」彼女は質問を完全に無視して話を続ける。「私には『忠誠の罪業』という力が備わっています。忠誠心に満ちた精神さえあれば、私の配下にある他のしもべたちの視覚を共有することができるのです。兵士、メイド、庭師に至るまで、彼らが目にするすべての情報を、私は自分のものとして網羅できるのです」
キシリは静かに立ち尽くした。心臓は激しく波打っているが、刀を握る手はかえってしっかりと固定されていく。
「つまり、お前のしもべたちが見たものは、すべてお前にも見えていたということか」キシリは事実を頭の中で組み立てながら尋ねた。「そして、そのスパイたちにあらゆる場所をしらみつぶしに探させて、私を見つけ出したと」
「だいたいそんなところです」アイリスは隠す様子もなく認めた。「誰も見向きもしないようなこんな小さな村は、隠れ住むにはもってこいですが……逆に、私があらゆる手下を使って捜索するには、これ以上ない好都合な場所でもありましたから」
「お前も、あのリセルロットと同じ人間のクズってわけだな」キシリの声音は一段と低く、冷たくなった。「普通の魔法とは違う、気味の悪い異能力に頼る連中はどいつもこいつも……」
アイリスはわずかに口角を上げた。それが彼女にとって初めて見せた笑みだったが、そこには温もりなど一片も存在しなかった。「リセルロット様がかつて賞賛していらした通り、あなたは本当に頭の切れるお方だ」
キシリは一歩後ろに下がり、一瞬で周囲の状況を脳裏で計算した。手狭なこの小屋では、立ち回りの制限が多くて戦闘には不利だったが、今更他の選択肢など残されていなかった。
「お前が本当にこの村の連っちを殺したのなら――これ以上、お前を生かして帰すわけにはいかないな」
彼女は刀をさらに強く握り締め、一瞬たりとも目を離さずにアイリスの微細な動きを捉えようとした。
「私から一体、何が欲しい」キシリの声は氷のように冷え切っていた。「私が身に覚えのない約束をわざわざ果たしにきたわけじゃないんだろう」
アイリスは首をかしげ、淡い光を放つ青い瞳でキシリを品定めするようにじっと見つめた。
「ただの試したかっただけですよ」彼女の声に、わずかに冷酷な響きが混じり始める。「あの日のあの時、あの謎の暴走エネルギーから生き延びたセラフィナ様が、今の今までどれほど強くなっているのかをね」
そう言いながら、彼女は腰のあたりに吊るされていたカタナの柄へとゆっくり手を伸ばした。
「そして――もしあなたが素直に約束に従ってくださらないのであれば」アイリスの声音が明らかに変わった。「私も、実力行使に出るまでです」
小さな小屋の中に、重苦しい静寂が満ちていく。開け放たれた窓から吹き付ける夜風の音と、床に差し込む月光だけが、その空間の現実をかろうじて伝えていた。
キシリは全身の筋肉を極限まで緊張させ、次に起こる一瞬に備えて重心を落とした。
——やるしかないってことか。
心の中でそう呟き、彼女は足場をしっかりと固め、いつでも一撃を叩き込めるよう刀を構えた。
アイリスはゆっくりと、鞘からカタナを引き抜き始めた。金属がこすれ合う微かな音が静寂の中に響き渡る。その切先が、月明かりを浴びて妖しく鋭い光を放った。
わずか数歩の距離を挟んで対峙する二人の少女。
その運命が激突する瞬間は、もうすぐ目の前まで迫っていた。




