第48話 : 闇の中での会話
まるで存在していないかのようなかすかな足音が、王宮の暗い廊下を進んでいく。
靴が床に触れる音は一切なく、壁に伸びる影すらない。
まるで、その歩く者が普通の人間ではないかのように。
リゼロットの部屋の扉が、音もなくひとりでに開いた。
セネステアは完全な暗闇の中へと足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉める。
その音すら、まったく響かなかった。
リゼロットは化粧台の前に座って待っていた。
扉には背を向けているが、鏡に映った来訪者の姿を見つめている。
「セネステア」
彼女は口を開いた。
昼間に誰かへ向けるものよりも、はるかに冷たい声だった。
「これ、あなたの仕業なの?」
セネステアはさらに近づいてくる。
いつも浮かべていた柔らかな笑顔は、跡形もなく消えていた。
そこにあるのは、王宮の誰一人として見たことのないほど冷え切った表情だった。
「もうお伝えしたではありませんか」
彼女は平坦な声で答えた。
「わたくしが身体を支配しているときは、完全なる血統の継承者セネステアとお呼びください」
リゼロットは鏡から身体を回し、セネステアを真正面から見つめた。
鋭い眼差しが、彼女の一挙一動を見逃さない。
「言葉を弄するな」
低く険しい声で言う。
「あなたの仕業なのか、そうでないのか。それだけ答えなさい」
セネステアはわずかに微笑んだ。
そこには、温かさなど一欠片も残っていない。
「そのこと自体は予想していませんでした。でもね、今回起きたことは、むしろ以前よりもわたくしの計画に都合がよくなりましたわ」
「つまり、今度は本来の身体に戻らなくても、表に出てこられるということ?」
リゼロットが尋ねる。
その瞳には、初めて本物の興味が宿っていた。
「突然わたくし自身が変わってしまえば、怪しまれるでしょう?」
セネステアは説明しながら、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
「ですが、考え方を変えてしまうような出来事があれば、その不自然さを消すことができます」
彼女はテーブルの上に置かれていたワイングラスを手に取り、香りを嗅いだ。
しかし、一口も飲むことなく、そのまま置いた。
「そして今回の出来事によって、わたくしはもう一度封印を解くことなく、起源の精神を封じておくことができます」
「そのうえで、わたくしは莫大な魔力を持つセラフィーナを妬むセネステアになるというわけです」
リゼロットはセネステアの向かい側へ座り、両手の指を膝の上で組んだ。
「では、本当の起源は今どうなっているの?」
「心の奥底で、深い眠りについていますわ」
セネステアは答えた。
まるで何でもないことを話しているかのように、声は平坦だった。
「自分がわたくしに取って代わられたことすら知りません。自分はただ、厳しい修練を重ねすぎて疲れ果てているのだと思っているだけですわ」
「いつから、あなたが取って代わったの?」
セネステアは少し考えた。
まるで頭の中で日数を数えているようだった。
「彼女が高度な力の制御を学び始めた頃からですわ。その頃は身体が最も弱っていましたから。まさに絶好の機会でした」
リゼロットはしばらく黙り込んだ。
そして、今聞いた情報を素早く整理する。
「じゃあ、これまで私が話していた相手も、私のことを何でも褒めていた馬車の中のあの子も……」
「起源の精神ですわ」
セネステアは、わずかに笑みを深めた。
「楽しかったですわ。可愛らしくて無邪気な妹を演じるのは。わたくし自身には、身体を切り替えたときにわたくしの存在と、目覚めた血統の力を忘れるよう、脳に呪いを刻み込んでありますの」
「では、本物の起源は? 彼女は昔からそんな性格だったの?」
「いいえ」
セネステアは首を横に振った。
「彼女は高い魔力を持っているだけの、ごく普通の子供です。無邪気で、あまりにも誠実すぎる。わたくしが望む世界で生きるには、あまりにも純粋すぎますわ」
「なら、どうしてこんなことをする必要があるの?」
リゼロットは尋ねた。
その瞳には強い興味が宿っている。
「あなたはいったい、何を望んでいるの?」
セネステアはしばらく黙ったあと、答えた。
「わたくしには、わたくし自身の目的がありますの。お嬢様とそう変わりませんわ。ただ、そこへ至る道が違うだけです」
「どんな目的?」
「まだお話しする時期ではありませんわ」
セネステアは謎めいた笑みを浮かべた。
「ただ一つだけ言えるのは、今日、儀式の間で起きたことが、わたくしにとって非常に大きな助けになったということです」
リゼロットはセネステアを値踏みするように見つめた。
「なら、私たちには重なる目的もあるということね」
「そういうことになるでしょうね」
セネステアは頷いた。
「お嬢様は玉座を望んでいる。わたくしが望んでいるのは……別のもの。でも、どちらもセラフィーナが障害にならないことが必要ですわ」
「あなた、私の力のことも知っているの?」
リゼロットが尋ねた。
そこには、わずかな驚きがあった。
それは彼女が感情をはっきりと表に出した初めての瞬間だった。
「野心の罪、でしょう?」
セネステアは即座に答えた。
「少し前から観察していましたの。お嬢様は周囲の人間の思考を、とても巧妙に操っている。でも、わたくしから隠し通せるほど巧妙ではありませんわ」
リゼロットはしばらく黙った。
やがて、小さく笑った。
王宮の誰一人として聞いたことのない笑い声だった。
「面白いわね。ここまで見抜かれるとは思わなかった」
「わたくしも普通の人間ではありませんから」
セネステアは答えた。
その声には、わずかな誇りが滲んでいた。
「それなら、どうして今になって私のところへ来たの? どうして自分の正体を明かすの?」
セネステアはしばらく考えてから答えた。
「わたくしたちは、それぞれ勝手に動くよりも、手を組んだほうがうまくいくと思ったからですわ。少なくとも今のうちは。わたくしたちの目的が本当に衝突し始める、その時までは」
「どんなふうに協力するの?」
リゼロットが尋ねる。
その眼差しには警戒と興味が入り混じっていた。
「わたくしは、これからもセラフィーナのことをお嬢様が望む形で処理するのをお手伝いしますわ」
セネステアが提案する。
「わたくしの得意なやり方で。そしてお嬢様は、イセキエルとご自身の地位について、これまで通り計画を進めればいい」
「その代わり、あなたはこの件から何を得るの?」
「ただ、本来の身体に戻らなくて済めば、それで十分ですわ」
セネステアは答えた。
その顔には、謎めいた笑みが浮かんだままだった。
「本物の起源が、このまま心の闇の中で眠り続けてくれれば、それだけで十分です」
リゼロットは長い間、黙って考えていた。
そして、冷たい声で口を開く。
「あなたをどうやって信用しろというの? あなた自身、ずっと信用できない人間だと振る舞ってきたじゃない」
セネステアは小さく笑った。
「お嬢様も同じではありませんか。わたくしたちは二人とも、ずっと仮面を被ってきた。信用について語る資格など、誰にもありませんわ」
「ですが、一つだけ正直に申し上げます。わたくしがお嬢様を裏切らないということが、起こらないはずがありませんから」
「なら、今は一時的な利害の一致というだけね」
「その通りですわ」
セネステアは頷いた。
「ですが、今のところは一人で動くより、互いに利益を得られるほうが価値があります。少なくとも、わたくしたちの目的が本当に衝突し始めるまでは」
「それで、今日セラフィーナの身体から噴き出した力は?」
リゼロットは話題を変えた。
「あなたは、あれが何なのか知っているの?」
セネステアはしばらく黙った。
その表情が、初めてわずかに真剣なものへと変わった。
「わたくしにも、百パーセント確信があるわけではありませんわ。でも、感じ取った限りでは、あのエネルギーは普通の魔法とはまったく違います」
「どういう意味?」
「本来あるべきものより、はるかに古い」
セネステアは慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと口にした。
「そして、お嬢様やわたくしが想像できる以上に危険ですわ」
リゼロットは聞き終えると、しばらく黙り込んだ。
これまで抱いていた自信が、再び揺らぎ始める。
「なら、セラフィーナは単純に処理できる程度の障害ではないかもしれない」
「そうかもしれませんわ」
セネステアは認めた。
「でも、それは同時に好機でもあるかもしれません。正しい使い方さえ分かれば」
「どういう意味?」
「もしセラフィーナの中に、本当に何か隠された力があるのなら」
セネステアは説明しながら、何かを思いついたように瞳を輝かせた。
「彼女を直接排除することは、もはや最善の選択ではないかもしれませんわ。彼女を支配するか、あるいはその力を引き出して利用するほうが、価値があるかもしれない」
「ですが、完全に排除してしまうという選択をしたほうが、結果としては最も良いでしょうね」
リゼロットは長い間考え込んだ。
頭の中で、様々な可能性を整理していく。
「何か方法を考えているの?」
「まだ何とも言えませんわ」
セネステアは率直に答えた。
「まずは、さらに調べる必要があります。あのような力は、一晩で理解できるようなものではありませんから」
「なら、今はただ状況を見守るだけね」
「はい」
セネステアは頷いた。
「少なくともセラフィーナが目を覚ますまでは。そして、彼女があの力をどう扱うのかを見る。それから、王宮のほかの者たちに何か反応があるかどうかも」
二人はその後もしばらく話し合いを続けた。
これからの行動について、細かな計画を立てていく。
他人の前での振る舞い方。
必要なときに互いへ情報を伝える方法。
そして、緊急事態が発生した際に知らせ合うための秘密の合図。
やがて、会話が終わりに近づいた。
セネステアは椅子から立ち上がる。
「誰かに怪しまれる前に、そろそろ戻ったほうがよさそうですわ」
「エリスには何も聞こえていないでしょうね?」
リゼロットが警戒しながら尋ねる。
「ええ」
セネステアは小さく微笑んだ。
「誰にも何も聞かれず、何も見られないようにする方法なら、わたくしにはありますから」
セネステアが部屋を出ようとした、そのとき。
リゼロットが再び声をかけた。
「セネステア」
彼女は振り返った。
「はい?」
「もし、あなたが私を裏切ろうとしたら、そのときは絶対に許さないわ」
セネステアは大きく微笑んだ。
そこには楽しげな気配と、危険な気配が同時に混じっていた。
「お嬢様も同じですわ。わたくしも、しっかり見張らせていただきますから」
彼女は暗闇の中へと歩き去った。
その足音は、やって来たときと同じように静かだった。
まるで、そこには最初から誰も存在していなかったかのように。
リゼロットは暗闇の中で一人、閉じられたばかりの扉を見つめていた。
頭の中では、無数の考えが渦巻いている。
「この世界は、本当に見た目通りではない人間ばかりね」
彼女は心の中で呟きながら立ち上がり、窓辺へ歩いていく。
そして、王宮を覆い尽くす夜の闇を見つめた。
「本物のセネステアは、自分自身が心の闇の中で眠っていることなんて、きっと知る由もない。そして、セラフィーナは……」
そこで彼女は一度、思考を止めた。
そして、自分の計画に生まれたばかりの不確定要素を思い浮かべ、薄く笑った。
「このゲーム、今まで以上に面白くなってきたじゃない」




