第45話 : 隠された亀裂
宴は賑やかに執り行われていた。
静かな音楽が心地よく響き渡り、楽しげな笑い声と賓客たちの歓談がそれに花を添える。
セラフィナとセネスティアは、祝福の言葉を贈ろうと歩み寄る貴族たちの一人ひとりに、丁寧にお辞儀を返しながら広間を巡っていた。
「今年の姫殿下方は、一段と可愛らしくあられますな」
ある貴族の男が満面の笑みを浮かべながら声をかける。
「ありがとうございます」
二人が声を揃えて応えると、思わず顔を見合わせて可笑しそうに笑い声を上げた。
会場全体が温かな幸福感に包まれる中、広間の隅から静かに注がれる視線に気づく者は誰一人としていなかった。
少し離れた場所に佇むリゼロットは、別の賓客グループへ挨拶に向かうセラフィナの背中を見つめていた。その瞳は、眼前の状況を素早く、そして冷徹に計算している。
彼女は近くで控えていたエリスへ歩み寄ると、耳元で短く何かを囁き、すぐにその場を離れた。
エリスは疑問のの色を一切見せることなくその指示を頷きで受け止めると、割り当てられた己の役目を果たすべく静かに動き出した。
軽食の並ぶ tableの近くで、セラフィナは挨拶の合間のひと息をつこうとグラスを手に取っていた。
その時だった。
トレーを手にした一人の従者が絨毯の端にわずかに足をすくわれ、体制を崩した。トレーが大きく傾き、グラスに注がれていた赤いジュースが、セラフィナのピンクのドレスの裾へとなみなみと飛び散る。
「きゃっ……!」
周囲から小さな悲鳴が上がった。
「も、申し訳ございません、殿下……! 大変なご無礼を……!」
従者は顔を蒼白にし、恐怖で震えながら必死に頭を下げた。
セラフィナはドレスに広がったシミを見つめ、少し驚いたものの、すぐに優しく微笑んで従者を宥めた。
「構いませんよ。事故は誰にでもあることですわ」
――誰も気づいてはいなかった。
そのわずか数十秒前、エリスがまさにその場所を通り過ぎていたことを。そして従者が足をすくわせた絨毯の場所には、本来あるはずのない不自然な『たわみ』が作られていたことを。
失態を犯した従者自身すら、それが自身の不注意によるものなのか、誰かの手によって仕組まれた罠であったのかを知る由もなかった。
一部始終を目にしたセネスティアが急いで駆け寄ってくる。
「セラ、大丈夫!? ドレスを着替えに行きましょうか?」
「大丈夫ですわ」
セラフィナは答えた。
「ほんの少し汚れてしまっただけですもの。問題ありませんわ」
それからしばらくして。
広間の喧騒から離れ、少しだけ息抜きをしようと王宮の中庭へと向かう途中、セラフィナは滑らかに磨かれた大理石の廊下を歩いていた。
突如として、彼女のローヒールが不自然な湿り気を帯びた床の上で不意に滑った。
転倒することこそ免れたものの、彼女は大きく体勢を崩してしまう。
「危ない……!」
通りかかったイゼキエルの声が響くと同時に、彼の手がすばやく伸び、セラフィナの腕をしっかりと支えた。
「ありがとうございます、お兄様……」
セラフィナは呼吸を整えながら胸を撫でおろした。
「ここ……どうしてこんなに滑るのかしら」
「おかしいな……」
イゼキエルは不審そうに床を見つめた。
「先ほど通りかかった時は、異常などなかったはずだが」
つぶさに観察すれば、その床には薄っすらと『油分』のようなものが塗られているのが分かったはずだった。直前に清掃が入ったばかりの廊下に、本来存在するはずのないものが。
数秒前に何食わぬ顔で反対方向へと去っていった一人の従者の存在に、気づく者は誰もいなかった。
事態の目撃者となったリゼロットは、誰よりも心からの心配を装った表情を浮かべ、急ぎ足で二人の元へと駆け寄ってきた。
「セラフィナ殿下、お怪我はありませんでしたか!?」
彼女は痛ましそうな声を上げる。
「遠目から見ておりましたけれど……なんて恐ろしい。お怪我がなくて本当にようございました」
「ええ、大丈夫ですわ」
セラフィナは応えた。
「少し驚いてしまっただけですもの」
セラフィナはその場に立ち尽くし、自分が足を滑らせた床をじっと見つめた。
リゼロットが近くにいる時に決まって感じるあの正体不明の違和感が、胸の中で急速にその濃度を増していく。
(どうして今日は……こんなにも不自然な出来事が重なるのかしら……)
彼女は心の中で呟いたが、それを口に出すことはしなかった。
単なる「ついていない事故」以上のものを示す証拠など、どこにも存在しなかったからだ。
「よろしければ、一緒に庭園をお散歩なさらないかしら?」
リゼロットが柔らかい微笑みを向ける。
「外の空気を吸えば、お気持ちも少しは落ち着かれるかと思いますわ」
「お気遣いありがとうございます。ですが……やはり会場へ戻ることにいたしますわ」
セラフィナは礼儀正しく、その申し出を断った。
夕刻となり、誕生祭の目玉である『ケーキカット』の儀式が始まった。
見事にデコレーションされた巨大なケーキの前に、セラフィナとセネスティアが並んで立つ。
二人が同時にナイフを握り締めようとしたその瞬間――隣のテーブルクロスが、唐突にかすかに滑り落ちた。
その振動でティーカップの載ったソーサーが傾き、なみなみと注がれていた温かいお茶がセラフィナの手元へと降りかかる。
「あっ……!」
熱さに小さな悲鳴を漏らし、彼女は反射的に手を引いた。
「セラちゃん!?」
セネスティアは驚愕し、慌てて妹の手を取って覗き込んだ。
「大丈夫!? 火傷になっていない!?」
「ええ……それほどではありませんわ」
皮膚は熱さでかすかに赤みを帯びていたが、セラフィナは妹を安心させるように答えた。
「少し、熱かっただけです……」
その瞬間、リゼロットが通常ではあり得ないほどの迅速さで、冷やしタオルを手に駆け寄ってきた。
「こちらをお使いください! すぐに冷やしましょう!」
「……ありがとうございます」
タオルを受け取り、赤くなった手を冷やす。じんと響いていた痛みが、少しずつ和らいでいった。
「本当に……今日は災難が続きますわね」
リゼロットは本気で心を痛めているような表情を浮かべた。
「この宴を担当した責任者をすり替えさせますわ。配慮が足りなさすぎますもの」
手元を冷やしながら、セラフィナは目の前でテキパキと事態を収拾していくリゼロットの姿を見つめていた。
(……どうして彼女は、あんなにも完璧なタイミングで『冷やしタオル』を用意できていたのかしら……?)
その疑問が一瞬だけ脳裏をかすめたが、彼女はすぐにそれを打ち消した。
リゼロットが人一倍、細やかな心配りができる人物だからに違いない――と自分に言い聞かせながら。
(私は……考えすぎているだけですわ。ただの偶然が重なっただけ……それ以上の意味なんて、きっとないはず……)
小さな事故に見舞われながらも、宴は再び華やかな熱気を取り戻した。
万雷の拍手と祝福の声に包まれながら、無事にケーキ入刀が執り行われる。
セラフィナとセネスティアは、集まったすべての人々と共に記念の笑顔を浮かべた。手に感じていた痛みの残り香も、いつしか綺麗に消え去っていた。
イゼキエルが妹たちの元へ歩み寄り、優しい笑みを向ける。
「今日は楽しめているか?」
「ええ、とても楽しかったですわ!」
セネスティアが即答する。
セラフィナもまた笑顔で頷いた。……胸の奥深くに、言葉にできない微かな『澱』を抱えたまま。
主要な儀式が終わりを告げると、オーケストラが優美な舞踏曲を奏で始めた。
思い思いのパートナーを取った人々が、次々と広間の中央へと滑り出していく。
イゼキエルは婚約者としてリゼロットの手を取り、舞踏エリアの中央へと向かった。
周囲からの羨望と賛美の視線を浴びながら、二人は寸分の狂いもない優雅さでステップを刻んでいく。
ダンスをそれほど得意としないセラフィナは、広間の壁際に佇み、楽しそうに踊る人々をただ眺めていた。それだけでも、彼女にとっては十分に満たされた時間だった。
ステップの最中、リゼロットがイゼキエルの肩越しに、壁際に立つセラフィナへと視線を走らせた。
ほんのコンマ数秒――。
二人の視線が交錯したその一瞬は、あまりにも短く、明確な意味を読み取ることは到底不可能だった。
けれど、セラフィナはその瞳の奥に宿る『何か』を、確かに感じ取っていた。
あまりにも一瞬の出来事に、それが現実の視線だったのか、あるいは己の妄想が見せた幻影だったのかすら判別がつかない。
セラフィナが呆然と立ち尽くす前で、リゼロットは何事もなかったかのように、再びイゼキエルへ向けて完璧で美しい微笑みを咲かせていた。
(……今のものは、一体……?)
心の中で自問してみても、明確な答えが返ってくることはない。
ただ……この一年間、リゼロットに対して抱き続けてきたあの微かな違和感が、今や明確な重みを伴って彼女の胸にズシリと沈み込んでいた。
言葉にして説明することは、まだできない。
だが、彼女の内に眠る『本能』という名の警告音が、これまでになく強く、鋭く鳴り響き始めていた。
宴が幕を閉じ、人々が去っていく中、セラフィナはその夜のために王宮内に用意された部屋のベッドに腰を下ろしていた。
お昼の事故で薄く赤みが残る己の手を見つめながら、今日という一日に起きた出来事を静かに反芻する。
(今日は……本当に色々なことがありましたわね)
ベッドへゆっくりと身体を横たえる。
一日中続いた祝宴の疲労がじわじわと全身を蝕んでいくが、舞踏の最中に目撃したあの『瞳』の残像だけは、どうしても脳裏から離れてくれなかった。




