第42話 : 誰よりも早く見つめていた者
レンは日課の巡回のため、南棟の廊下を進んでいた。
それは数年前、彼がイゼキエル皇子に付き従っていた道筋と同じものだ。
長い年月が過ぎ去った今でも、当時のあらゆる出来事が脳裏に鮮明と刻み込まれている。
(あの頃は……まさか事態がこれほど大きくなろうとは、思いもしなかった)
かつてイゼキエル皇子とセラフィナ王女が剣の手合わせをする様子を、陰から身を潜めて見守っていた建物の角を通り過ぎながら、レンは心の中で思索を巡らせる。
すべてが穏やかに解決した今、離宮に駐屯していた兵士たちはすでに引き揚げられていた。
レンはその場に足を止め、ここから遠くに見える離宮の庭園の垣根へ視線を向ける。
あの日、長官へと報告に向かった己の決断を、悔やんだことは一度たりともない。それは果たすべき正当な義務だったからだ。
だが、この数年間、そのことについて何度も思い返してしまっていたのもまた、否定できない事実だった。
(もしあの時……俺が無言を貫き、報告をしなかったとしたら、物語はどんな結末を迎えていたのだろうか)
その問いに対する答えを、彼は持っていない。
ただ解っているのは、最終的にすべてが良い方向へ収まったということだけだ。セラフィナ王女は皇帝陛下に認められ、皇室の絆は過去のどの時よりも温かく、強固なものとなった。
裏庭の側を通りかかった際、レンはすでに役目を退いた元侍従長が、道沿いのベンチでくつろいでいる姿を見つけた。
「長官……」
レンは敬意を込めて声をかける。
「お久しぶりでございます」
老人は振り返り、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「おお……レンか。最近は忙しそうで、なかなか顔を見かけんかったな」
「職務に追われておりまして」
レンはそう答え、促されるままその隣へと腰を下ろした。
「長官は……数年前の出来事を覚えていらっしゃいますか?」
レンの静かな声には、思慮深さが滲んでいた。
「イゼキエル皇子と離宮について、私がご報告を差し上げたあの件です」
元侍従長は頷き、その表情を思慮深く落ち着いたものへと変えた。
「覚えているとも……当時の宮中を揺るがす大事件だったからな」
「私は今でも、時折あの時のことを考えるのです」
レンは素直な胸の内を明かした。
「当時は、己が過ちを犯したのではないかと恐怖でいっぱいでした。自分の報告が事態を解決するどころか、より大きな問題を引き起こしてしまうのではないかと」
「お前の判断は正しかったよ」
老人は、現役の頃よりもずっと柔らかい声で言った。
「あの報告がなければ……物語がどこへ向かって肥大化していたか、誰にも分からんのだからな」
「ですが……陛下には長い間、ご心痛をおかけすることになってしまったのでは」
レンは当時、毎週のように提出していた動向報告書を思い起こし、言葉を挟んだ。
「それは、陛下ご自身がお納めになるべきお重荷だ」
元侍従長は答える。
「お前の役割は真実を報告することまで。決断を下すのは、最高権力者の領分なのだからな」
二人が言葉を交わしていると、当時離宮の警備を担当していた二人の騎士が通りかかった。
配置転換こそされたものの、二人は今も宮中で奉職している。
「レン様」
騎士の一人が声をかけてきた。
「お久しぶりでございます」
「離宮の警備を解かれてから、皆はどうしている?」
レンが気遣うように尋ねると、もう一人の騎士が答えた。
「我々は中央棟の配属となりました。……ですが、あの頃のことは今でも忘れられませんよ。毎日、出入りするお時間を細かく記録していたあの日々を」
「あの頃のセラフィナ王女殿下は、まだ本当に小さくていらっしゃいましたね」
最初の騎士が過去の光景を思い描くように言葉を繋ぐ。
「子供らしい好奇心で、我々に頻繁にお声をかけてくださったのを覚えております」
「あの頃の俺たちは、どこか罪悪感を抱いていたものさ……」
もう一人が付け加える。
「何も知らぬ無邪気な姫殿下を、陰から監視するような真似をしていたのだからな」
元侍従長は静かに耳を傾けていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「皆、己の職務を全うしたまでだ……誰一人として、責められるべき者などおらんよ」
レンも深く頷き、同意を示した。
「こうしてすべてが良い方向へ解決した姿を目にすると……胸の閊えが取れる思いです」
「姫殿下と皇子殿下の仲も、随分と睦まじくなられましたしね」
最初の騎士が嬉しそうに言う。
「お二人で夜会に出席されるお姿を、頻繁にお見かけしますよ」
「それに、セネスティア王女殿下も皇室の一員として温かく迎えられた」
もう一人の騎士が続ける。
「昔に比べて、ずっと温かく……完璧な形になられたと感じます」
彼らはその後も長い間腰を下ろし、思い出話に花を咲かせた。
誰一人として全貌を知らぬ巨大な叙事詩の中で、それぞれが小さな歯車として果たした役割を振り返りながら。
「あの時は、本当に恐ろしかったのです……」
レンは己の感情を確かめるように繰り返した。
「皇子殿下のお命に関わる報告を軽々しく差し上げたとして、お咎めを受けるのではないかと」
「だが結局のところ……お前に何のお咎めもなかったではないか」
元侍従長は目を細めて微笑んだ。
「それこそが……陛下がお前の正しさを深くご理解されていたという、何よりの証左だ」
「私はただ……」
レンは少しだけ声を落とした。
「……もしこれが全く別の状況であったなら、同じ判断が果たして正解と言えたのだろうか、と……今でも考えてしまうのです」
元侍従長は、深い理解の込められた眼差しでレンを見つめた。
「それこそが重要なのだよ……だからこそ、お前はその職務に相応しい。思考を放棄して指示に従うのではなく、常に問い続け、己を省みることができるのだからな」
レンは胸を打たれ、深く頷いた。その言葉の持つ重みと深みが、じんと心に染み渡っていく。
やがて会話が一段落すると、二人の騎士は職務へ戻るべく礼をして去っていった。
ベンチには再び、レンと元侍従長の二人だけが残される。
「話を聞いていただき、ありがとうございました……」
レンは呟いた。
「こうした思いを、誰かに打ち明ける機会など滅多にありませんでしたから」
「いつでも来るといい」
老人は優しく答えた。
「こうした話はな……たまには誰かに吐き出さねばならん。一人で抱え込むものではないのだよ」
レンは薄く微笑んだ。胸の中が、会話を始める前よりもずっと軽く、晴れやかになっているのを感じていた。
「お前はいつだって見事に職務を果たしてきたさ、レン……」
二人が立ち上がり、別れを告げる直前、元侍従長が言った。
「あの陛下とて……表にはお出しにならんが、お前のことを誰よりも買っておられるのだからな」
「……ありがたきお言葉にございます」
レンは深い感謝を込めて応えた。
背筋を正して一礼し、深々と頭を下げる。
そして彼は、自らに課せられた次なる職務を果たすため、静かに歩みを進めた。




