第38章 : 残されたもの
カリステルは書斎の机の前に佇んでいた。その華奢な手には、数ヶ月前にセラフィナ王女から届いた返信の手紙が握られている。美しい双眸は、そこに綴られた文字を何度も、何度繰り返して読み返したか分からない。
彼女は身を起こすと、常に厳重に鍵が掛けられている木製の引き出しへと真っ直ぐ歩み寄った。その奥には、一箱の小箱が極めて大切に保管されている。
木箱の蓋を開けると……中に納められていたのは、肌触りの良い柔らかいハンカチであった。手刺繍で花模様が施されている。その針目は決して洗練された完璧なものとは言えなかったが、縫い進められた一針一針には、あまりにも純粋な真心が満ちあふれていた。
(セラエルが私にくれたもの……この王宮へ足を踏み入れたばかりの頃に)
カリステルは、セラエルがこのハンカチを手渡してくれた日のことを思い返した。当時のセラエルは、まだ王宮のあらゆるものに対して臆病で、人見知りな少女に過ぎなかった。
「私の刺繍は、まだあまり上手ではないのですが……」セラエルは恭しくハンカチを差し出しながら、そう言葉を口にしていた。「……ですが、いつも優しく温かく接してくださるカリステル様に、感謝の気持ちをお伝えしたかったのです」
カリステルは柔らかな笑みを浮かべてハンカチを受け取った。「最も大切に保管させていただきますね」
まさか自分が、これほどまでに真剣にその誓いを守り続けることになろうとは思いも寄らなかった。このハンカチは十三年もの間、彼女の傍らにあり続け、喜びの時も深い悲しみの時も共に歩んできたのだ。
カリステルは愛おしむようにハンカチを優しく撫でると、慎重に木箱の中へと仕舞い直した。
(もしセラフィナ王女がこれほどまでに美しく、気高く成長された姿をセラエルが見たなら……きっとどれほど喜び、幸せに思ったことでしょう)
王宮の別の場所では、マエスターが魔法の教授道具を準備するための個人保管庫の中に佇んでいた。そのしなやかな手には、小さな指輪が一つ握られている。高価な宝石の装飾など一切ない、ごくシンプルな銀の指輪だった。
彼女は言葉では言い表せない感慨を抱きながら、その指輪を慈しむように見つめていた。
(セラエル様がくださったもの……私に文字の読み書きを教えてくださっていた頃に)
現在でこそ名高い魔法講師となったマエスターだが、かつては文字の読み書きすらできない身分の低い一使用人に過ぎなかったこと、そしてセラエルこそが文字の世界を教えてくれた最初の人物であったことは、これまで誰にも明かしたことがなかった。
マエスターはある日の午後のことを今でも鮮明に覚えている。通りかかったセラエルが、本を見つめたまま混乱と絶望に暮れていた自分に目を留めた時のことを。
「読めないのですか?」セラエルは蔑みや見下す色など微塵もない、あまりにも優しい声で尋ねてくれた。
当時のマエスターは恥ずかしさのあまり、ただうつむくことしかできなかった。「私は……一度も学問を修める機会がございませんでしたから」
「それなら……私が教えてあげましょう。恥ずかしがる必要などありませんわ」
その日以来、セラエルは暇を見つけてはマエスターのもとへとお忍びで通い、読み書きを教え続けた。やがてマエスターは流暢に読み書きができるようになり……それがきっかけとなってさらに深遠な魔法学を修め、類まれなる能力を持つ魔法講師へと上り詰めることとなったのだ。
「セラエル様が亡くなられる数ヶ月前、私の努力と熱心な学びへの感謝の証として、このシンプルな銀の指輪を贈ってくださいました。今でも大切に保管しておりますわ」
マエスターはローブの下に隠されたネックレスから、この指輪を一度たりとも外したことはなかった。
まさにその日、カリステルは公務の合間に魔法教室の近くにある庭園を通りかかった。ふと見ると、路傍のベンチにマエスターが一人で腰掛けており、その手に何かを握りしめているのが目に入った。遠目からは小ぶりな装飾品のように見える。
カリステルは干渉するつもりはなかったのだが、近づくにつれてその指輪の姿が明確に見えてきた……どこか見覚えのある、奇妙な懐かしさを覚える形状だった。
「すみません……」カリステルは足を止め、声をかけた。「その指輪……どこかで見覚えがある気がいたしまして」
マエスターは驚いて顔を上げると、慌てて指輪をローブの下へと隠した。「カリステル様……」
「心配なさらないで」カリステルは招かれずとも隣のベンチへと腰を下ろした。「ただ、その指輪にどのような由来があるのか、少々気になっただけなのです」
マエスターは一瞬躊躇したものの、意を決してありのままを答えることにした。「……セラエル側妃様が、私に賜ったものにございます」
カリステルは一瞬息を呑んだ。様々な感情が胸の中に怒涛のように押し寄せてくる。「あなた……セラエルと知り合いだったのですか?」
「はい」マエスターは頷いた。「あの方が、私に文字の読み書きを教えてくださいました……今の私が魔法講師として立つより前のことにございます」
カリステルは携えていた小箱を丁寧に取り出すと、蓋を開けて、中に収められたハンカチの写真をマエスターに見せた。
「この写真のハンカチもまた、セラエルが私にくれたものなのです」カリステルの声は、明らかに柔らかさを帯びていた。「王宮に来たばかりの頃、彼女が自らの手で刺繍してくれたものですよ」
マエスターはそのハンカチの写真を見つめ、胸の奥から温かいものが込み上げてくるのを感じた。「あの方は……本当に美しく、慈愛に満ちたお方でございました」
「ええ……」カリステルも頷いた。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。「この世界には……あまりにも惜しいほどに、優しく美しかった」
二人の女性は、久しい前にこの世を去った一人の少女との愛おしい思い出に浸りながら、しばらくの間、静かに並んで座っていた。
「存じ上げませんでした……カリステル様がこれほどまでにあの方と深いお仲であったとは」やがてマエスターが口を開いた。
「誰も知らないことですもの……」カリステルは答えた。「あの子が逝ってしまってから……私は誰にもこの話を口にしなくなりました。何度も口にするには、あまりにも胸が痛みすぎるのです」
「私も……左様でございます」
カリステルは、胸の中に芽生えた新たな感情とともにマエスターを見つめた。「とても誇らしく、嬉しいわ……あの子を同じように愛し、記憶にとどめてくれている人が、私以外にもいたのだと知ることができて」
「私もにございます」マエスターは薄い笑みを浮かべた……そこには哀愁と、確かな温もりが同居していた。
「時に……私達で、もっとこうして語り合う時間を持ちましょうか」カリステルが提案した。「少なくとも、あの子を今も愛し、覚えている私達の間だけでも」
マエスターも同意の意を込めて頷いた。「喜んでお受けいたします」
「それから……」カリステルが一瞬言葉を詰まらせた。「……あの子の娘であるセラフィナ王女殿下にも、いつか伝えるべきでしょうね。母君がいかに多くの善行をなし、周囲の人々に美しいものを残していかれたのかを」
「おっしゃる通りでございます」マエスターも同調した。「いつの日か……どなたかが、この美しき物語を殿下に語り聞かせるべきでございますわ」
二人はその後も長い間語り合い、それぞれの胸の奥に大切に仕舞われていたセラエルの思い出を分かち合った。誰も知ることのなかった温かなエピソードが、少しずつ紐解かれ、共有されていく。
やがて別れの時が訪れると、二人は会話を始める前よりもずっと軽やかで、穏やかな心持ちで立ち上がった。
「ありがとう……すべてを話してくれて」カリステルが言った。
「私の方こそ、感謝申し上げます」マエスターが応える。「このようなお話を誰かと分かち合える機会など、これまで一度もございませんでしたから」




