第33章: 王宮へ
出発の朝。ヴェレンコート家の紋章が施された豪華な馬車は、黎明の光が差し込む頃からすでに万全の準備が整えられていた。リセロットは邸宅の門前に立ち、質素ながらも細部まで繊細に仕立てられた淡い色の旅装を身に纏っている。その佇まいは、気品ある優雅さと謙虚さを漂わせていた。
当主である父が、隠しきれないほどの喜びに胸を膨らませ、娘を見送るために歩み寄ってきた。「身体に気をつけてな……忘れるなよ、我が一族の栄誉と未来は、今や全てお前の肩にかかっているのだから」
「お父様のご期待を裏切るようなことはいたしません」リセロットは柔らかく微笑み、深々と一礼を捧げた。
その背後にはイヴリンとアドリアナが控えていた。二人の表情には祝福の意と、どこか一言では言い表せない複雑な感情が入り混じっている。
「気をつけて行ってね……」イヴリンは歩み寄ると、妹を優しく抱きしめた。
「もし少しでもお暇ができたら……王宮での出来事を手紙で知らせて頂戴ね」アドリアナもまた、笑みを浮かべて言葉を添える。
リセロットは二人の姉に対し、可憐で温かな笑みを返した。「ええ、もちろんですわ、お姉様」
馬車の傍らでは、エリスが控えめに待機していた。両手には主人の荷物や旅鞄をしっかりと抱え、その表情と眼差しは静まり返り、長旅への覚悟を伺わせている。
「準備はいいかしら……エリス」リセロットが歩み寄りながら問いかけた。
「はい、お嬢様。いつでも結構でございます」
二人の女性は共に馬車へと乗り込んだ。見送りに集まった使用人たちの歓声と祝福の声を背に、馬車列はゆっくりと邸宅を後にしていった。
馬車は広大な田園風景や小さな村々を何事もなく滑らかに走り抜けていく。リセロットは静かで冷ややかな表情のまま、車窓の外の景色をじっと眺めていた。その感情の揺らぎは完璧に覆い隠され、誰一人として伺い知ることはできない。
向かい側に座るエリスは、常に主人の様子に気を配り、何を求めているかを伺っていた。
「お嬢様……少し緊張なさっておられますか?」エリスが控えめな声で尋ねた。
リセロットは視線を彼女へ戻し、かすかな笑みを浮かべた。「ええ、少しね……見知らぬ土地へ踏み出す以上、常に不確定な事態は付きものだもの」
「ですが、お嬢様なら絶対に上手くおやりになられますわ」エリスは溢れんばかりの忠誠心と確信を込めて言った。
リセロットは小さく頷くと、それ以上は何も語らず、再び窓の外の景色へと視線を戻した。
長々と続く街道を馬車が走り続ける中、リセロットは視線の端でエリスを盗み見た。相手のあらゆる仕草に、純粋な忠誠心がはっきりと表れているのを見て取る。
(エリスは、私がこれまで作り上げた中で最も完璧な道具……)心の中でそう呟く。
(決して揺らぐことのない忠誠心なんて、大した労力をかけずとも手に入る。誰も見向きもしなかった日に、ほんの小さな希望の手を差し伸べてやっただけでいいのだから)
彼女は再び窓の外へと視線を向けた。薄い唇が、どこか深遠で妖しい笑みを刻む……エリスが決して気づくことのない、密やかな笑みを。
(あの王宮の中には……私にはまだまだこういう人間が必要なのよ。疑問すら抱かず、私のために全てを捧げてくれるような人間がね)
馬車列が王宮を囲む巨大な城壁へと近づくと、リセロットは即座に身なりと態度を整えた。婚約者候補という立場に相応しく、背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上で重ね、気品あるおしとやかな佇まいを取り戻す。
城門の衛兵は重要書類を念入りに確認した後、王宮の巨大な門を開放して馬車を通した。精緻に手入れされた広大な庭園を抜け、馬車は彼女の滞在のために用意された右翼の離宮へと一直線に向かっていく。
「お嬢様、到着いたしました」馬車が完全に停車すると、エリスが声をかけた。
リセロットが窓から外を覗くと、目の前にはこれからの新たな住処となる、絢爛豪華で目を見張るような建物がそびえ立っていた。
(ついに……始まりの場所へ辿り着いたわ)
離宮の前では、内務総管をはじめとする大勢の女官たちが到着を出迎えていた。
「王宮へようこそお越しくださいました、リセロット様」総管の女性はそう言葉を掛けながら、膝を折って深々と礼を捧げた。「奥向きにてお部屋の準備は全て整えております。何かご入用のものがございましたら、いつでも私どもにお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます」リセロットは親しみやすさと礼儀正しさに満ちた笑みを浮かべて応えた。
女官たちの案内で、彼女は洗練された装飾が施された広々とした離宮へと足を踏み入れた。寝室のすぐ隣には、プライベートな小庭園が併設されている。
「とても素晴らしくて、感銘を受けましたわ」リセロットは心から感銘を受けたかのような、感情豊かな声で呟いた。
一通りの配置が完了し、エリスが寝室での荷ほどきを終えると、リセロットは窓辺の椅子に腰を下ろした。薄暗くなり始めた黄昏時、王宮の庭園が夜の闇に包まれていく様をじっと見つめている。
「お嬢様……他にお言いつけはございますか?」エリスが恭しく尋ねた。
「いいえ、もう十分よ……ありがとうエリス、あなたも休みなさい」
エリスは深々と頭を下げると、ゆっくりと部屋を退出し、静かにドアを閉めた。
一人きりになると、リセロットは静かに窓辺に座り続けた。庭園の回廊に沿って、ぽつぽつと灯され始めたろうそくの火をただ見つめている。
(第一段階は……成功ね)
彼女は立ち上がると書斎の机へと歩み寄り、厳重に隠されていた秘密の日記帳を取り出して新しいページを開いた。
『王宮での初日……全ては計画通りに進行している。次の段階は、王宮内の重要人物たち……特に皇帝陛下との関係を深め、誼を通じること』
日記帳を閉じ、元の場所へと隠し直すと、彼女は寝巻きに着替えてベッドへと横たわった。明日への備えを怠らぬよう、その表情と眼差しはどこまでも穏やかで、静まり返っていた。




