第30章:野心の罪
王宮からの使者がヴェレンコート家の邸宅へと到着した。その手には、王家の紅い蝋印が押された勅許状が握られている。当主である父親は、胸の高鳴りと緊張を隠せない面持ちでその命を受け取り、目まぐるしく文字を目で追うと、興奮を隠しきれない大声で次女の名前を呼んだ。
「リゼロット! 早くこちらへ来るんだ、我が娘よ! ついに吉報が届いたぞ!」
リゼロットは、いつものように慎ましく、優雅で従順な所作で階段を降りてきた。
「お父様……何かございましたの?」
「イゼキエル殿下が、お前との正式な婚約の手続きを急ぎ進めるよう仰せだ!」
当主は喜びを抑えきれず、声を弾ませた。
「さらに、今すぐ王宮内へ移り住むようお達しがあったのだ!」
リゼロットは両手でそっと口元を覆い、心からの驚きを表現した。その美しい瞳には、みるみるうちに感極まった涙が潤んでいく。
「本当でございますか……わたくし……」
「本当だとも! お前の勝ちだ、リゼロット!」
リゼロットはその場に崩れ落ちるように膝をつき、あまりの喜びをかみしめた。傍らに控えていた二人の姉たちも慌てて歩み寄り、妹を温かく抱きしめて祝福した。
「おめでとう……リゼロット」
エヴェリンは微笑みながら言ったが、その瞳の奥にはほんの少しだけ悔しさが混じっていた。
「この栄誉は、あなたにこそふさわしいわ」
「よくやったわね、リゼロット」
オードリアンヌも心からの笑みを向ける。
リゼロットは二人の姉に向けて、これ以上ないほど甘く優しい笑みを返した。その頬を伝う一筋の涙が、彼女の無垢さと純粋さを完璧に演出し上げていた。
*
ガチャン……!
自室の重い扉が閉ざされ、内側からしっかりと鍵がかけられる。リゼロットは広大な部屋の真ん中に一人きりで立ち尽くしていた。
「――静かにしなさい」
その呟きを皮切りに、彼女の仮面が剥ぎ取られた。それまでの甘く柔らかな声音は影を潜め、冷徹で狂気に満ちた低音が部屋に響く。
次の瞬間、彼女は腕を大きく振り回し、ドレッサーの上に並んでいた化粧品や装飾品を片端から床へと叩きつけた! 高価なガラスの花粉が粉々に砕け散り、部屋中に飛び散る。大鏡には、彼女の暴力によって無数の亀裂が走った。
「やった……やったわ……!」
彼女の喉から、ぞっとするような冷たい笑い声が漏れ出す。
「私の勝ちだ! あの愚か者どもめ……少しばかり芝居を打ってやれば、面白いように引っかかりやがって。脳みそまで骨抜きにされた愚か者どもめが!」
彼女は亀裂の走った鏡の前に歩み寄り、そこに映る自分自身の歪んだ姿を、陶酔しきった狂気の瞳で見つめた。
「私こそが……この世界の頂点に立つ者だ!」
「『野心の罪』の力さえあれば……私を阻むものなど何一つない!」
彼女の声は、高ぶる感情に比例してさらに大きくなっていく。
「たとえどれほど絶望的な状況に陥ろうとも、最後に笑うのはこの私だけだ!」
彼女は部屋の中をクルリと舞うように回り、両腕を大きく広げた。まるで、まだ目に見えぬ広大な世界そのものを抱きしめるかのように。
「エンデリアン王国の頂点……いや、この世界のすべてを、私の足元にひれ伏させてやる!」
彼女はピタリと動きを止め、自分の手のひらをじっと見つめながら、深遠なる真理を語るかのように呟いた。
「『ソフィア』という名……それは清らかなる英知を意味する」
彼女の口元に、冷笑が浮かぶ。
「真の知恵とは、堅苦しい論理や狂気に満ちた感情から生まれるものではない。相反する二つの極限を統合し、そのすべてを超越した者だけが手にできるものだ」
「それが、『知恵の女神ソフィア』の説いた真理……」
彼女は低く笑った。
「だが、今の私に言わせれば、そんな神々すらもすでに過去の遺物よ! リゼロット・ヴェレンコート、この私こそが彼らを超越した存在だ!」
「この『野心の罪』の権能さえあれば、私の望む未来はすべて現実のものとなる!」
彼女は窓辺へと歩み寄り、闇に包まれた外の世界を冷酷な目で睨みつけた。
「誰にも破壊することのできない絶対的な結界。私の意志こそがこの世界の法となる領域……。いつの日か王座を乗っ取った暁には、この結界の適用範囲をエンデリアン王国全土にまで広げてやるわ!」
彼女はグッと拳を握りしめた。
「『アパクセス(Apaxaces)』――それは、この世界のパワーバランスにおける絶対的な天井。世界で最も強い上位四名だけに与えられる名誉。常にその高みを目指して競い合う者たち」
「『ドミヌス(Dominus)』――それは、最強の指導力、軍事力、経済基盤、そして支配領域を持つ世界最大の四つの大帝国」
「『アルカイオス(Archaios)』――かつて世界を救うために教会に協力し、ソフィアやルシファー、さらには魔王をも打ち破った、世界を護り続けた伝説の英雄たち」
彼女はそこまで呟くと、ほんの一瞬だけ、激しい羨望と嫉妬を滲ませた。
「だが、それもすべては過去の物語にすぎない!」
「『エラニス(Eranis)』――それは新時代を切り拓くうねり。生まれに関係なく、圧倒的な才能と実績を残した次世代の精鋭たち。十五年ごとに見直され、自らの手で新たな次世代を選定する者たち」
「そして……そのすべての頂点に君臨する者が誰であるか、教えてやろう」
彼女は両腕を再び広げ、高らかに宣言する。
「誰よりも強く、誰よりも美しく、誰よりも完璧な存在――それは、この私、リゼロット・ヴェレンコートだ!」
彼女はそこで言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。その表情には、自らの完全性に対する絶対的な確信が満ちている。
「リゼロット……ヴェレンコート……」
彼女は自分の名前を、甘美な毒を味わうかのようにゆっくりと口の中で転がした。
「神の誓い、自由なる者、気高き女性……」
「すべてを統合すれば、それは『神の如き強大な力を持ち、真の自由と絶対の真理を我が物とする孤高の女王』を意味する」
割れた鏡に映る無数の破片のなかに、彼女自身の顔がそれぞれバラバラに切り取られて映し出されていた。
「どの角度から切り取っても、この世界は私を中心に回るようにできているのよ」
部屋の中には、再び静寂が戻った。
無数の破片が散らばる床の上に立ち尽くすリゼロットの胸は、激しい興奮の余韻で大きく波打っていた。
やがて彼女はゆっくりと息を吐き出し、その冷徹な顔立ちを、いつもの完璧なお嬢様の表情へと切り替えた。
彼女は足元に散らばるガラスの破片を一瞥すると、声を張り上げて忠実な使用人を呼び寄せた。
「ここをきれいに片付けなさい」
いつもの甘く柔らかな声で彼女は命じる。
「それから、明日の王宮入りに向けて荷造りを進めてちょうだい」
使用人は室内の惨状に驚く様子も見せず、深く頭を下げてテキパキと動き出した。まるで、こうした光景は見慣れていると言わんばかりに。
リゼロットは散らかった部屋を後にし、別の客室へと足を向けた。その背後には、誰にも知られることのない暗い野心の炎が、静かに、しかし確実に燃え上がっていたのだった。




