第28章:別れの朝
エランダ王国の国境沿いに建つ宿屋の部屋では、柔らかい朝の光が揺れるレースのカーテンを通り抜けて差し込んでいた。ナディアは、これまでの旅路では味わったことのないほどふかふかで心地よいベッドの上に横たわっていた。彼女はゆっくりとまぶたを持ち上げ、一般の旅籠とは一味違う精巧な木彫りの天井を見つめた。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた後、宿屋の女主人が恭しく扉を開けて顔をのぞかせた。
「おはようございます、レナ様」
温かな笑みを浮かべて女主人が声をかける。
「朝食のご用意が整っておりますよ」
「……うん、ありがとう」
ナディアは返事をしたものの、その声にはまだ眠気が色濃く残っていた。
*
身支度を整えたナディアは、一階の小さな食堂へと足を向けた。上質な木製のテーブルの上には、焼き立ての温かいパン、みずみずしいフレッシュフルーツ、そして湯気を立てるスープが綺麗に並べられていた。
それから間もなく、宿屋の女主人がやってきて、彼女の向かい側に腰を下ろした。それはまるで長年繰り返されてきた日課であるかのように自然な動作だった。
「今日は……もう出発してしまうのですね、レナちゃん」
リリアーナは寂しげな視線を少女に向けながら尋ねた。
ナディアは熱いスープを一口啜り、味を確かめてから口を開いた。
「はい……もう出発します。リリアーナさん」
「本当に残念だわ……」
リリアーナは小さく溜息をついた。
「本当は、もっとゆっくりしていってほしいのだけれど」
「そうもいかないわ」
ナディアはスプーンを一旦置き、答えた。
「今回はただの通り道で、ここで少し休んだだけだから。これから急いでミライさんたちのところに戻らないといけないの」
リリアーナは目の前の少女に向かって、我が子を慈しむような、それでいて深い心配の入り混じった目を向けた。彼女は少し体を前傾させる。
「レナちゃんだって、ちょうど一月の第一日に十四歳になったばかりなのに……」
リリアーナの声には柔らかな痛みが滲んでいた。
「七歳の頃から武器を手に取って戦い続けてきたなんて……あまりにも痛ましいわ」
ナディアは沈黙し、スプーンを持った手がピタリと止まった。
「私たちが血の繋がった家族ではないとしても……彼女はこのエランダ王国を救ってくれた大切な恩人なのだから」
リリアーナは心の底からの誠意を込めて続けた。
「だから、もう少しこのお姉さんに頼ることを覚えてほしいの……国王陛下も、王妃様も、王子も、王女も、そして私たち全員が、いつでもあなたに手を差し伸べる準備ができているのよ」
ナディアはふうっと小さく息を吐き、テーブルの上にスプーンを置いた。そしてリリアーナを見据え、煩わしさと、柔らかな愛着と、親密さが入り交じった複雑な目を向ける。
「また勝手にそんなこと言って」
彼女は冗談めかして軽い口調で突っ込みを入れた。
「私なんて……一人で十分に立ち回って戦えるから」
リリアーナは何か言い返そうと口を開きかけたが、ナディアは軽く手を挙げてそれを制した。
「それに、あまり長く長居すると面倒なことになるのよ」
ナディアは視線を窓の外へと向けた。通りではすでに多くの人々が行き交い始めている。
「私のような青き竜の白竜は、組織の中でも重要な主力なんだから」
リリアーナはしばらくの間黙り込み、目の前で過酷な現実を淡々と天気の話でもするかのように語る少女を見つめた。
「レナちゃん……いつもそうやって言うのよね」
リリアーナは小さな声で呟いた。その表情にはかすかな切なさが浮かんでいる。
「だって、事実だもの」
ナディアはそう言って微笑むと、パンを手に取って一口齧った。
「だけど、事実だからといって……それを全部、たった一人で背負い続けなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
ナディアはすぐに答えず、ゆっくりとパンを咀嚼しながら窓の外に視線を泳がせた。
「リリアーナさんは心配しすぎよ」
やがて彼女は、少し柔らかくなった声で言った。
「私は平気……もう慣れっこだから」
「それこそが一番心配なのよ!」
リリアーナは即座に言い返した。
「十四歳の女の子が、そんな胸が痛むようなことに『慣れている』なんて言っちゃいけないの!」
ナディアはフッと小さく笑みをこぼした。
「リリアーナさんって……まるで私の母親みたいね」
「だって、本当の娘のように大切に思っているんだもの」
リリアーナは心からの温かさを込めて微笑んだ。
ナディアはパッと明るく、親しみを込めた笑顔を見せた。
「そういうところがあるから……リリアーナさんは昔から『夫がいるに違いない』って勘違いされて、物心ついた時から二十七年も独身のままなんだから!」
リリアーナは目を丸くし、思わず大声を上げた。
「ちょっと、レナちゃん! それは言い過ぎよ! 今すぐ謝りなさい、さっそくこの宿から叩き出すわよ!」
温かくて賑やかな朝食の時間が終わると、ナディアは旅立ちの準備を始めた。使い慣れた小ぶりながらも頑丈なバッグに荷物を詰め込んでいく。
リリアーナは宿の玄関先まで見送りに現れ、小さな布包みを少女に手渡した。
「ほら、これ……道中で食べなさい」
彼女は優しく言った。
「パンとドライフルーツよ。大したものじゃないけれど、道のりの足しにはなるでしょう」
ナディアはその包みを受け取り、ありがたそうに微笑んだ。
「ありがとう、リリアーナさん。……って、これ全然『大したことない』量じゃないじゃない! 一般人なら一ヶ月は余裕で生きられる量だよ……あ、そっか、リリアーナさんの普段の食生活の感覚基準だからか」
「もう、この子は……。とにかく、道中気をつけるのよ」
リリアーナの瞳には深い慈愛と心配の色が浮かんでいた。
「それに……また機会があったら、いつでも顔を出しなさい。通りすがりじゃなくても、いつだって歓迎するんだから」
ナディアは優しく微笑んだ。
「……できるだけ努力するわ」
彼女は宿の扉から一歩踏み出し、外の世界へと歩き出した。朝の空気は澄み渡り、雲ひとつない青空が広がっている。街の通りは、店を開き始めた商人たちや人々で活気に満ちていた。
少し歩いたところで、ナディアはふと足を止め、振り返って宿のほうを眺めた。
リリアーナはまだ入口のところに立ち、温かく手を振って見送ってくれている。
ナディアも小さく手を振り返すと、再び前を向き、しっかりと布包みを握りしめて歩き出した。
(ミライさんが待っている……急がないと)




