第24章:我が好機
一週間後、王宮内の画廊。そこは気高い貴族たちや学識ある賓客たちで埋め尽くされ、精巧に展示された絵画や彫刻の数々を誰もが熱心に鑑賞していた。午後の陽光が色鮮やかなステンドグラスを通り抜け、磨き上げられた大理石の床に美しいモザイク模様の影を落としている。
リゼロットは、シンプルでありながら上品な淡いブルーのドレスを身にまとい、その手にはスケッチブックを大切そうに抱えながら、優雅に画廊へと足を踏み入れた。
「リゼロット様」
そう声をかけて近づいてきたのは、イゼキエル殿下だった。その傍らには、いつもと変わらぬ様子でセネスティア皇女が寄り添っている。
「またお目にかかれて、本当に嬉しいです」
「身に余る光栄でございます、殿下」
リゼロットは慎み深く優美な所作で一礼した。
「そして……セネスティア様、本日もご一緒できて光栄です」
セネスティアは、まるで本当の友人に向けるかのように、愛らしく鮮やかな笑みを浮かべた。
「リゼロット様って、絵画の知識がすごく深くて、描くのもお好きだって聞いたんです!」
「はい……」
リゼロットは恥じらうような、なんとも愛らしい笑みを浮かべてみせた。
「拙い試作の作品ですが、いくつか持ってまいりました……もしご迷惑でなければ、お二方にほんの少しだけ、ご覧いただけないでしょうか」
三人は画廊の片隅にある、静かで人目のつかない一角へと歩を進めた。リゼロットはゆっくりとスケッチブックを開き、四季折々の自然の風景を描いた、繊細で生き生きとした緻密な線画の数々をそっと披露した。
「見事だ……本当に、実に見事ですね」
イゼキエルは心底感嘆した様子で呟き、自ら手を伸ばして一枚の絵を手に取り、じっと見つめた。その瞳には優しい光が宿っている。
「この隅の、光と影の揺らぎの表現……なんと深いのでしょう」
「殿下は、美術に対してこれほど深い造詣をお持ちでいらっしゃるのですね」
リゼロットは、驚きと感嘆の色を浮かべた眼差しを向けた。
「少しばかり心得がある程度ですよ……。ですが、自分で筆をとるより、こうして鑑賞する方が好きでしてね」
「それなら……実際に、少しだけ描いてみませんか?」
リゼロットは柔らかな笑みを湛えながら、上質な鉛筆と画用紙をそっと差し出した。
「わたくしが喜んで、お手伝いいたしますわ」
イゼキエルはほんの一瞬ためらったが、やがてその手に鉛筆を受け取った。どこか新しい遊び道具を前にした子供のように、その瞳にはわずかな戸惑いが浮かんでいる。セネスティアがくすくすと可愛らしい声を上げて微笑んだ。
「お兄様が絵がお下手なのは、昔からなんですのよ!」
「それならばなおのこと、一度挑戦してみるべきですわ」
リゼロットは優しく囁くように、背中を押した。
イゼキエルは指示に従い、紙の上に恐る恐る鉛筆の先を走らせた。リゼロットがそっと体を寄せ、筆圧の加減や線の引き方を指南する。自然と二人の距離が縮まり、彼女の纏うほのかな花の香りが殿下の鼻腔をくすぐった。しかし、そうして出来上がった絵は、お世辞にも上手とは言えない不格好な代物で、あまりの出来栄えに三人は思わず顔を見合わせ、声を揃えて吹き出した。
「お兄様、この木の形を見てくださいませ!」
セネスティアは絵を指差しながら、楽しげに声を弾ませた。
「木というより、まるでまるまると太った雲の塊ではありませんこと!」
「だから言っただろう、私にはこういう才能はないとね」
イゼキエルはそう言いながらも、晴れやかな笑みを浮かべていた。……それは、息の詰まるような公式の場では誰も見たことがないほど、肩の力が抜け、心底から寛いだ、嘘偽りのない笑顔だった。
リゼロットはそっと自分の唇に手を当て、上品に微笑んだ。その瞳は、殿下をまっすぐに見つめながら甘やかな温もりを帯びている。
「いいえ、そんなことはありませんわ……。人は誰しも、こうした小さな一歩から始めるものなのです。わたくしが初めて絵を描いた時など、殿下の今の作品よりも何倍も酷い化け物のような絵を描いたものでございますよ」
「本当ですか?」
イゼキエルは興味を惹かれたように問いかけ、その瞳を彼女の美しい双眸へとしっかりと向けた。
「ええ、本当でございます……。人生で初めて精一杯描いたその絵を見た母に、『これはいったいどの魔物の絵なのかね?』と真顔で聞かれたほどなのですから」
その一言が、再び温かく和やかな笑い声を呼び起こした。二人の周囲の空気が、まるで外の世界の時間さえ止まったかのように、心地よく緩やかな絆で満たされていく。
その後も三人はゆっくりと画廊を巡り、一枚ひとひらの絵画の前に立ち止まっては、互いの感想や胸に去来する思いを包み隠さず語り合った。
「この絵……本当に心を揺さぶられますわ」
セネスティアが一枚の絵を指さした。それは、夕日に染まる怒涛の海を描いたものだった。
「本当ですね……色の重なりが、なんとも温かくて優しい」
イゼキエルがそれに同調する。
リゼロットはその絵の前に静かに立ち、じっと見つめた。その瞳に穏やかな光が宿る。
「わたくしは……この絵の真の素晴らしさは、水面に反射するあの微かな光の表現にあると思うのです。名もなき画家は、絵の静けさの中にありながらも、風や波の息吹そのものを感じさせるような深い技法を用いていらっしゃいます……」
イゼキエルは、美術に向き合うリゼロットの横顔をそっと見つめた。彼女の瞳が放つ知的な輝きに、胸の奥が不意に大きく跳ねるのを感じる。
「あなたは……本当に、細やかな気配りと深い感性をお持ちだ……」
リゼロットはゆっくりと顔を上げ、殿下と視線を絡ませた。そして、頬をほのかに染めながら、恥じらうように微笑む。
「わたくしは……ただ、人々が見落としてしまうような小さな美しさに目を向けるのが好きなただの娘にすぎませんわ」
無名の地方画家の描いた、まだ世に知られていない絵の前に差し掛かった時、リゼロットはその絵の前でひときわ長く足を止めた。
「なぜ、この作品にこれほど惹かれるのですか?」
イゼキエルは、彼女の温かな眼差しに気づき、そっと問いかけた。
「そこに、『偽りのない真実』が描かれているからですわ」
リゼロットは柔らかな声で答えた。
「画家はこの絵を完璧に美しく飾ろうとはしていません。むしろ、少しの不完全さや、描き損ねたような痕跡をそのまま残している……だからこそ、私たちはその筆の裏にある画家の心臓の鼓動や、温かな感情の息吹をダイレクトに感じ取ることができるのです」
イゼキエルはその絵を新たな視点で見つめ直し、まるで自分の世界が広がっていくような感覚に包まれた。
「誰かが私に……こうした美しい物の見方を教えてくれたことなど、これまで一度もなかった……」
セネスティアもまた、うっとりとした表情でうなずいた。
「リゼロット様とお話ししていると、世界がとても素敵に見えてくるんです!」
二時間ほど共に画廊を堪能した後、午後のひとときを締めくくるため、三人は中庭に面したテラスの長い大理石のベンチへと腰を下ろした。心地よい午後の風が、庭園の草花の香りを運んでくる。
「今日は……本当に、楽しくて幸せな時間でした」
イゼキエルは、これまでにないほど純粋な充実感を滲ませた声で呟いた。
「美術を鑑賞することが、これほどまでに心を温めてくれるものだとは知らなかった」
「わたくしにとっても……この上なく光栄で、幸せなひとときでございました」
リゼロットは控えめに、それでいて甘やかな笑みを浮かべて答える。
「私たち、また必ず一緒にここに来ましょうね!」
セネスティアは身を乗り出すようにして言った。
「リゼロット様のお話はいつも面白くて、絵画がまるで動き出すみたいなんですもの!」
「喜んでご一緒させていただきますわ……もし、わたくしのような者がお邪魔でなければですが」
「邪魔だなんて、とんでもない!」
イゼキエルは、自分が思わず少し大きな声を出したことに気づき、わずかに気まずそうにしながらも、耳まで真っ赤に染め上げて即座に否定した。
セネスティアは兄のその様子をこっそり微笑ましげに見つめ、わざとらしいほど上品に口元を隠して見せた。
やがて解散の時間が訪れ、イゼキエルは自ら馬車の扉のところまでリゼロットを見送りに出向いた。
「今日は素晴らしい時間を本当にありがとう、リゼロット様。君のおかげで、私は多くの新しい美しさと出会うことができた」
「そのようなお言葉……もったいなきことでございます、殿下」
「また近いうちに、君とこうして言葉を交わせることを願っているよ」
「わたくしめも……心より、それを望んでおりますわ」
リゼロットは優雅に会釈をし、馬車のなへと身を滑らせた。馬車がゆっくりと動き出す中、窓から見送るイゼキエルは、自分がいつまでも名残惜しそうに見入っていることにも気づかぬまま、その顔に温かな笑みを浮かべ続けていた。
夜のとばりが降りた深夜。リゼロットの自室の扉がしっかりと閉ざされ、完全に静寂が支配すると、彼女はドレッサーの前に腰を下ろした。
鏡に映る自分自身の姿を見つめる。
日中ずっと浮かべていた、あの愛らしく従順で無垢な微笑みは、もう綺麗さっぱりと消え失せていた。そこにあったのは、一切の感情を排した、冷徹で計算高い戦略家の顔だけだった。
彼女は手を伸ばし、隠し持っていた一冊の黒い手帳を取り出すと、新たなページを開いてペンを走らせた。
(すべては計画通りだ)
殿下はすでに明らかに心を揺さぶられ、好意を抱き始めている。「邪魔だなんて、とんでもない!」と言って耳まで赤らめたあの反応こそが、勝利を告げる確かな証拠だった。
セネスティア皇女の心もすでに完全に掴んでいる。愛する妹が味方についた以上、兄である殿下の心を落とすなど造作もないことだ。
彼女はペンを置き、鏡に映る自分の冷たい瞳をじっと見据えた。その唇の端が、微かに歪み、ぞっとするような冷たい笑みを作る。
今日の会話のすべて、浮かべた笑みのタイミング、恥じらう角度、そして無垢な言葉のチョイス……そのすべてが、ミリ単位で計算し尽くされた芝居だった。
偶然の言葉など一言たりとも存在しない。
手帳をパタリと閉じ、元の隠し場所へ戻すと、彼女は窓辺へと歩み寄り、夜の闇に包まれた王宮の方向を見据えた。
(もうすぐよ……)
もう少しで、私はこの国の心臓部へと完全に根を下ろすことができる。
そうなれば、いくら『レナ』であろうとも、そう易々と手出しなどできなくなるはずだ。
彼女は部屋の灯りをそっと消し、静寂と闇の中へと身を横たえた。その顔には、微塵の迷いもない確信に満ちた静けさが漂っていた。




