第21章:リゼロット・ヴェレンコート
鏡の前に座ったリゼロットは、一日中結い上げられていた髪の毛のピンをゆっくりと外し、ほどいていった。鏡に映る彼女の顔立ちは、周囲の人間が慣れ親しんでいる通りの、どこかあどけなさを残した穏やかな少女そのものだった。
だが、その思考の海では、緻密な計算と戦略が冷徹に組み立てられていた。
(エヴリン姉様は剣の話をしすぎたわ……殿様は、あのような勝ち気な空気には微塵も興味を示されていなかった)
(オードリアナ姉様もそうだ。賢さをひけらかそうと必死になりすぎて、まるで交渉ではなくただの自慢大会のようになっていたわね)
姉たち二人は、あまりにも重要なポイントを見落としていた。
リゼロットは鏡に映る自分に向かって、微かに笑みを漏らした。それは、一族の誰も見たことのない、冷ややかで鋭い光を宿した笑みだった。
宴の数日前。
リゼロットはヴェレンコート邸の書斎で、美術の画集をめくっているふりをしながら、近くで話し合う父親と二人の姉の声を密かに聞き耳を立てていた。
「私は剣術の鍛錬で見事な腕前を見せ、殿下の心をつかんでみせるわ」エヴリンが自信満々に言った。
「私は深い歴史の知識を披露して、知的にお話しするつもりよ」オードリアナがそれに続く。
リゼロットは無言のまま、心の中でその情報を素早く整理していった。
彼女は以前、屋敷の使用人たちが王宮から漏れ伝わる噂をこっそり囁き合っているのを耳にしていた。殿下は宮廷の華やかな場を好まず、人気のない場所や静かな離宮の庭に姿を消すことが多いという。
その断片的な情報を、彼女は誰にも言わず、大切に胸の奥へしまい込んでいた。
宴の前夜、リゼロットは信頼できる一人の使用人にこっそり手紙を託した。誰にも見られないよう、普段は使わない者を使った。
『殿下がどのようなことに興味をお持ちか、こっそり調べてちょうだい。……姉たちには絶対に内密に』
使用人はわずか二日で望む限りの情報を持ち帰ってきた。殿下は表立った関心こそ示さないものの、宮廷の美術室で絵画の前に長く立ち止まることがあったという。
その報告を聞いた瞬間、リゼロットの唇に微かな笑みが浮かんだ。
(……なら、答えは美術ね)
彼女はその決定的な情報を姉たちに教えようとはしなかった。自分の優位性を保つために、それは当然の選択だった。
そして迎えた宴の夜。
エヴリンが剣術の話題を切り出した時、リゼロットはイゼキエルの目がわずかに曇るのを見逃さなかった。
オードリアナが歴史の知識をひけらかした時も、イゼキエルの返答が事務的な相槌に留まるのを確認していた。
彼女は焦らなかった。ただ、静かに自分の番を待っていた。
皇帝から直接「何に興味があるのか」と問われた瞬間こそが、彼女が周到に用意していた勝負所だった。
「わ、私は……絵を描くことが好きです」
少し恥じらうような、あどけない声。
それは真実の一部ではあった。彼女に絵心があるのは確かだが、絵そのものに狂おしいほどの情熱を注いでいるわけではない。彼女が本当に魅了されているのは、「人間の心理を読み解き、心の琴線に触れること」だった。
イゼキエルが初めて自分から質問を投げ返してきた時、胸の奥で小さな成功の確信が弾けた。だが、表面上は驚いたような無垢な少女の仮面を完璧に保ち続けた。
「どのような絵を描くのだ?」
「おもに、自然の風景を……時折、人物も描きます」
言葉を多く費やしすぎない。余計な説明は、かえってわざとらしさを生む。姉たちの失敗から彼女が学んだ教訓だった。
さらに、宴の終盤。イゼキエルが退屈そうな空気感を漂わせているのを見計らい、彼女はそっと囁いた。
「あの……無理に私たちと話を合わせなくても、大丈夫ですよ」
それは決して単なる同情や優しさなどではない。極限まで計算された言葉だった。緊張や退屈を強いられている人間は、自分をその縛りから解放してくれる存在に対して、無意識のうちに強い安心感と好意を抱く。
イゼキエルが微かに柔らかい声で「ありがとう」と返した瞬間、彼女は勝負ありと確別した。
そして、退出の際、姉たちよりわずかに歩みを遅らせて彼に一礼した。
「私の絵の話を聞いてくださって……ありがとうございました」
振り返った彼の顔に、それまでの硬さが少しだけ消えているのを確認していた。
自室に戻ったリゼロットは、改めて静けさの中に身を置いていた。
コンコン、と軽く扉を叩いてエヴリンとオードリアナが入ってきた。
「リゼロット、今夜はどうだった?」
「はい、とても勉強になりましたわ」彼女は愛らしい笑みを浮かべる。「殿様も、とても優しそうなお方でしたもの」
「そうね。でも、ここからが本当の勝負よ」オードリアナが意気込む。
「ええ、お姉様たちのあとをついていけるよう、私も頑張りますわ」
二人の姉たちは、妹の無邪気な返答を何の疑いもなく受け入れ、満足そうに部屋を出ていった。
鍵がかけられた静寂のなか、リゼロットはベッドの枕の下から一冊の小さな手帳を取り出した。
ページを開き、万年筆のペン先を走らせる。そこに記されていたのは、個人の感情ではない。冷徹なまでのデータだった。
イゼキエル殿下
興味:美術、絵画
忌避:過度な自己アピール、退屈な社交辞令、形式的な賛辞
次のステップ:美術や芸術に関する話題をさりげなく提供するか、自作のスケッチを差し出す機会を作る。
注意:姉たちに気づかれてはならない。彼女たちには「自分たちと同じ土俵で競っている」と錯覚させ続けること。
手帳を閉じ、元の場所へと押し込む。
彼女の顔に浮かんでいたのは、これまでの愛らしい少女の表情ではない。すべてを手の平の上で転がしている勝者特有の、冷酷で美しい笑みだった。
姉たちはこれが公平な戦いだと思っている。
だが、このゲームの本当のルールと勝敗を完全に把握しているのは、世界でただ一人、彼女だけだった。
「……お姉様方、せいぜい頑張ってちょうだい」
闇夜の中で、リゼロットは静かに微笑み、ろうそくの火を吹き消した。




