第19章:無き者
静まり返った自室。灯された一握りのろうそくの光だけが、暗闇の中に皇帝アマラトスの苦悶の表情を浮かび上がらせていた。
彼は自分の手を強く握りしめ、爪が食い込むのも構わずに荒い息を吐き出していた。心の中に押し隠していたはずの苦い感情が、暗闇の中で堰を切ったように溢れ出す。
「……どれだけ言い聞かせても」
誰にも聞かれない声で、彼は呟いた。その声には、身を裂くような痛みが滲んでいた。
「……やはり、私はあの娘を憎んでしまう。お前を私の腕から奪っていった、あの娘を」
胸元を強く掴む。十三年もの間、消えることのなかった古傷が再び激しく痛み出す。
彼は引き出しから、あの古い風景画を取り出した。セラエルが遺した、あの静かな庭の絵だ。
(あの子の目は、お前そっくりだ。……だが、あの子が存在するということは、お前がこの世から永遠に消えてしまったという現実を意味している)
愛おしさと憎悪が、胸の中で激しくぶつかり合う。息が詰まりそうだった。
三十年以上前のこと。
当時十二歳だった皇子アマラトスは、王宮の華やかさと重苦しい視線から離れ、都の外れにある学問所に預けられていた。それは、将来王位を継ぐための荒療治として、父王が命じたものだった。
ある日、アマラトスは学問所の隣に広がる小さな森で道に迷った。引き返そうとするほど、深い木々の奥へと迷い込んでいく。
その時、どこからか小さな歌声が聞こえてきた。
耳を澄まし、その声の主を追うと、大きな木の下に一人の少女が座っていた。淡い茶色の髪が冬の冷たい風に揺れ、歌詞のない穏やかなメロディーを口ずさんでいる。
「君は……」
不意に声をかけられた少女は、びくりと肩を震わせて振り返った。
「どなたですか?」
警戒の色よりも、純粋な好奇心が浮かんだ瞳だった。
「道に迷ってしまったんだ」
王宮では決して口にしないような素直な言葉を、少年はそのまま口にした。
少女は柔らかく微笑んだ。「それなら、ここに座って少し休んでください。あとで私が案内しますから」
言われるがままに、少年は彼女の隣に腰を下ろした。名前を名乗ることもなく、互いの素性を詮索することもなく、二人はただそこにいた。
「歌っていたのは、何の曲だい?」
「名前なんかないわ。ただ、思いついたメロディーを口ずさんでいただけよ」
「いい曲だね」
少女は照れくさそうに笑った。「ありがとう」
それから、二人は森の奥で密かに会うようになった。
セラエルと名乗った少女は、鳥の声の聞き分け方や、まだ名前も知らない野花の美しさを教えてくれた。アマラトスは彼女に、自分が読んだ本の話や、外の世界の冒険譚を語った。彼女の瞳が輝く瞬間を見るのが、何よりも好きだった。
「いつか、この世界の外へ行ってみたいわ」セラエルは夢見るように言った。「ずっと一つの場所に縛られているなんて、嫌よ」
「僕が、君を連れて行ってあげるよ」
アマラトスは迷うことなくそう誓った。
少女は鈴を転がすような声で笑った。「本当ね?」
「あぁ、約束する」
それから半年。二人の絆は深まっていった。まだ幼く、それが恋だという言葉を知らなくても、お互いが唯一無二の存在であることを、二人は心で知っていた。
ある日、森の入り口に黒塗りの馬車が現れた。
「殿下、お迎えにあがりました」
近習たちが深々と頭を下げる。その言葉を、近くにいたセラエルは聞き逃さなかった。
「殿下……?」
彼女は信じられないものを見る目でアマラトスを見つめた。
「ち、違うんだ、これは……」
「あなたはいったい、誰なの?」
「僕はアマラトス……エンデレアン王国の皇太子だ」
セラエルは一歩、後ろに下がった。その表情から光が消えていくのを感じて、アマラトスは慌てて彼女の手を取ろうとした。
「行かないでくれ。君に隠すつもりはなかったんだ」
「ううん、分かっていたはずだわ。私たちは住む世界が違うのよ」
「そんなことはない!」
「嘘を言わないで」セラエルは涙を浮かべながら微笑んだ。「あなたは、私とは違う未来を生きる人だわ」
引き離されるように王宮へ連れ戻されたその日、アマラトスの胸に初めて巨大な喪失感が穴を開けた。彼女がどこの誰なのかも知らないまま、彼はただ運命の歯車に押し流されていった。
十年後。
どんなに過酷な政務に追われようとも、アマラトスはあの森の少女を忘れたことはなかった。カリステールを迎え、モーヴェンを迎え、それぞれの形で彼女たちを重んじたが、心の奥の空白だけは埋まらなかった。
そして、三番目の妃を選ぶための書類の中に、その名前を見た時、心臓が凍りついたように止まった。
再会を果たした日、部屋の扉が開いた瞬間、十年の年月が一瞬で消え去った。
「あなた……」
「ずっと、探していた……」
二人の間に流れていた時間は、再び動き出したはずだった。
現在。
暗闇の中で、皇帝アマラトスは静かに涙を流していた。
「十年もかかって、ようやく巡り会えたのに……」
震える声で彼は呟く。
「なぜ、お前は私を置いて逝ってしまったのか。……すべては、あの娘のせいで」
愛と憎しみが絡み合い、彼の心を焼き尽くす。
「あの子には何も分からない。私がどれほど多くのものを失ったのかも……」
彼は手にしていた絵を強く握りしめ、そしてゆっくりと力を抜いた。
「だが……あの子はお前の娘だ」
絵に向かって語りかける声は、まるで亡き妻に許しを請うかのようだった。
「……私は、あの子のために生きてみせよう。お前を愛していたように」
憎しみと愛の狭間で、彼は一人、出口のない暗闇の中に佇み続けていた。




