第16章:皇帝の眼差し
皇帝は、カリステールとの出会いを今も鮮明に覚えている。当時、彼は重圧を背負った皇太子に過ぎなかった。
晩餐会の会場に現れたカリステールは、他の貴族の娘たちのように媚びたり、怯えたりしなかった。堂々とした足取りで歩み寄り、「私はカリステールと申します」と、淀みのない声で名乗ったのだ。
そのまっすぐな姿勢に、皇帝は密かな敬意を抱いた。周囲が利害で言葉を操る中、彼女だけは時に耳に痛いほど正直で、直言を恐れなかったからだ。
結婚後の彼女は、私的な贅沢を何一つ求めなかった。自ら率先して後宮を切り盛りし、問題が起きれば自分で解決し、皇帝の手を煩わせることはなかった。ある夜、遅くまで政務に追われて戻ると、冷めぬよう配慮された食事が用意されていた。
「これほど遅くまで待つ必要はない」
「……待ちたかったのです」
その言葉に、政略結婚という冷たい枷で結ばれたはずの二人の間に、小さな火が灯った。イゼキエルが産まれた時も、カリステールは疲弊しきった体で誇らしげに微笑んだ。その姿を見て、皇帝は「よくやった」と短く、だが心を込めて告げた。彼女はその言葉の重みを誰よりも理解していた。
時を経て、カリステールは誰よりも信頼できる政治のパートナーとなった。彼女の鋭い視点は、時として重臣たちを凌駕した。
その後、モーヴェンがやってきた。彼女はカリステールとは対照的だった。最初から屈託のない笑顔を見せ、緊張に満ちた後宮を、柔らかな光で満たした。
会議で疲れ果てて戻った日、モーヴェンはあえて政の話をせず、宮殿で起きた滑稽な失敗談を語り聞かせた。皇帝は思わず吹き出し、胸のつかえが降りるのを感じた。「お前は、人を笑顔にする特別な力を持っているな」
セネステียが産まれた時、皇帝はかつてない純粋な喜びを感じた。産まれたばかりの娘を抱き上げた時、ちょうど西宮での嵐の被害報告が入ったが、小さな命の重みを感じた瞬間、そんなものは全て瑣末なことに思えた。
「健やかでいてくれ」
心からの願いだった。
そして、セラエル。彼女は三番目の妃として現れた。
彼女はこれまでの二人とは違う、守ってやりたくなるような危うい繊細さを秘めていた。
嵐の夜、二人きりで語り合った時のことだ。
「皇帝という偉大な存在でも、何かを恐れることはあるのでしょうか」
「恐れるさ。毎日、恐れている」
皇帝が正直に打ち明けると、彼女は驚いたような目をした。だが、その微笑みは皇帝の心を深く癒やした。彼女だけが、皇帝が抱える孤独を許容してくれた。
やがて彼女の懐妊が分かった。医官たちは皆、危険だと告げた。
「頼む、自分を大切にしてくれ」
「私は、あなたとの子供を見てみたいのです」
最期の夜、皇帝はあえて部屋の前に立った。中から聞こえる苦しみの声を、自分の耳に焼き付けた。もし中に入り、彼女の苦悶を見てしまえば、自分は情に流されて彼女を止めてしまうだろう。彼女が決めた最期の選択を、尊重したかったのだ。
皇帝は、彼女の最期の顔を見ることなく、その場を立ち去った。それは愛していなかったからではない。愛していたからこそ、その残酷な最期を見る勇気が持てなかったのだ。
現在。皇帝は自室で、過ぎ去った三人の妃の面影を追いかけていた。
カリステールという不動の柱。
モーヴェンという温かな日差し。
そして、今も胸の深淵に残り続ける、セラエルという忘れ得ぬ痛み。
窓越しに南の離宮の方角を見つめる。そこには、セラエルと瓜二つの瞳を持つ娘、セラフィナがいる。
「……そろそろ、会いに行くべき時なのかもしれないな」
皇帝の胸中に、長年封印していたはずの衝動が、静かに、しかし力強く芽生え始めていた。十二年の時を経て、ついに彼は運命と向き合う準備が整いつつあった。




