第12章:嵐のあと
翌日の夕刻、イゼキエルが再びセラフィナのもとを訪れた。彼の表情からは、重苦しい緊張が消え、疲労の中にも隠しようのない安堵が浮かんでいた。
門のそばに彼の姿を認めた瞬間、セラフィナは駆け寄った。
「……どうでしたか」
「父上は、もう俺を禁じたりはしない」と、彼は夢見心地のような声で告げた。
セラフィナは一瞬立ち尽くした。胸を締め付けていた重圧が、嘘のように霧散していくのを感じた。自分がどれほどこの瞬間を待ちわび、どれほど深く息を止めていたのか、その時ようやく思い知った。
「本当ですか?」
「ああ」イゼキエルは小さく頷いた。「ただ……一つだけ、父上が言っていた」
「……何とおっしゃったのですか」
「お前がこの場所にい続ける限り、お前の立場は何一つ変わることはない。俺が何度足を運ぼうとも、世界は決してセネスティアと同じようには扱わないだろうと」
セラフィナは、その言葉を静かに受け止めた。心が痛まなかったと言えば嘘になるが、幼い頃からその残酷な現実は、空気を吸うのと同じくらい当たり前の事実として彼女の中に存在していたからだ。
「……父様のおっしゃる通りです」彼女は淡々と答えた。
「お前は……怒らないのか」
「怒るために何の意味があるのですか。ただの事実を口にされただけですのに」
イゼキエルは、憐れみと尊敬が入り混じったような複雑な眼差しで妹を見つめた。「お前は、そんな風に自分を納得させる必要なんてないんだぞ」
セラフィナは少しの間、思考を巡らせた。
「……納得したわけではありません。これが正しいなんて思ってもいません。ただ、いま現実に起きている『事実』として受け入れているだけです。それはまた別の問題ですから」
その日から、副宮の空気は目に見えて変わり始めた。警備の兵たちは依然として敷地内に留まっていたが、その態度は以前のような狂気的なまでの監視ではなく、どこか穏やかなものへと変わっていた。
ヘレンもこの静かな変化に気づいていた。ある日、セラフィナが一人で読書をしていると、乳母が静かに口を開いた。
「……何やら、張り詰めていた糸が解け始めたようですね」
セラフィナは本から目を上げた。「ヘレンも気づいていたのですね」
「ええ、肌で感じておりました」
「……ヘレン、教えてください。こんな状況に対して、私はどう感じるのが正しいのでしょうか」
ヘレンは思案し、穏やかに答えた。「感じ方に『正しい』などありません。誰にも、あなた様の心に踏み込んで、どう感じるべきだと強制する権利はないのです」
「もし、ヘレンの個人的な意見を聞かせていただけるとしたら?」
ヘレンは、珍しく薄い笑みを浮かべた。「……そうですね。私から見れば、あなたはどんな大人よりも見事に、この過酷な状況を生き抜いてこられた。ただ、そのことへの敬意を感じるばかりです」
その言葉は、冷え切っていたセラフィナの心に、小さな火を灯すような温かさを広げた。
一方、本宮のセネスティアもまた、兄の顔からかつての重苦しさが消え、以前のような穏やかさが戻っていることに気づいていた。
「最近、とても穏やかそうですね」ある日、庭で兄に声をかけた。
「そうか?」
「ええ。何だか、胸のつかえが取れたような顔をされている」
イゼキエルは沈黙し、妹に真実を話すべきか、最後の迷いを抱えていた。
「セネスティア……もし、お前に『もう一人の妹』がいると言ったら、どう思う?」
セネスティアは目を丸くした。「もう一人の……妹?」
「ああ。お前と同い年なんだ」
セネスティアは思考を巡らせた。次々と溢れ出る疑問を整理しながら、彼女は落ち着いて尋ねた。「……なぜ、今まで誰も教えてくれなかったのですか?」
「経緯は複雑だ。だが、もしお前が望むなら、すべてを話そう」
セネスティアは腰を下ろし、兄の言葉を待った。イゼキエルは、セラフィナの存在、母が亡くなったあの日のこと、そして幼い彼女が誰も顧みない副宮へ追いやられたことを、一から語り聞かせた。
話を聞き終えたセネスティアの瞳からは、驚きや戸惑いが消え、代わりに深い哀しみだけが残った。
「どうして……誰も、手を差し伸べなかったのですか」彼女は震える声で言った。「あんな場所で、一人で過ごさせて……どうして、そんなことができるのですか」
「俺にも分からない。当時は俺も幼すぎた」
セネスティアは、自身の掌を見つめて長い間黙り込んだ。そして、意を決したように顔を上げた。
「……会いに行きます」
イゼキエルは少し驚いたように目を見開いた。
「当然です」セネスティアは毅然と答えた。「彼女も私の妹です。このまま放置して、一人ぼっちにしておくなんて、絶対に間違っています」
二日後、その知らせはセラフィナの耳にも届いた。イゼキエルから、セネスティアが自分に会いたがっているという報告を受けたのだ。
セラフィナは言葉を失った。胸の中で幾重もの感情が渦巻き、それが何なのか自分でも理解できなかった。
「……本当に、会いたいと思っているのですか」
「ああ。すべてを話した。彼女は憤り、そして何より、お前を一人にしてきたことを深く悲しんでいる」
セラフィナは窓の外に視線を向けた。二歳の時に一度だけ見かけた、幼い少女の後ろ姿を思い出す。あれから十年という歳月が過ぎていた。
「私は……どうすればいいのでしょう」
「無理に何かを返そうとしなくていい」イゼキエルは優しく言った。「ただ、お前自身でいればいいんだ」
セラフィナは小さく頷いたが、心には、これまで感じたことのない、淡く不思議な緊張感が広がっていた。
その夜、セラフィナは机に向かい、亡き母の日記の隣に自分の日記帳を開いた。
『今日、私はセネスティアという妹に会うことになったと聞きました。私たちが同じ日に産声を上げたのに、今日まで一度も会話を交わすことはありませんでした。彼女の目に私がどう映るのか、想像もつきません。けれど……不思議なことに、私の心は少しだけ、彼女に会ってみたいと願っているようです』
『母様……もし今、そばにいてくださるのなら、私に何か言葉をかけていただけますか』
彼女はペンを置き、日記を閉じると、星のない静かな夜空へと視線を投げた。明日という未知の日を待ちわびるかのように。




