第6話――長いダンジョンへの旅路と、一人の生徒の転落
ダンジョンまでの道のりは、思っていた以上に遠かった。
そして、疲れる。
とにかく、疲れる。
最初、僕は王国がダンジョンまで連れていくために、何か特別な馬車を用意してくれるものだと思っていた。
長旅でも快適に過ごせる、座席には柔らかいクッションがあり、ある程度の広さも確保された馬車。
もちろん、それは僕の期待が高すぎただけだった。
確かに王国は、生徒三十五人を運ぶために十分な数の馬車を用意してくれていた。
しかし、その品質はというと……。
……おいおい。
何だ、これは。
揺れがひどすぎる。
車輪が石や道のくぼみを通過するたびに、体が座席から浮き上がり、そのまま再び叩きつけられる。
ドン。
ドン。
ドン。
もしかして、この馬車は人間を運ぶために作られたのだろうか。
それとも、ジャガイモの袋を運ぶためのものだったのだろうか。
どちらにしても、今の僕には大差ない。
正直なところ、こんな馬車に何時間も座っているくらいなら、急カーブや坂道だらけの道を高速で走る車に乗っていたほうが、まだマシだと思う。
少なくとも、車にはサスペンションがある。
この馬車はどうだ?
車輪と車軸を、祈りでも込めながら取り付けたのだろうか。
僕は何度目になるかわからない座り直しを試みた。
効果なし。
背もたれに寄りかかってみる。
むしろ悪化した。
姿勢を正してみる。
結果は同じだった。
結局、僕は自分の尻が人生で最も過酷な試練の一つに挑んでいるという現実を受け入れるしかなかった。
実に悲劇的だ。
もしこの旅を生き延びられたら、スキルで座布団でも作ろうか。
もっとも、作りたい物の材料や構造を理解していなければならないし、必要な魔力も足りていなければならない。
残念ながら、僕はクッションの製造方法を詳しく学んだことがない。
ただ、柔らかい物だということくらいは知っている。
実に役立つ知識だ。
本当に役立つ。
僕はぼんやりと馬車の天井を見つめた。
同じ馬車には、僕以外に四人の男子生徒が乗っていた。
つまり、合計五人だ。
そして問題は……。
彼らがあまりにも無口だということだった。
必要なことだけを話す、という意味での無口ではない。
本当に、何も話さないのだ。
会話なし。
冗談なし。
この馬車がどれほどひどい乗り物なのかという愚痴すらない。
車輪が大きなくぼみを通過し、僕たち全員の体が同時に浮き上がったときでさえ、誰も何も言わなかった。
聞こえるのは、車輪の軋む音と、木材のきしむ音だけ。
僕は一人ずつ、彼らに視線を向けた。
一人は鞄を抱えたまま座っている。
別の一人は、小さな窓から外を眺めていた。
もう一人は、ずっと床を見つめている。
最後の一人は、体が数秒おきに揺さぶられているにもかかわらず、眠ろうとしているようだった。
……。
何か話せよ。
何でもいいから。
道がひどいとか。
馬車の乗り心地が最悪だとか。
天気の話でも構わない。
別に、高度な知的会話を求めているわけじゃない。
ただ、人間の形をした彫像四体と一緒に旅をしているわけではないと確認したいだけだ。
しかし、しばらくして僕は諦めた。
まあ、いいか。
僕だって、自分から会話を始める義務はない。
彼らが黙っていたいなら、好きにすればいい。
僕は再び窓の外へ視線を戻した。
王国の景色は、次第に石畳の道や丘陵地帯、遠くまで広がる森へと変わっていった。
どうやら、目的地まではかなり時間がかかるらしい。
そして、その予想は正しかった。
ダンジョンまでの移動には、丸二日もかかったのだ。
二日間、ひどい揺れと座り心地の悪さ、そして次第に見飽きてくる景色に耐え続けることになった。
それでも、道中で盗賊に襲われなかったことには感謝している。
木々の陰から盗賊の集団が飛び出してきて、金を出せと叫ぶこともなかった。
馬車が突然包囲されることもなかった。
不意打ちを受けた生徒たちが、初めて協力して敵と戦うという展開もなかった。
今回ばかりは、この世界も僕が何事もなく旅を終えたいと思っていることを理解してくれたらしい。
ありがとう。
少なくとも、一つくらいは感謝できることがあった。
……もっとも、その感謝は長く続かなかったのだが。
なぜなら、旅の途中で支給された食事が、本当にひどかったからだ。
◇
初日、僕たちは旅用の携帯食を渡された。
硬いパン、噛み切るのが難しい干し肉、それから少量の水。
僕は数秒間、その食事を見つめた。
そして、パンにかじりつく。
ガリッ。
……。
これは食べ物か?
それとも建築資材か?
僕はゆっくりと咀嚼した。
特に目立った味はない。
ただ、顎を必要以上に働かせなければならないほど硬いだけだった。
干し肉も大して変わらない。
保存性を高めるために、わざとこんな状態にしているのだろうか。
それとも、王宮の料理人にはまともな料理を作る能力がないのだろうか。
理由はどうあれ、必要以上に食べたいとは思えなかった。
僕は周囲の生徒たちに目を向けた。
彼らの表情は……。
実に素晴らしかった。
完全に皮肉の意味で。
自分のパンを絶望したような顔で見つめる者。
不快そうな表情を必死に隠しながら、干し肉を噛んでいる者。
容器の中身を見ただけで食欲を失ったらしい女子生徒もいた。
隣の馬車に乗っていた男子生徒に至っては、何か怪しい物でも調べるように、パンを光にかざしていた。
少しだけ、彼らが気の毒になった。
ほんの少しだけ。
しかし、同情したところで、この食事がおいしくなるわけではない。
そのため、夜になって一行が休憩のために立ち止まったとき、僕はこっそりとスキル《再創造》を使い、もう少しまともな食事を作ることにした。
もちろん、複雑な料理を作るつもりはない。
材料の構成をある程度理解している、簡単な食べ物を選んだ。
必要な材料がわかっていて、消費する魔力が自分の許容範囲内なら、簡単な食べ物を作ることくらいはできる。
誰にも見られていないことを確認してから、スキルを発動した。
しばらくすると、ようやく食べるに値する食事が完成した。
僕は人の集まりから少し離れた場所に座り、食べ始めた。
うん。
ずっとマシだ。
高級レストランの料理と比べる必要すらない。
王国の携帯食と比べるだけで、まるで別世界の食事のようだった。
僕は落ち着いて食べ進める。
ああ。
これこそ、ささやかな幸せというものだ。
まともな食事。
それなりに静かな場所。
そして、誰にも荷物持ちを命じられない時間。
……残念ながら、その平穏は長く続かなかった。
「おい、ミズシナ!」
僕は顔を上げた。
少し離れたところに、修吾の取り巻きの一人が立っていた。
「明日から、こいつらを運べ。俺たちは荷物が多すぎるんだ」
彼は近くに置かれていた鞄や装備を指さした。
僕は荷物を見た。
それから、彼の顔を見た。
「どうして?」
「は? お前のスキルがあるだろ。物を収納できるんだから、それくらい簡単だろうが」
なるほど。
そういうことか。
彼らは今でも、僕を歩く収納袋か何かだと思っているらしい。
僕は小さくため息をついた。
「だったら、自分で収納すればいいだろ」
彼の表情が一変した。
「……何だと?」
「自分で収納しろって言ったんだ。荷物が多すぎるなら、減らせばいい」
僕は食事に視線を戻した。
これ以上、会話を続ける理由はない。
他人の能力を自分の所有物か何かのように扱う人間と口論するには、疲れすぎていた。
「この役立たずが!」
彼は悪態をつくと、自分で荷物を抱えて立ち去った。
僕は別に傷つかなかった。
自分の荷物すら管理できない人間に役立たずと評価されたところで、どうして気にする必要があるのだろう。
そもそも、彼らに認めてもらう必要などない。
僕に必要なのは、生き延びることだけだ。
ただ、修吾たちの集団に視線を向けると、一人の男子生徒がこちらを見ていることに気づいた。
修吾本人だった。
その視線は、あまり気持ちのいいものではなかった。
どうやら、僕が取り巻きたちの命令を無視したことが気に入らないらしい。
何を考えているのかは知らない。
そして、正直なところ、知りたいとも思わなかった。
僕は視線をそらし、食事を続けた。
無料の荷物持ちになることを拒否しただけで腹を立てるのなら、それは彼自身の問題だ。
僕は彼のプライドを守るために、自分の平穏を犠牲にするつもりはなかった。
◇
二日目も、ほとんど同じような一日だった。
馬車は揺れる。
携帯食は配られる。
生徒たちは不満を漏らす。
そして僕は、それらを無視しようと努める。
時折、修吾の取り巻きたちは再び僕に荷物を運ばせようとした。
鞄を移動させろと言われることもあれば、装備をスキルで収納しろと頼まれることもあった。
僕はその大半を断った。
別に、できないから断っているわけではない。
単に、彼らが僕に命令する理由が気に入らないのだ。
彼らは助けを求めているのではない。
僕を、自分たちの命令に従うべき下僕のように扱っている。
そして、僕にはそんな立場を受け入れるつもりなどなかった。
断るたびに、彼らは悪態をついたり、嫌味を言ったりした。
僕は放っておいた。
怒るために体力を使いたいなら、好きにすればいい。
僕はもっと大切なことに体力を温存したかった。
例えば、ダンジョンで生き残る方法を考えること。
あるいは、次に何を作って食べるか考えること。
そんなことのほうが、話を聞く気もない人間と口論するより、よほど有意義だ。
一方で、生徒たちの雰囲気は次第に変わっていった。
目的地に近づくにつれ、緊張している者が増えているのがはっきりとわかった。
勇敢なふりをしている者。
気を紛らわせるために、ずっと誰かと話している者。
青ざめた顔で黙り込んでいる者。
彼らもようやく、これがいつでも中断できる冒険などではないと理解し始めたのだろう。
僕たちは本当に、モンスターがうろつく場所へ入ろうとしている。
そして、全員が無事に帰ってこられる保証などない。
僕自身、特に楽しみにはしていなかった。
もし誰かに、戦闘経験を積みたいかと聞かれたら、答えは簡単だ。
嫌だ。
僕は読書経験を積みたい。
だが、この世界はどうやら、かなり悪趣味な冗談が好きらしい。
本を与える代わりに、ダンジョンを与えてくるのだから。
本当に不公平な世界だ。
◇
そして、二日間の旅がようやく終わった。
実際の時間以上に長く感じられた旅だった。
「到着したぞ!」
外から、護衛の声が聞こえた。
僕は馬車から降り、体を伸ばした。
背中がこわばっている。
足も少し痛い。
昔の人々が長旅を忍耐力の試練と考えていた理由が、少しだけ理解できた気がした。
僕は目の前の光景を見つめた。
そして、黙り込んだ。
……。
あれ?
僕は何度か瞬きをした。
目の前にあったのは、岩山の斜面にぽっかりと開いた、大きな穴だった。
周囲には岩や土が広がり、少し離れた場所には木々が生えている。
その入口の前では、数人の王国兵が警備にあたっていた。
立派な門はない。
巨大な建造物もない。
重要な場所だと示す塔さえない。
ただ、岩の中に開いた大きな穴があるだけだ。
僕は首を傾げた。
「……あれがダンジョン?」
思わず口にしそうになったが、なんとかこらえた。
よく考えれば、ほかに何と呼べばいいのかもわからない。
あれは洞窟だ。
正真正銘の洞窟だった。
僕は、ダンジョンというものには専用の建物や石造りの門、あるいは重要な場所だとわかる何らかの構造物があるものだと思っていた。
だが、現実はただの洞窟である。
もっとも、入口に兵士たちが配置されている以上、普通の洞窟ではないのだろう。
王国がここを重要視しているのには、何か理由があるはずだ。
中に危険なモンスターがいるのかもしれない。
貴重な資源があるのかもしれない。
あるいは、その両方か。
僕は兵士たちを観察した。
彼らは武器を携え、学生たちの装備よりも明らかに質のよい防具を身につけていた。
表情も真剣だ。
少なくとも、ここが危険な場所だと理解している人間はいるらしい。
ただ、彼らが三十五人の高校生を、すでに実戦経験を積んだ兵士のように考えていないことを願うばかりだ。
……残念ながら、その願いは少し高望みだったらしい。
「生徒全員、集合!」
一人の騎士団長が前に出てきた。
ほかの兵士たちよりも質のよい鎧を身につけ、腰には剣を差し、立場を示す外套をまとっている。
彼は全員が集まったことを確認すると、説明を始めた。
「このダンジョンには、さまざまな種類のモンスターが生息している。周囲をよく確認し、決して軽率な行動を取るな」
彼の説明によれば、モンスターは岩陰や、一見すると何もない通路から現れることもあるらしい。
複数で群れを作って襲ってくる種類もいる。
特殊な能力を持つモンスターもいるため、見た目だけで弱いと判断してはならないという。
また、許可なく集団から離れることも禁止された。
負傷者が出た場合は、すぐに担当の騎士へ報告するようにとのことだった。
「一人でモンスターを追うな。集団から離れるな。そして、弱そうに見えるモンスターを危険ではないと決めつけるな」
僕は注意深く話を聞いた。
少なくとも、説明の内容自体はもっともだった。
しかし、説明が正しいからといって、高校生をダンジョンへ送り込むという判断まで正しくなるわけではない。
僕は一行とともに入口へ近づいた。
近づくほど、洞窟の内部がはっきりと見えてくる。
壁はごつごつしている。
地面は平らではない。
あちこちに大きな岩が突き出している。
そして、特に目を引いたのは天井の高さだった。
外から見た印象よりも、ずっと広い空間が広がっている。
僕は顔を上げ、そびえ立つ岩壁を眺めた。
ふむ。
こうして見ると、確かにファンタジー作品で描かれるダンジョンに似ている。
ただし、目の前の現実には緊迫感を演出する音楽など流れていない。
冒険の壮大さを説明するナレーションもない。
あるのは、湿った土の匂いと冷たい空気、そして数十人分の足音だけだった。
まあ。
入場料を払わなくていいだけ、マシか。
◇
僕たちは、洞窟の奥へと進み始めた。
最初のうちは、比較的平穏だった。
騎士たちが集団の前後を歩き、誰かが取り残されないように見張っている。
監視しやすいよう、生徒たちも互いに離れすぎないよう指示されていた。
緊張している者はいたが、まだ本格的なパニックには至っていない。
そして、最初のモンスターが現れた。
灰色の皮膚に鋭い歯の並んだ顎。
大きなトカゲのような姿をしたモンスターが、岩陰から飛び出し、前方の集団へと襲いかかった。
「モンスターだ!」
一人の生徒が叫んだ。
モンスターが近づくよりも早く、騎士の一人が前に出て剣を振るった。
動きは素早かった。
モンスターは地面に倒れ、その体はやがて光の粒となって消えていった。
僕は一連の光景を落ち着いて観察した。
なるほど。
この世界では、モンスターは死ぬとああやって消えるのか。
なかなか興味深い情報だ。
しかし、周囲の生徒たち全員が冷静でいられたわけではない。
「い、今のは何だ!?」
「あんなものを、あっさり倒したのか!?」
「もし、あんなのが僕たちに襲いかかってきたら、どうするんだ!?」
彼らの不安は理解できる。
モンスターを遠くから眺めるのと、誰かに襲いかかる姿を目の前で見るのとでは、まったく違う。
たとえ騎士がすぐに倒したとしても、その咆哮だけで後ずさる生徒が何人もいた。
騎士団長が手を掲げた。
「落ち着け! 隊列を崩すな!」
僕たちは再び歩き始めた。
それから間もなく、別のモンスターと遭遇した。
今度は、野犬に似た小型の生き物が、脇道から何匹も飛び出してきた。
そいつらは素早く動き、複数の方向から同時に襲いかかってきた。
騎士たちはすぐに陣形を整えた。
しかし、一匹がその隙間をすり抜け、男子生徒の一人に飛びかかった。
「うわああああっ!」
生徒は頭をかばいながら、その場に転倒した。
モンスターが彼に触れるよりも早く、騎士が蹴り飛ばした。
その直後、剣が振り下ろされ、短い戦闘は終わった。
「隊列から出るな!」
騎士が怒鳴った。
転んだ生徒は、何度も頷くことしかできなかった。
顔は青ざめ、手は震えている。
僕は一瞥した。
まあ、少なくとも生きている。
彼を笑う理由はない。
僕だって、モンスターと直接戦った経験などないのだから。
ただ、危険なものを見るたびに叫ぶ必要はないと思っているだけだ。
別に、勇敢なわけではない。
単に、体力を節約したいだけである。
それに、叫んだところでモンスターが勝手に消えてくれるわけでもない。
残念ながら、その後の道のりは楽になるどころか、ますます厳しくなっていった。
奥へ進むほど、モンスターと遭遇する回数が増えていく。
長い脚を持つ昆虫のような魔物。
小柄な体で群れを作る魔物。
そして、放っておけば突進して隊列を崩しかねない、硬い角を持つイノシシのような魔物。
騎士たちは何度も進行を止め、道を塞ぐモンスターと戦わなければならなかった。
戦闘が終われば、また歩く。
そして、別のモンスターと遭遇する。
停止。
戦闘。
再び移動。
また停止。
その繰り返しだった。
僕はようやく理解し始めた。
ダンジョンでの探索とは、決して楽しい冒険などではない。
危険な場所を長々と移動し、その途中で体力を消耗する戦闘が何度も発生する。
ただ、それだけのことだ。
騎士たちでさえ、次第に疲労の色を見せ始めていた。
生徒たちの状態は、さらにひどかった。
息を切らしている者。
震える手で武器を握りしめている者。
まるで出口が突然現れることを期待するかのように、何度も後ろを振り返る者。
僕は修吾の集団から距離を取ろうと努めた。
しかし、もちろん彼らは僕を静かに歩かせてはくれなかった。
「おい、ミズシナ! これを収納しろ!」
取り巻きの一人が、いくつかの装備を差し出してきた。
僕はそれを見た。
「どうして?」
「ごちゃごちゃ言うな! お前のスキルなんて、物を収納することくらいしかできないんだろ! 少しは役に立て!」
僕はため息をついた。
この台詞も、そろそろ壊れた録音機のように聞こえてきた。
「僕を役立たずだと思っているのに、どうして何度も頼むんだ?」
彼の顔が険しくなった。
「何だと?」
「いや、何でもない」
僕は差し出された荷物をいくつか収納した。
怖かったからではない。
ダンジョンの中で口論に時間を使いたくなかっただけだ。
それほど魔力を消費せずに収納できるのなら、さっさと済ませたほうが面倒が少ない。
ただし、誤解しないでほしい。
仲間だから助けたわけではない。
単に、最も面倒の少ない行動を選んだだけだ。
荷物を収納し終え、僕は再び歩き始めた。
視界の端で、修吾がこちらを見ているのがわかった。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
ただ、一つだけはっきりしていた。
彼は不機嫌だった。
それにしても、なぜだろう。
修吾には《勇者》のスキルがある。
王国から特別扱いされている。
多くの生徒が彼に憧れている。
それなのに、どうして彼は、役立たずと見なされている僕のことを、そこまで気にするのだろうか。
僕にはわからない。
そして、わざわざ知ろうとも思わなかった。
僕はただ、生きてここから出たいだけなのだから。
◇
時間は、いつの間にか過ぎていた。
いや、もしかしたら、ただひたすら長く感じられただけなのかもしれない。
僕たちは岩の通路を進み、足場の悪い坂道を下り、思いもよらない場所から現れるモンスターと戦い続けた。
何人かの生徒は、少しずつ戦闘の基本を理解し始めていた。
王国から渡された武器を使い、騎士たちを補助しようとする者もいた。
もっとも、その動きはぎこちなく、実戦経験がほとんどないことは明らかだった。
一方で、モンスターが現れるたびに、まったく動けなくなってしまう生徒もいた。
彼らはその場に立ち尽くし、誰かに引きずられるようにして初めて危険から離れることができた。
彼らを責めるつもりはない。
自分の命を奪いかねない相手と向き合うのは、簡単なことではないのだから。
ましてや、これまでの生活が学校や試験、生徒同士の人間関係を中心に回っていたのなら、なおさらだろう。
しかし、僕たちがダンジョンにいるという現実を無視するわけにもいかなかった。
小さなミスが、取り返しのつかない結果につながる可能性がある。
だからこそ、僕は周囲の状況を注意深く観察し続けた。
通路の形。
地面の状態。
騎士たちの位置。
そして、これまで通ってきた道順も、できるだけ記憶するようにした。
自分一人で出口を見つけられると確信しているわけではない。
ただ、何かが起きたとき、そうした情報が役立つかもしれないからだ。
少なくとも、全員が走り出したときに、何もわからず立ち尽くすような人間にはなりたくなかった。
いくつかの通路を抜けたあと、僕たちはようやく第五階層へ到達した。
この階層は、それまでとは少し構造が違っていた。
比較的狭い通路の先が、大きな空間へとつながっていたのだ。
その空間の中央には、崖の両側を結ぶ橋が架かっていた。
橋は、硬く固まった土でできているように見えた。
表面は粗く、ところどころに小さなひび割れがある。
そして、その下には深い谷が広がっていた。
僕は端の近くで足を止め、下を覗き込んだ。
……。
底が見えない。
目を細めてみる。
谷の底は暗闇に覆われており、どれほど深いのかさえわからなかった。
ここから落ちたら、簡単には戻ってこられないだろう。
僕は橋へ視線を戻した。
つまり、これを渡らなければならないわけか。
この橋が自然にできたものなのか、それともダンジョンの構造の一部なのかはわからない。
ただ、見たところでは、人が渡れる程度には頑丈そうだった。
少なくとも、見た目だけなら。
「立ち止まるな! 一人ずつ進め!」
騎士団長が指示を出した。
生徒たちは橋を渡り始めた。
何人かは端から距離を取り、慎重に歩いている。
足場が崩れないか確かめるように、下を見ながら進む者もいた。
平静を装っている生徒もいたが、その歩みがいつもより遅いのは明らかだった。
僕は順番を待ちながら、橋を観察した。
ふむ。
土が十分に固まっているのなら、人間の体重くらいは支えられるはずだ。
しかし、橋の下側がどうなっているのかはわからない。
この橋を壊せるモンスターがいるのかどうかもわからない。
実に素晴らしい。
危険な場所で、不完全な情報しか持っていない。
まさに完璧な組み合わせだ。
やがて、僕の番が来た。
僕は橋へ足を踏み入れた。
一歩。
二歩。
三歩。
表面は粗く、足が滑りにくくなっている。
僕は谷の端から十分に距離を取り、急がずに歩き続けた。
後ろからは、生徒たちの話し声や騎士たちの指示が聞こえてくる。
すべては、順調に進んでいるように見えた。
少なくとも、あの奇妙なことが起きるまでは。
突然、背中に違和感を覚えた。
何かに押されたような感覚。
はっきりとした衝撃ではない。
誰かの手が体に触れた感触もなかった。
すぐ後ろに人がいると確信できるほど、近くから足音が聞こえたわけでもない。
それなのに、その感覚は確かにあった。
体が前方へと押し出される。
……え?
僕はバランスを崩した。
足場を探そうとしたが、すでに遅かった。
足元から地面が遠ざかっていく。
一瞬、目の前に広がる何もない空間を見つめた。
ああ。
なるほど。
僕は、押されたのか?
その考えが、妙にはっきりと頭に浮かんだ。
おかしい。
何かに触れられた感覚はなかった。
それなのに、誰かが僕を押した。
そして今、僕は落下している。
視界がひっくり返った。
上から悲鳴が聞こえる。
橋と僕との距離が、どんどん離れていく。
この谷がどれほど深いのか、僕にはわからない。
生き延びられるのかどうかもわからない。
ただ、一つだけ、ひどく腹立たしいことがあった。
この世界に来てから、まだ一冊も本を読んでいないのだ。
まったく、納得のいかない最期だ。
◇
水科理人が谷底へと落ちていった瞬間、橋の上にいた生徒たちの間に、たちまち混乱が広がった。
「何が起きたんだ!?」
「落ちたぞ!」
「引き上げろ! 早く!」
何人かの生徒が橋の端へ駆け寄った。
しかし、谷へ飛び込んだり、降りて助けに向かったりするほどの勇気を持つ者はいなかった。
あまりにも深すぎたのだ。
身を乗り出して下を覗き込んでも、理人の姿は見つからない。
その体は、わずかな時間で暗闇の中へと呑み込まれてしまった。
「誰がやったんだ!?」
一人の生徒が、震える声で叫んだ。
「勝手に落ちたわけじゃないだろ! 俺は、あいつがバランスを崩すのを見たぞ!」
「橋の端に近づくな! 下がれ!」
騎士が怒鳴った。
しかし、その命令はすぐには守られなかった。
生徒たちの何人かは、青ざめた顔で谷を見つめ続けていた。
口元を押さえる者もいた。
泣き始める者もいた。
つい先ほどまで、同じ世界から来たクラスメイトが、どれほど深いのかもわからない谷へ落ちていったのだ。
彼がまだ生きているのかどうかさえ、誰にもわからなかった。
騎士団長が急いで橋の端へ近づいた。
彼は地面の状態を確認してから、周囲に集まった生徒たちを見渡した。
「何が起きたのか、正確に見た者はいるか?」
はっきりとした答えは返ってこなかった。
理人が突然バランスを崩したと話す者。
ただ悲鳴が聞こえただけだと言う者。
混乱しすぎて、何が起きたのか説明できない者もいた。
「勝手に落ちるはずがないだろ!」
「じゃあ、誰が押したんだ!?」
「後ろにモンスターがいたんじゃないのか!?」
「そんな場所にモンスターはいなかった!」
声が次々と重なり合う。
混乱のせいで、誰も落ち着いて考えることができなかった。
騎士団長が声を張り上げた。
「静まれ! 全員、その場から動くな!」
しかし、生徒たちの声がようやく収まっても、確かな答えは得られなかった。
犯人は見つからない。
誰かを指し示せるだけの証拠もない。
ただ一人の生徒が、谷へ落ちた。
それだけだった。
そして、不安に包まれた群衆の中で、一人の生徒が薄く笑った。
その笑みは、一瞬だけだった。
あまりにも短く、周囲の誰も気づかなかったほどだ。
その生徒はすぐに驚いたような表情を取り繕い、ほかの者たちと同じように怯えているふりをした。
誰も、その変化に気づかなかった。
橋の上で何が起きたのか。
本当は誰が何をしたのか。
その真相を知っている者が、少なくとも一人はいた。
だが、その人物が自ら口を開くことはなかった。
「団長!」
後方の通路から、一人の騎士が駆け寄ってきた。
「報告です! ここまで通ってきた通路から、大量のモンスターが移動してきています!」
騎士団長が即座に振り向いた。
「何だと?」
「モンスターの群れが接近中です! 数が多すぎます。この場で迎え撃つのは困難です!」
彼が次の指示を出すよりも早く、地面が揺れ始めた。
最初は、小さな揺れだった。
しかし、それは次第に大きくなっていく。
天井から砂埃が落ちる。
小さな石が転がり、地面の上を滑っていった。
通路の奥から、重い地響きが聞こえてくる。
生徒たちは再びパニックに陥った。
「今度は何だ!?」
「地面が揺れてるぞ!」
「まさか、大型のモンスターが来るんじゃ……!?」
騎士団長は即座に決断した。
「全生徒、ただちにダンジョンから脱出しろ! 理由があろうと、絶対に立ち止まるな!」
彼は入口へと続く通路を指さした。
「騎士たちは生徒を守れ! 今すぐ移動するぞ!」
「はっ!」
騎士たちは、すぐに生徒たちを護衛するための隊列を組んだ。
しかし、命令が出された瞬間、残されていた秩序は一気に崩れ去った。
生徒たちは、我先にと通路へ向かって走り始めた。
互いを追い越そうとし、ぶつかり合い、少しでも早く出口へたどり着こうとする。
「押し合うな!」
「落ち着け! 人を押すな!」
「足元に気をつけろ!」
騎士たちは何度も叫び、集団がばらばらにならないよう努めた。
しかし、その声は騒音にかき消されてしまう。
誰もが恐怖を感じていた。
どんなモンスターが近づいているのか、誰にもわからない。
出口までの道が安全なのかどうかもわからない。
そして、一人の生徒が谷へ落ちるのを目撃したことで、最悪の事態を想像し始めた者もいた。
彼らが望んでいるのは、ただ一つ。
ここから出ること。
一刻も早く。
そんな混乱の最中、集団の後方にいた一人の女子生徒が足を滑らせた。
靴が、ひび割れた地面を踏んでしまったのだ。
体が大きく傾く。
「えっ――?」
彼女はバランスを保とうとして、何かにつかまろうとした。
しかし、周囲の人々は走り続けていた。
誰かが彼女の肩にぶつかった。
体が横へと押し出される。
そして、助けを求める声を上げる間もなく、彼女の足が橋の端を越えた。
女子生徒は、同じ谷へと落ちていった。
誰も気づかなかった。
生徒たちは走り続ける。
騎士たちは、足元に注意するよう叫び続ける。
地面の揺れはますます強くなり、背後の通路から聞こえる轟音も、少しずつ大きくなっていった。
女子生徒の悲鳴は、騒がしい足音と叫び声にかき消された。
誰も聞いていなかった。
誰も見ていなかった。
そして、混乱の中で橋の上に残っている生徒の数が、もう一人分減っていたことにも、誰一人気づかなかった。
ダンジョンは揺れ続ける。
モンスターの群れは、すぐそこまで迫っていた。
そして、誰も知ることのない深い谷の底へ向かって、異世界から来た二人の生徒が落ちていく。
その先に、どんな運命が待っているのかも知らずに。
つづく……




