第4話――城で過ごした二週間と、不穏な予感の始まり
この世界に召喚されてから、二週間が経過した。
この二週間がどんなものだったかと聞かれれば、答えは至って簡単だ。
それなりに平和だった。
少なくとも、この王城を初めて見たときに想像していたよりは、ずっと平和な日々を送れている。
……まあ、一つだけ気になることがある。
「リヨ、そこの箱を倉庫まで運んでくれるか?」
「分かりました」
作業員に指示された箱を持ち上げ、目的の場所まで運ぶ。
そして戻ってくると、また同じ名前が聞こえてきた。
「ありがとう、リヨ」
「リヨ、あとで時間あるか?」
「リヨ、昼食を忘れるなよ」
僕は足を止めた。
リヨ。
リヒトでもない。
リトでもない。
リヨ。
「……どうしてみんな、そう呼ぶんだ?」
もちろん、こうなった経緯は分かっている。
初めて何人かの作業員に自己紹介したとき、僕は軽く自分の名前を伝えただけだった。
僕の名前は、水科理人。
しかし、彼らにとっては少し発音しづらかったらしく、いつの間にかリヨという呼び方に変わっていた。
最初は訂正しようとも思った。
けれど、よく考えてみれば、わざわざ訂正する意味があるだろうか。
僕は家名を大切にしなければならない貴族に扮しているわけではない。ただ、情報を集めながら、平穏な日々を送りたいだけだ。
彼らがリヨと呼びたいのなら、それでいい。
これ以上おかしな名前で呼ばれない限り、特に問題はない。
「リヨ! またぼーっとしてるぞ!」
「ああ、すみません。ちょっと考え事をしていました」
「そんなに考え込むなよ。髪が抜けちまうぞ!」
「それなら、考える回数を減らすように努力します」
「ハハハ! 本当に変わった奴だな!」
年配の作業員は大声で笑うと、再び自分の仕事に戻っていった。
僕は小さくため息をついた。
……どうやら、この世界で髪を守る唯一の方法を失ってしまったらしい。
もっとも、今のところ髪に異常はないので、それほど深刻な脅しではないのかもしれない。
◇
この二週間で、もう一つ気づいたことがある。
年配の作業員たちの何人かが、どうやら僕のことを素直でいい子だと思っているらしい。
自分では、特別なことをしているつもりはない。
時間どおりに来て、頼まれた仕事をこなし、騒ぎを起こさず、誰かが困っていれば手を貸す。
当たり前のことではないだろうか。
それなのに、なぜか彼らの態度は少しずつ変わっていった。
「リヨ、ちょっとこっちにおいで」
ある日の夕方、年配の女の使用人が厨房の近くから僕を呼んだ。
「何ですか?」
「ほら、これ。持っていきなさい」
彼女は布に包まれた小さなケーキを差し出した。
僕はそれを見てから、彼女の顔を見た。
「僕にですか?」
「ここにリヨという名前の人がほかにいるのかい?」
「僕の知る限り、いませんね」
「なら、受け取りな。ちょっと作りすぎただけさ」
僕は慎重にケーキを受け取った。
「ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。昨日、小麦粉の袋を運ぶのを手伝ってくれただろう?」
「ああ、あれくらい大したことではありませんよ」
「なら、ちゃんと食べな。働きすぎて痩せちまったら大変だからね」
僕は手元のケーキを見つめた。
それから、遠ざかっていく彼女の背中を見送った。
……怪しくないだろうか?
いや、待て。
人の親切を何でも疑えばいいというものではない。
たぶん。
僕はケーキを口に入れた。
なかなか美味しい。
結論。
あの年配の使用人はいい人だ。
暫定評価、十点満点中九点。
一ポイント減点した理由は、僕に仕事を頼みながら健康を心配してくるところだ。
とはいえ、こうしたことは一度きりではなかった。
廊下ですれ違った衛兵が果物をくれることもあった。
厨房の作業員が、焼きたてのパンを取っておいてくれることもあった。
庭師の老人から、炒った豆を袋ごともらったことさえある。
彼らが誰に対してもこうなのか、それとも僕にだけなのかは分からない。
だが、心からの好意で差し出された無料の食べ物を断るつもりはなかった。
何しろ、食事は人間が生きていくために必要なものだ。
特に、無断で借りてきた硬いパンと牛乳だけで朝を過ごしたことのある人間にとっては。
あの経験は忘れない。
顎だって、きっと忘れていない。
◇
もちろん、彼らが親切にしてくれるのには理由があった。
あるとき、年配の女の使用人が僕に家族について尋ねてきた。
「リヨ、この街では家族と一緒に暮らしているのかい?」
道具を整理していた僕は、その質問に答えた。
「いいえ」
「そうかい。じゃあ、ご両親は?」
僕は一瞬だけ黙り、それから答えた。
「もういません」
女の使用人は作業の手を止めた。
「ああ……すまないね。悲しいことを思い出させてしまったかい?」
「いえ、大丈夫です」
僕は再び道具を整理し始めた。
両親を亡くしてから、ずいぶん長い時間が経っている。
だから、日常生活の中でそのことを意識する機会はあまりなかった。
もちろん、まったく思い出さないというわけではない。
ただ、時間は流れ続けるし、生きていくためにやらなければならないこともたくさんある。
変えられないことを考えるたびに立ち止まっているわけにはいかない。
少なくとも、僕はそう考えている。
けれど、年配の使用人は少し違う考えを持っていたらしい。
彼女は優しく僕の肩を叩いた。
「だったら、私たちに遠慮なく頼りなさい。あんたはまだ若いんだから、何もかも一人で抱え込む必要はないよ」
「ありがとうございます」
「それから、食事の時間は守ること!」
「はい」
「誰かに嫌なことをされたら、私に言いなさい!」
「はい」
「具合が悪くなったら、すぐに休むんだよ!」
「はい」
「それと――」
「……そろそろ仕事に戻ってもよろしいでしょうか?」
彼女は言葉を止めた。
そして、小さく笑った。
「まったく、この子は。ほら、行っておいで」
僕は軽く頭を下げてから、再び仕事に戻った。
……どうやら、僕は新しいおばあちゃんを手に入れてしまったらしい。
異世界召喚の特典に、こんなものが含まれているのだろうか。
もしそうなら、ずいぶんと妙な報酬システムだ。
◇
問題は、年配の作業員たちだけが僕に優しくしてくれるわけではないことだった。
何人かの若い女性使用人も、どうやら僕をかなり高く評価しているらしい。
理由はよく分からない。
確かに、僕はよく彼女たちの仕事を手伝っている。
物資の記録を理解できなかったり、特定の文字が読めなかったりする人がいれば、説明することもあった。
まだ知らない単語があるからと、読み方を教えてほしいと頼まれることもある。
僕にとって、それほど難しい仕事ではない。
文字を説明し、読み方を教え、その意味を伝える。
それでも理解できないようなら、別の方法で説明してみる。
ただ、それだけだ。
ところが、彼女たちの反応は時々大げさに感じられた。
「リヨって、本当に頭がいいのね!」
「そんなことはありませんよ。似たようなものを読んだことがあるだけです」
「じゃあ、たくさん本を読んできたの?」
「まあ、それなりに」
「すごい……」
彼女たちの目には、尊敬の色が浮かんでいた。
僕は少し居心地が悪くなった。
どうか、そんな目で見ないでほしい。
僕は物資の一覧表に書かれた文字を説明しただけだ。
千年もの間、人類を悩ませてきた古代の謎を解いたわけではない。
それどころか、彼女たちの中には、わざわざ僕と話すために理由を作る人まで現れ始めた。
「リヨ、この記録を確認してくれない?」
「いいですよ」
「終わったら、少し時間ある?」
「何に使うんですか?」
「えっ……それは、その……」
彼女は口ごもった。
「な、何でもない! 忘れて!」
そう言うと、顔を赤くして去っていった。
僕はその背中を見つめた。
……今、何か間違ったことをしただろうか?
念のため、さっき確認した記録を見直してみた。
間違いはない。
数字も合っている。
物資の数にも問題はなかった。
それなら、一体何が問題なのだろう。
本当に分からない。
しかし、僕を最も困惑させたのは、実はそれではなかった。
問題は、甘いお菓子だった。
◇
僕はこれまで、誰にも見られないように何度か《再創造》のスキルを試してきた。
もちろん、今の魔力量では大きなものを作り出すことはできない。
だが、小さなものであれば、どうにか作れるらしい。
特に、材料の構成をある程度理解しているものなら、なおさらだった。
例えば、砂糖菓子。
この世界に存在する食材の科学的な詳細を、すべて知っているわけではない。
それでも、一般的な甘いお菓子に使われる材料について、基本的な知識は持っていた。
砂糖。
水。
少量の香料。
そして、特定の食感を生み出すために必要な材料。
構成と構造の基本を理解していれば、作れる可能性がある。
もちろん、毎回成功するわけではなかった。
何度かの失敗では、食べ物と呼ぶことすらためらわれるようなものができてしまった。
しかし、何度か試行錯誤を繰り返した結果、ようやくいくつかの簡単な甘いお菓子を作り出すことに成功した。
少なくとも、城の厨房で見かけたものとは形も味も違っているはずだ。
もちろん、自分のスキルの秘密を褒めてもらうためだけに明かすつもりはない。
だから、一人でいるときに少量ずつ作ることにした。
そして、普段から世話になっている作業員たちに配った。
あくまでも、お礼として。
それ以上の意味はない。
……残念ながら、僕は一つだけ考慮し忘れていた。
彼らの反応だ。
「リヨ……これ、何?」
「お菓子です」
「お菓子?」
「はい。たぶん、ここではまだ作られたことがないものだと思います」
お菓子を受け取った使用人は、好奇心いっぱいの目で手の中の小さな菓子を見つめた。
そして、一口食べた。
次の瞬間、彼女は黙り込んだ。
僕は待った。
一秒。
二秒。
三秒。
「……すっごく美味しい!」
予想していたよりも大きな声だった。
僕は反射的に扉のほうを振り返った。
ほかに誰もいない。
よかった。
しかし、彼女はすでに目を輝かせながら僕を見つめていた。
「リヨ! これ、どうやって作ったの?」
「秘密です」
「ひ、秘密!?」
「教えたら、誰でも作れるようになってしまいますから」
完全な嘘というわけではない。
少なくとも、まだ自分でもよく理解できていないスキルを使っていることまで説明するつもりはなかった。
彼女は大切そうにお菓子を持ったまま、僕を見た。
「じゃあ、また今度、一つもらってもいい?」
「時間があれば」
「本当!? ありがとう!」
彼女は何度も頭を下げた。
小さなお菓子一つにしては、ずいぶんと大げさな反応だと思った。
だが、話はそれで終わらなかった。
翌日、今度は別の使用人が二人、僕のところへやってきた。
「リヨ、すごく美味しいお菓子を作れるって聞いたんだけど、本当?」
「……誰から聞いたんですか?」
「友達からよ」
僕は二人を見つめた。
二人も僕を見つめ返す。
やがて、そのうちの一人が満面の笑みを浮かべた。
「よかったら、私たちにも食べさせてほしいな!」
こうして、僕の秘密は広まっていった。
スキルについての秘密ではない。
それだけは幸いだった。
広まったのは、お菓子についての秘密だった。
しかし、食べた人が増えるにつれて、僕に対する彼女たちの態度も妙なものになっていった。
尊敬するような視線。
やけに明るい笑顔。
以前よりも頻繁に向けられる質問。
さらには、僕一人でも十分にこなせる仕事を、わざわざ手伝おうとしてくることまであった。
僕は一つの事実を理解し始めた。
美味しい食べ物を人に配るというのは、危険な行為なのかもしれない。
毒を盛られるからではない。
ファンが増えすぎてしまうからだ。
暫定的な結論。
次からは、もう少し慎重に行動しよう。
あるいは、普通の味のお菓子を作るべきかもしれない。
……いや。
それはさすがに悲しすぎる。
◇
一方、若い男性作業員たちの態度にも変化が現れ始めていた。
最初は、彼らも僕を少し真面目な新人程度にしか思っていなかった。
しかし、何度か一緒に働くうちに、気軽に話しかけてくるようになった。
仕事を手伝ってほしいと頼まれることもあれば、一緒に食事をしようと誘われることもあった。
そしてある日、そのうちの一人が突然、僕の肩を叩いた。
「おい、リヨ! 困ったことがあったら、俺たちに言えよ。な、弟分!」
「弟分?」
「そうだ! 今日から俺たちを兄貴だと思ってくれ!」
「……そうですか」
僕は彼らの顔を一人ずつ見た。
僕よりずっと年上に見える人もいれば、年齢がそれほど離れていなさそうな人もいる。
それなのに、彼らは一方的に決めたその関係を、ずいぶんと気に入っているようだった。
「誰かに絡まれたら、俺たちを呼べよ!」
「心配するな! 俺たちが助けてやる!」
「もうお前は俺たちの弟みたいなもんだからな!」
僕はどう反応すればいいのか分からなかった。
ただ荷物を運ぶのを手伝い、時々食べ物を分けただけなのに。
どうして兄弟関係にまで発展したのだろう。
これも城で働くことによる副作用なのか。
それとも、彼らは弟に飢えているのだろうか。
分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
このままいけば、いつか城の作業員全員が僕を家族の一員だと思い始めるかもしれない。
そして、そうなれば、ここで身分を隠し続けるのはますます難しくなる。
彼らが僕を疑うからではない。
むしろ、僕のことを知りすぎてしまうからだ。
……なぜだろう。
そちらのほうが、よほど面倒な気がする。
◇
衛兵たちとの関係も、なかなか良好だった。
彼らはほかの作業員ほど簡単に人を信用するわけではない。
それでも、何度か顔を合わせるうちに、僕にも気さくに接してくれるようになった。
特に、僕が彼らから情報を集める方法を見つけてからは、さらに話しやすくなった。
やり方は簡単だ。
食べ物。
もっと正確に言えば、酒と一緒につまめる食べ物だ。
ある夜、仕事を終えた何人かの衛兵が、僕を飲みの席に誘ってくれた。
もちろん、本当に酒を飲むつもりはなかった。
飲んでいるふりをして少しだけ口をつけ、あとは彼らの話に耳を傾ける。
最初のうち、話題は他愛もないものばかりだった。
天気。
仕事。
壊れた装備。
上司への愚痴。
しかし、しばらくすると、話題はもっと興味深いものへと移っていった。
民衆の暮らし。
食料の備蓄。
国境付近の地域。
そして、貴族たちの決定が一般の人々の生活にどのような影響を与えているのか。
その会話を通じて、僕は王国の実情を少しずつ理解し始めた。
どうやら、いくつかの地域では、王城で見聞きするほど民衆の暮らしは豊かではないらしい。
食料の確保に苦労している地域もある。
モンスターの脅威に何度もさらされている国境付近の地域もある。
その一方で、そこで任務に就いている衛兵たちは、古くなった装備を使い続けなければならないこともあるそうだ。
もちろん、彼らの話だけで王国全体の状況を判断することはできない。
しかし、何人かの異なる人間から話を聞いているうちに、同じ傾向が見えてきた。
この王国には、認めたがらない問題が山ほどある。
そして、そのすべてが魔王のせいというわけでもなさそうだった。
僕はその情報を記憶に留めた。
それから、スキルで作った食べ物を取り出した。
「席に混ぜてもらったお礼です。よかったら食べてください」
衛兵の一人が、それを手に取った。
少しかじる。
すると、彼の目が大きく見開かれた。
「おい……これ、すごく美味いぞ!」
「そうでしょう?」
「こんな食べ物、どこで手に入れたんだ?」
「料理が少し得意なんです。そういうことにしておいてください」
僕は薄く笑った。
完全な嘘ではない。
どう作ればいいかは理解しているのだから。
ただし、厨房を使っていないだけだ。
衛兵たちは、僕が持ってきた食べ物をあっという間に平らげた。
その後、場の雰囲気はさらに和やかになった。
そして、どういうわけか、その夜の会話は、彼らが僕にナイフを使った護身術の基礎を教えるという話に行き着いた。
「一人で出歩くことが多いなら、自分の身を守る方法くらいは知っておいたほうがいい」
「そうだな。達人になる必要はない。相手と距離を取って、逃げる隙を見つけられれば十分だ」
僕は真剣に彼らの説明を聞いた。
ナイフの安全な持ち方。
体の構え方。
そして、危険な動きを避けるための基本的な考え方。
僕は戦士ではない。
それに、自分から面倒事を探しにいくつもりもない。
しかし、自分の身を守る方法を知っておくのは、間違いなく役に立つ。
特に、モンスターや魔法が存在し、暴力を振るうことをためらわない人間がいる世界なら、なおさらだ。
「ありがとうございます。練習しておきます」
「よし! じゃあ、次もあの食べ物を持ってこいよ!」
「……それが条件ですか?」
「ハハハ! もちろんだ!」
僕は小さくため息をついた。
どうやら、この世界でも食べ物はなかなか有効な外交手段らしい。
自分へのメモ。
おやつの力を侮ってはいけない。
◇
そして、もう一つ気づいたことがあった。
僕は給料をもらっていた。
そう。
給料だ。
最初、僕は作業員たちが食べ物をくれるのは、単なる親切心からだと思っていた。
自分が王国の職員として正式に働いているなどとは、まったく考えていなかった。
身分を隠しながら情報を集めるついでに、彼らの仕事を手伝っているだけだったからだ。
ところが、ある日の夕方、管理を担当している職員が僕のところへやってきて、小さな袋を差し出した。
「ここ数日間の仕事の報酬だ」
僕は袋を見た。
それから、彼の顔を見た。
「……報酬ですか?」
「そうだ。ずいぶん仕事を手伝ってくれただろう?」
「ですが、僕は正式に雇われたわけではありません」
「それはそうだが、すでに働いてもらった分は支払わなければならない。とりあえず臨時の報酬ということにしておこう。今後もここで働くなら、そのときにまた話し合えばいい」
僕は黙り込んだ。
何かがおかしい。
僕はこの世界に、役立たずと判断された学生として召喚された。
王国からは放置された。
食事も与えられなかった。
公式行事にも呼ばれなかった。
それなのに、今では同じ王国から給料をもらっている。
いくら何でも、話が早すぎないだろうか。
そもそも、僕はまだ求人への応募用紙すら書いていない。
「何か問題でもあるのか?」
「いえ。ありがとうございます」
僕は丁寧に礼を言い、袋を受け取った。
管理担当者が去ったあと、袋を開けて中身を数えてみた。
大金というわけではない。
それでも、立派なお金だ。
食料や衣服、あるいは、いつか王城を離れることになったときに必要なものを買うために使える。
僕は袋を大切にしまった。
……よし。
今の僕の状況は、二週間前よりずっと良くなっていると認めざるを得ない。
寝る場所がある。
知り合った人たちから食べ物をもらえる。
それほど疑われずに情報を集められる。
護身術まで教わり始めた。
そして、収入も得られるようになった。
考えてみれば、これはほとんど普通の生活ではないだろうか。
いや、むしろ普通すぎるくらいだ。
僕は部屋の天井を見上げた。
「……僕、もしかして生活シミュレーションゲームでもやってるのか?」
もしそうなら、開発者に一つだけ質問したい。
どうして役立たず扱いされたキャラクターのほうが、主人公よりも早く定職に就いているんだ?
返事はない。
当然だ。
これはゲームではないのだから。
◇
その後も、日々は穏やかに過ぎていった。
相変わらず使用人たちの仕事を手伝い、ときどき衛兵たちと話をする。
年配の作業員から軽食をもらうこともあった。
そして、機会を見つけては、こっそり《再創造》のスキルを使った。
ナイフの扱いも練習し続けた。
上達の速度はそれほど速くない。
それでも、少しずつ基本を理解できるようになってきた。
経験豊富な相手と戦えるほど強くなったわけではない。
しかし、二週間前と比べれば、危険に備えるための準備は多少なりとも整ってきている。
すべてが普通に感じられた。
召喚される前に送っていた生活と、ほとんど変わらないくらいに。
もちろん、細かい違いはいくつかある。
僕は今、異世界に住んでいる。
まだ完全には理解できていない神級スキルを持っている。
王城で身分を隠しながら働いている。
そして、今いる国は魔王との戦争に向けて準備を進めている。
……よく考えれば、どれ一つとして普通と呼べるものがない。
それでも、問題が向こうからやってこない限り、こちらから面倒事を探しにいくつもりはなかった。
残念ながら、この世界には別の考えがあるらしい。
◇
ある朝、仕事に取りかかる準備をしていたとき、誰かが僕の寮の扉を叩いた。
コン、コン、コン。
僕は靴ひもを結ぶ手を止めた。
ここまで僕を訪ねてくる人間は、それほど多くない。
たいてい、仕事を頼みたい人がいれば、職場で声をかけてくるからだ。
僕は扉を開けた。
目の前に立っていたのは、正式な身なりをした男だった。
服装は整っている。
態度は堅苦しい。
その後ろには、護衛らしき男が二人立っていた。
男は僕を見た。
それから、眉をひそめた。
「……お前は誰だ?」
僕は無表情で彼を見返した。
なかなか興味深い質問だ。
自分から僕の寮までやってきたのに、僕が誰なのか分からないらしい。
「水科理人です」
今回は、あえて本名を名乗った。
男は少し考え込むような仕草をした。
そして、表情を変えた。
「ああ。ほかの者たちと一緒に召喚された学生か」
「どうやら、そのようです」
「……そうか」
彼は僕の姿を上から下まで観察した。
何を考えているのかは、だいたい想像できた。
僕は、いつも仕事で使っている服ではなく、学校の制服を着ていた。
少なくとも、身分を隠すために使っていた作業着とは別に、制服だけはきれいな状態で保管しておいたのだ。
いつか王国の人間が僕を訪ねてきたとき、使用人の服を着た姿を見せたくはなかったからだ。
そして今、その予想は当たったらしい。
男は、僕の様子を見て少し困惑しているようだった。
しばらくまともな食事を与えられていなかったのだから、もっとやつれていると思っていたのかもしれない。
あるいは、与えられた住居について不満を口にすると思っていたのだろう。
しかし、僕は健康そうな状態で彼の前に立っていた。
制服は清潔だ。
顔にも、ひどく疲れている様子はない。
むしろ、彼らが予想していたよりも元気そうに見えたのかもしれない。
もちろん、ここ二週間、どうやって食べ物を手に入れていたのかを説明するつもりはなかった。
それは僕の秘密だ。
男は咳払いをした。
「陛下がお前を呼んでいる」
「何の用ですか?」
「この世界に召喚された学生全員に、話があるそうだ」
「そうですか」
僕はうなずいた。
男は何かを言いかけたようだったが、結局、口を閉じた。
先ほどまでわずかに見えていた困惑は、次第に薄れていった。
まるで、僕がまだ生きていて、自分の足で歩けると確認できた時点で、僕の事情などどうでもよくなったかのようだった。
「準備しろ。すぐに出発する」
「分かりました」
男は護衛二人を連れて背を向け、歩き去っていった。
僕は扉を閉めた。
それから、数秒間その場に立ち尽くした。
「……そうか。まだ僕のことを覚えていたのか」
少しだけ感動しそうになった。
本当に、少しだけだ。
残念ながら、その感情は長く続かなかった。
二週間もの間、放置していた学生を王国が突然呼び出す。
そんなことが起きるのなら、何かがあったと考えるのが自然だ。
そして、そういう場合、たいてい良い知らせではない。
僕は用意しておいた制服を整え、重要な持ち物が残っていないか確認した。
仕事で得たお金は安全な場所にしまった。
役に立ちそうな小物もいくつか持っていくことにした。
部屋を出る前に、もう一度自分のステータスを確認する。
《再創造》は健在。
魔力は相変わらず少ない。
そして、危険な相手と正面から戦えるほどの力は、まだない。
「……よし。何をさせるつもりなのか、見てみよう」
僕は寮を出て、王国の役人についていった。
移動中、王城へ向かう人々の会話が耳に入ってきた。
断片的な情報を拾い集めるうちに、今回の呼び出しの目的がようやく分かった。
僕たちは、ダンジョンへ送られるらしい。
僕は一瞬、足を止めた。
ダンジョン。
モンスターと危険に満ちた場所。
冒険者たちの実力を試すためにも使われるという場所。
そして今、王国は僕たちをそこへ送り込もうとしている。
正確な理由は分からない。
訓練の一環なのだろうか。
僕たちの能力を試したいのだろうか。
それとも、まだ説明されていない別の理由があるのか。
断定はできない。
だが、一つだけ不快に感じることがあった。
彼らがこの決定を伝えるやり方だ。
まるで、僕たちに選択の余地などないかのようだった。
すでに決定された事項を、一方的に告げている。
僕はゆっくりと息を吐いた。
「……嫌な予感しかしないな」
僕は、理由もなく他人を疑うような人間ではない。
しかし、この二週間、王国を観察してきて分かったことがある。
権力を持つ者たちの決定が、必ずしも下にいる人間たちの利益を考えて下されるとは限らない。
だからこそ、何の準備もせずに出発するつもりはなかった。
少なくとも、僕たちに出された命令について、書面で記録を残してもらう必要がある。
もし何か悪いことが起きたとき、誰が、どこへ、どのような決定に基づいて僕たちを送り出したのか。その証拠を持っておきたい。
出発前に、許可証か正式な声明書のようなものを作成してもらう必要もあるかもしれない。
悪いことが起こると決めつけているわけではない。
ただ、状況が悪化したとき、自分を守るために使える唯一の証拠を失いたくないだけだ。
「ダンジョンに送り込むつもりなら、せめてその決定に責任を持ってもらわないとな」
僕は小さくつぶやいた。
もちろん、こちらの要求が受け入れられるかどうかは分からない。
それでも、書面での証拠を求めること自体に、損はないはずだ。
そして、もし彼らが納得できる説明を拒むのなら……。
それもまた、追加の情報として受け取ればいい。
つまり、もっと慎重に行動しなければならないという情報だ。
僕は再び歩き始め、王国の役人についていった。
ここ二週間は平和だった。
食べ物も手に入り、給料ももらい、新しい知り合いもできた。
おまけに、護身術まで教わることができた。
一時は、自分が見知らぬ世界にいて、まだ完全には信用できない王国の支配下にいることさえ忘れかけていた。
しかし、どうやらその平穏な時間も、そろそろ終わりを迎えるらしい。
僕は、目の前に続く長い廊下を見つめた。
「まあ……僕の考えすぎであってくれるといいんだけど」
残念ながら、今回ばかりは、自分のそんな願いを一番信用できなかった。
つづく……




