第1話――王国に選ばれた勇者と、役立たず
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白い光が、ようやく消えた。
その代わりに彼らの目の前に広がっていたのは、誰一人として見覚えのない広大なホールだった。
床は白く磨き上げられた石で造られ、複雑な金色の模様が刻まれている。高い柱が遥か上方の天井まで伸び、空中には光を放つ水晶がいくつも浮かんでいた。蝋燭も照明器具もないというのに、室内は明るく照らされている。
周囲には、見慣れない服装の人々が何十人も立っていた。
金糸の刺繍が施された長いローブを身にまとった者もいれば、剣を携え、全身を鎧で固めた者もいる。その姿は、どう見ても撮影用の小道具には見えなかった。さらに後方には、頭を垂れた侍女や聖職者たちが控えている。
そして、三十五人の生徒と一人の教師が現れた魔法陣の正面には、白い髭を蓄えた老人が立っていた。
頭には黄金の王冠。
その隣には、白いドレスをまとった金髪の少女が立っている。美しい顔立ちに優雅な立ち居振る舞い。だが、その表情には安堵を隠そうとするような緊張がわずかに浮かんでいた。
一年B組の生徒たちの中に、この状況を理解できる者は一人もいなかった。
数人の生徒が、さっそく悲鳴を上げる。
「な、なんだここ!?」
「どこだよ、ここ!?」
「えっ、待って! 学校じゃないんだけど!?」
「スマホ、圏外なんだけど!」
自分の腕をつねって夢かどうか確かめる者もいれば、まるで移動の途中で身体の一部でも失ったのではないかと疑うように、自分の身体を確認する者もいた。
担任教師の桐島佳澄は、なんとか生徒たちを落ち着かせようとした。
「みんな、落ち着いて! 勝手に動かないで! まずは状況を確認しましょう!」
しかし、その声は騒ぎにかき消されそうになっていた。
何より、佳澄自身にもどうすればいいのか分からなかった。
教師として、生徒の騒がしさやちょっとした喧嘩、成績に関する問題には慣れている。
だが、クラス全員が魔法陣によって見知らぬ場所へ転移させられる事態など、経験したことがあるはずもなかった。
そんな騒ぎの中、水科理人は人だかりから少し離れた場所に立っていた。
彼は、落ち着いた様子で周囲を観察している。
怖くないわけではない。ただ、今のところ、わざわざ叫ぶ理由が見つからなかっただけだ。
石造りの床。巨大な柱。武装した人々。足元に残る、淡い光を放つ魔法陣。
少なくとも、観察するものには事欠かなかった。
(夢だとしたら、やけに細かいな……)
理人は眼鏡を少し押し上げ、ホールの奥にある大きな扉へ目を向けた。
普通の部屋にしては、警備の人数が多すぎる。
単なる装飾のために造られた場所にしては、あまりにも豪華すぎる。
そして何より、見知らぬ三十六人が突然現れたというのに、周囲の人間は誰一人として驚いていなかった。
むしろ、安堵しているようにさえ見える。
まるで、一年B組の到着が最初から予定されていたかのように。
「陛下」
濃い青色のローブをまとった男が一歩前に進み、王と思しき老人の前に跪いた。
「召喚は成功いたしました。異世界より、勇者様方が到着されました」
その言葉は、はっきりと生徒たちの耳に届いた。
残念ながら、この状況で『勇者』という言葉を褒め言葉として受け取れる生徒は、一人もいなかった。
「勇者って、どういう意味……?」
「異世界?」
「まさか、テレビ番組の企画とか……?」
「これがドッキリだったら、さすがにひどすぎるだろ!」
王は片手を上げた。
生徒たちは少しずつ静かになったが、それでも何人かは小声で話し続けていた。
「異世界から来られた皆様。まずは、皆様の同意を得ずにこの場へお連れしたことを、心よりお詫び申し上げる」
威厳のある声だった。
しかし、その謝罪によって緊張が和らいだかといえば、そうでもなかった。
「皆様は現在、アストリア王国におられる。皆様が元いた世界とは異なる、別の世界だ」
沈黙。
そして――
「はああああ!?」
今度は、クラスのほぼ全員が同時に声を上げた。
王は気分を害した様子もなく、むしろこうした反応を予想していたかのようだった。
「我が国は今、大きな脅威に直面している。魔王軍は勢力を拡大し続け、国境地帯は次々と陥落している。このままでは、我が王国だけでなく、人類全体が危機に陥ることになるだろう」
一人の騎士が前へ進み、大きな地図を広げた。
そこには、赤い色で印がつけられた地域がいくつも描かれていた。
「魔族の軍勢は複数の砦を襲撃しております。多くの村が住む場所を失い、主要な交易路も安全とは言えない状況です」
王の表情が、さらに険しくなる。
「そこで我々は、王国に古くから伝わる魔法を用い、異世界から勇者を召喚した。皆様には、この世界の住人にはない可能性がある」
王は一度言葉を切り、生徒たち全員を見渡した。
「どうか、魔王を討伐するために力を貸していただきたい」
すぐに答える者はいなかった。
異世界も、魔法も、魔王も。
それらがゲームやファンタジー小説の中だけの存在ではないという現実を、誰もが必死に受け入れようとしていた。
そんな中、一人の生徒が短く笑った。
「マジかよ。魔王?」
神崎修吾が、一歩前へ出た。
彼は、人の注目を集めることに慣れている生徒だった。
学校では、彼が何かを言えば周囲から笑い声が上がり、彼に逆らおうとする者はほとんどいなかった。
そして、見知らぬ異世界に来ても、その習慣は変わらなかった。
「つまり、俺たちを呼び出して、お前らのラスボスを倒せってことか?」
取り巻きの数人が笑った。
「修吾、もしかして俺たち、超能力とか使えるようになるんじゃね!?」
「魔法が使えるなら、街一つ吹っ飛ばせるやつがいいな!」
「魔王を倒したら元の世界に帰れるってんなら、悪くない話かもな」
最後の言葉に、何人かの生徒が反応した。
帰る。
それこそが、彼らが何よりも聞きたかった言葉だった。
しかし、王は彼らを安心させるような答えを返さなかった。
「まずは皆様の能力を調べるため、ステータス鑑定を行う。結果に応じて、今後の訓練や配置を決めるつもりだ」
王が魔術師たちに合図を送る。
ホールの中央へ長い机が運び込まれた。その上には人の頭ほどもある透明な水晶が置かれ、見慣れない魔道具がいくつも並べられていた。
「一人ずつ前へ進み、この水晶に手を置いていただきたい。皆様のステータスと能力が表示される」
説明自体は分かりやすかった。
少なくとも、大半の生徒はそう思った。
最初の鑑定は、順調に進んだ。
一人の男子生徒が緊張した面持ちで前へ出る。彼が水晶に手を触れると、表面に青い光が広がった。
空中に、光り輝くパネルが出現する。
王国の魔術師たちは結果を読み取り、満足げに頷いた。
「火と風の属性を確認。攻撃魔法の適性も、十分に期待できる水準です」
男子生徒は、ほっとしたように息を吐いた。
次の女子生徒には治癒能力が備わっていた。身体能力を強化する者や、速度を高める者、特定の属性を操る才能を持つ者もいた。
全員が優秀というわけではなかったが、ほとんどの生徒には、この世界の一般人とは異なる能力が備わっていることが判明した。
ホールの空気も、少しずつ変わり始めていた。
恐怖の中に、好奇心が混ざり始めたのだ。
中には、自分が凄腕の冒険者になる姿を想像し始めた生徒もいた。
もちろん、自分の能力を使って金を稼げるのかと考え始めた者もいる。
人によって、優先順位は違うものだ。
そして、神崎修吾の番が近づくと、周囲は一段と騒がしくなった。
「おお、ついに来たな!」
「修吾なら、絶対すごいスキルを持ってるって!」
早乙女莉央は、グループの女子二人と一緒に立っていた。
彼女はいつものように笑顔を浮かべ、人気者のギャルとして振る舞っている。
しかし、その笑顔の裏には、わずかな緊張が隠されていた。
修吾は、ただの恋人ではない。
学校では、誰が笑い者になり、誰がその輪に加われるのかを決めるグループの中心人物だった。
修吾がこの世界で大きな力を手に入れたら、どうなるのか。
莉央には想像できた。
彼は、誰かに制限をかけられることを好まない。
だが、莉央はその考えをすぐに振り払った。
今は、とにかく笑顔でいればいい。
修吾が水晶に手を置いた。
その瞬間、これまでとは比べものにならないほど強い光が溢れ出した。
水晶が震え、魔法陣が次々と光を放つ。空中に現れたステータスパネルも、ほかの生徒たちのものより大きく、明るく輝いていた。
年老いた魔術師の一人が、思わず一歩前へ出る。
「ば、馬鹿な……!」
彼は結果をもう一度読み直した。
そして、顔色を変えた。
「陛下! この少年の戦闘能力は、驚異的です!」
王が勢いよく立ち上がった。
「何だと?」
魔術師は唾を飲み込んでから説明を続けた。
「高位のユニークスキルを確認しました。戦闘能力の強化、武器の扱いに関する高い適性、そして極めて大きな成長の可能性を備えています。基礎能力値も、これまでの鑑定結果を大きく上回っております」
魔術師は顔を上げた。
「単なる優秀な兵士という次元ではありません。この能力は、勇者となるための礎になり得ます」
ホールのあちこちで、ざわめきが広がった。
そして魔術師は、貴族たちが互いに顔を見合わせるほどの言葉を口にした。
「固有スキルの名称は――『勇者』です!」
一瞬、静寂が訪れた。
次の瞬間、ホールは歓声に包まれた。
「勇者様が現れた!」
「予言は正しかったのだ!」
「陛下、これは神々の祝福に違いありません!」
王は玉座を降り、これまでよりもはるかに親しげな表情で修吾に近づいた。
「若者よ。君の召喚は、決して偶然ではなかったようだ。我々は、まさに君のような存在を待ち望んでいたのだ」
修吾は、自分のステータスパネルを見つめた。
ゆっくりと、その口元に笑みが浮かぶ。
勇者。
異世界に来ても、やはり自分は特別な存在なのだ。
「へえ。やっぱり俺って、ほかの奴らとは違うんだな?」
口調こそ軽かったが、その満足感は隠しようもなかった。
彼は取り巻きたちへ視線を向ける。
「だから言っただろ? 俺はこういうのに向いてるんだよ」
周囲から、笑い声と称賛が返ってきた。
莉央も笑顔を浮かべた。
見知らぬ場所に放り込まれた今、修吾が周囲から侮られることはない。
そのことに、彼女はひとまず安堵していた。
しかし、同時に別の考えも頭をよぎる。
学校の先生も、校則も、彼のことを知る人々もいないこの世界で、修吾が好き勝手に振る舞い始めたら、誰が彼を止めるのだろうか。
その問いに、安心できる答えはなかった。
そして、ステータス鑑定は続いていった。
* * *
生徒たちは一人ずつ前へ進んでいった。
近接戦闘に適した能力を得る者もいれば、将来性のある魔法の才能を持つ者もいた。ぱっとしないスキルであっても、魔術師たちはそれぞれ長々と説明を加えていた。
鑑定結果がそれほど優れていない生徒にも、訓練次第で伸びる可能性があると説明されていた。
そして、ついに水科理人の名前が呼ばれた。
「次は、水科理人」
理人は、いつの間にか手にしていた小さなノートを閉じた。
急ぐこともなく、前へ進む。
何人かの生徒が彼に注目した。
純粋に結果が気になる者もいれば、ほかにすることがないから見ている者もいた。
しかし、修吾のグループには、別の理由があった。
「ああ、そういえば、あのガリ勉もまだだったな」
「一日で千冊読めるスキルとかじゃね?」
「だったら、寝る前に本を読んでもらおうぜ!」
彼らの笑い声は、近くにいた人々にも聞こえるほど大きかった。
理人は反応しなかった。
水晶の前に立ち、手のひらをそっと触れさせる。
数秒が過ぎた。
目がくらむような光はない。
水晶が震えることもない。
魔法陣が派手に回転することもなかった。
ただ、小さなステータスパネルが空中に浮かび上がっただけだった。
若い魔術師が、その結果を読み上げる。
そして、眉をひそめた。
「ユニークスキル……『ストレージボックス』?」
彼は、見落とした項目があるのではないかと疑うように、もう一度名前を読み直した。
「物品の収納……?」
隣にいた魔術師も、パネルを覗き込んだ。
「容量はどの程度だ?」
「明確な記載がありません」
「生物も収納できるのか?」
「記載されておりません」
「収納したものを攻撃に利用できる可能性は?」
「そのような機能についても、情報はありません」
話し合いが長引くほど、彼らの顔には失望が浮かんでいった。
つい先ほど勇者の誕生を目の当たりにした王も、今度は眉をひそめながら理人を見つめていた。
「本当に、それが彼のユニークスキルなのか?」
「間違いございません、陛下」
魔術師は頭を下げた。
「我々が確認できる限りでは、物品を収納するだけのスキルのようです」
しばらく、誰も口を開かなかった。
そして――
「ぷっ!」
修吾の取り巻きの一人が、とうとう笑いをこらえきれなくなった。
「物を収納するだけ!? マジかよ!?」
「はははは! 勇者様と荷物持ちが一緒に召喚されたってわけか!」
「おい、理人! これから俺の荷物も運んでくれよ!」
「こいつ、異世界に呼ばれたのって、歩くカバンになるためじゃねえの!?」
笑い声が、ますます大きくなっていく。
普段は理人をからかわない生徒たちの中にも、気まずそうに笑う者がいた。
修吾のスキルが発表されたときには、誰も彼を笑おうとはしなかった。
しかし、今度の標的は、学校でも軽く扱われていた相手だ。
彼らにとっては、それだけの違いで十分だった。
修吾は勇者のスキルを得た。
理人は収納箱のスキルを得た。
それだけで、誰が尊敬されるべき人間なのかが決まったように思えたのだ。
「まったく、期待外れだな……」
貴族の一人が小さく呟いた。
「異世界召喚には莫大な資源が必要なのだぞ。それを、こんな能力しか持たない少年を呼び出すために使ったというのか?」
一人の騎士が、理人を頭から足先まで眺めた。
「身体つきも、戦士には見えんな」
「物を収納するだけなら、同じ機能を持つ魔道具がすでにある」
彼らの言葉は、まるで理人がその場にいないかのように交わされていた。
いや、もしかすると、本当に気にしていないのかもしれない。
王はため息をついた。
「水科理人、だったな?」
「はい」
「そのスキル以外に、何か能力はあるのか?」
「表示されているものは、これだけです」
「そうではない。戦闘の才能や魔法の適性など、魔王討伐に役立つ能力はあるのかと聞いている」
理人は老人をしばらく見つめた。
「分かりません」
その答えに、王の表情はさらに曇った。
理人が無礼な態度を取ったからではない。
むしろ、彼が自分の価値を必死に訴えようとも、弁解しようとも、何かを約束しようともしなかったからだ。
質問されたことに答え、黙る。
ただそれだけだった。
王は、自分の価値を認めてもらおうと必死になる人間を数多く見てきた。
だからこそ、目の前の少年が見せる無関心な態度が、まるで自分を軽んじているかのように感じられたのだ。
もっとも、理人にそんなつもりはまったくなかった。
「そうか……」
王は魔術師たちへ視線を向けた。
「彼の能力は、戦闘価値の低い補助系スキルとして記録しておけ」
「承知いたしました、陛下」
理人は水晶から手を離した。
ステータスパネルが消える。
彼は何も言わず、元の場所へ戻っていった。
背後では、修吾たちの笑い声がまだ続いていた。
「おい、理人!」
修吾が、満面の笑みで彼を呼び止めた。
「俺たちが立派な勇者になったら、お前には大事な仕事があるぞ。俺たちの荷物持ちだ!」
取り巻きたちが、再び笑い声を上げる。
理人は一度だけ足を止め、振り返った。
「荷物が多いなら、自分で収納すればいいだろ」
一瞬、空気が静まった。
反抗と呼ぶには、あまりにも淡々とした返答だった。
怒りもなければ、脅しもない。表情すら、ほとんど変わっていない。
それでも、修吾には妙に腹立たしく感じられた。
まるで、自分の言葉など真面目に受け取る価値もないとでも言われたようだった。
「けっ。相変わらず口だけは達者だな」
修吾は舌打ちし、再び貴族たちの方へ向き直った。
彼にとって、理人は最初から自分より下にいるべき人間だった。
そして今、この世界がその考えを裏付ける証拠を与えてくれた。
* * *
やがて、ステータス鑑定がすべて終了した。
魔術師たちは鑑定結果をまとめ、王と貴族たちは今後の方針について話し合い始めた。
生徒たちの大半は、訓練によって伸ばせる能力を得ていた。中には、かなり珍しい魔法の才能を持つ者もいる。
だが、王国の注目を最も集めたのは、やはり神崎修吾だった。
彼は勇者と認定された。
アストリア王国にとって、それは魔王と戦うための希望が、ようやく形になったことを意味していた。
王は再び玉座に腰を下ろした。
「異世界より来られた勇者の皆様。今後、皆様には住居と食事を提供し、それぞれの能力を習得するための訓練を受けていただく。我が王国は、皆様がその使命を果たせるよう、必要なものをすべて用意するつもりだ」
その言葉に、安堵した様子を見せる生徒もいた。
だが、王の話はまだ終わっていなかった。
「特殊な能力を持つ者には、それぞれの適性に応じた訓練を用意しよう。戦闘に向いた才能を持つ者には、魔王軍と戦うための準備を進めてもらう」
王は、魔術師が手にしている鑑定結果へ目を向けた。
「しかし、戦闘に役立つ能力を持たない者については……」
そこで言葉が途切れた。
何人かの貴族の視線が、理人へと向けられる。
わざわざ名前を出す必要はなかった。
ホールにいる全員が、誰について話しているのか理解していたからだ。
「ひとまず、適切な配置を検討することにしよう」
言葉だけを聞けば、丁寧な対応に思える。
しかし、貴族社会の言葉の裏側を知る者には、その意味がはっきりと伝わっていた。
彼らは、自分たちの期待に応えられない人間をどう扱えばいいのか分からなかった。
そして、分からないからこそ、最も簡単な選択をしようとしていた。
厄介者として、遠ざけることだ。
一方の理人は、相変わらず何の反応も示していなかった。
自分が、初めて会ったばかりの人々によって、すでに処遇を話し合われていることなど知る由もない。
彼はまだ、王国が役立たずと判断したスキルに、鑑定だけでは理解できない可能性が秘められていることも知らなかった。
それは、彼がすでに大きな秘密を発見していたからではない。
どこかの神が、密かに彼を選んでいたからでもない。
今の彼が持っているものは、『ストレージボックス』というスキルと、これまで本から集めてきた知識、そして一度覚えたことを忘れにくい記憶力。
ただ、それだけだった。
ホールの反対側では、修吾が騎士や貴族たちに囲まれていた。
彼らは勇者にふさわしい敬意を払い、与えられる施設や特別な訓練について説明している。
修吾は、そのすべてを満喫していた。
彼にとって、この世界は以前の世界よりも、ずっと分かりやすい場所だった。
学校では教師や校則があり、ときには自分に逆らう人間もいた。
だが、この世界では力が目に見える形で示され、それによって人間の立場が決まる。
そして、自分はその力を手に入れた。
戦闘能力が高いからといって、優れた指導者になれるわけではない。
修吾は、そのことを知らなかった。
いや、知ろうともしなかった。
周囲が自分を敬う限り、自分には何をしても許される権利がある。
彼は、そう信じていた。
その頃、理人はすっかり光を失った鑑定用の水晶を眺めていた。
ふと、単純なことを思いつく。
(本当に物を収納するだけのスキルなら、少なくとも鞄を持ち歩く必要はなくなるな)
考えは、そこで終わった。
まだ十分に理解していないスキルの結果を嘆く理由など、彼にはなかった。
そもそも、ついさっき異世界へ連れてこられたばかりなのだ。
自分について何も知らない人々がどう評価したかよりも、考えるべきことは山ほどある。
残念ながら、その見知らぬ人々は、すでに彼の運命を決め始めていた。
そして彼らは、自分たちの判断を、想像していたよりもずっと早く後悔することになる。
王国にとって、水科理人は召喚の失敗だった。
神崎修吾にとって、理人はただの笑いものだった。
だが、まだ何も知らないこの世界にとって、理人は何者でもなかった。
勇者でもない。
冒険者でもない。
ましてや、誰かに恐れられる存在でもない。
彼は、眼鏡をかけ、髪をぼさぼさにした一人の学生にすぎなかった。
過小評価されたスキルと、本を読む習慣を持つ、ただの少年。
そして時に、大きな過ちの始まりとは、その程度のものなのだ。




