プロローグ――チャイムが鳴るまで、あと二十六秒
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ウェストブリッジ私立高校――一年B組
その日の朝、一年B組の教室は、いつもと変わらない様子だった。
隣の席の友人とおしゃべりをする生徒もいれば、スマホを確認したり、終わっていない課題に取り組んだり、頬杖をつきながらチャイムが鳴るのを待っている生徒もいた。
特に変わったことはない。
一人の生徒が、教室のざわめきを破る声を上げるまでは。
「おい、ガリ勉」
窓際の席に、一人の男子生徒が座っていた。
乱れた黒髪に、鼻の上で少しずり落ちた眼鏡。
彼は本を読んでいた。
声をかけられても、振り向こうともしない。
「おい、ガリ勉。いつまで本を眺めてるつもりだ? お前がしょっちゅう触ってるせいで、その本、もうカビが生えてるんじゃねえの?」
何人かの生徒が、くすくすと笑った。
「こいつ、友達いないんじゃね?」
「本と付き合ってるほうが楽しいんだろ」
再び笑い声が上がる。
男子生徒は、それでもページをめくり続けていた。
彼の名前は、水科理人。
特に目立つところもなく、口数も少ない。暇さえあれば本を読んでいるような生徒だった。
見た目は平凡で、成績はそこそこ。学校で有名になるような特技もない。
一言でいえば、忘れられやすいタイプの生徒だった。
ただし、彼を暇つぶしの標的にする者たちを除けば、の話だが。
「チッ、ったく……」
グループのリーダーが舌打ちした。
「俺が話しかけてんだから、こっちを見ろ!」
ドンッ!
勢いよく蹴りつけられた理人の机が、横にずれた。
机の上に置かれていた本が落ちかけ、激しい衝撃音に何人かの生徒が思わず振り向く。
教室のざわめきが、少しだけ小さくなった。
――ああ、また始まった。
そんな思いが、似たような光景を何度も目にしてきた生徒たちの脳裏をよぎる。
いつも同じことを繰り返す、十人のグループ。
彼らは他人を罵り、からかい、恥をかかせる。そうすることができるから、ただそれだけの理由で。
時には理由を探すこともある。
だが、時には理由すら必要としなかった。
今日の標的が自分ではないことに、内心ほっとしている生徒もいた。
理人を気の毒に思う生徒もいたが、グループの一人がこちらを向くと、すぐに目をそらした。
誰も関わりたくなかったのだ。
そして、そんな状況の中で、十人の生徒たちは楽しそうに笑っていた。
「どうだ? これで聞こえたか?」
リーダーは、まるで大したことでも成し遂げたかのように、ニヤリと笑った。
ようやく理人が本から顔を上げた。
横にずれた机に目をやり、それから教室の前に掛けられた時計を見る。
そして、再び目の前のグループに視線を戻した。
「あと二十六秒」
「あ?」
「チャイムが鳴るまで、あと二十六秒だ」
理人は落ち着いた動作で本を閉じた。
「こんなことに時間を使うくらいなら、もう少し意味のあることをしたらどうだ?」
一瞬、何人かの生徒が黙り込んだ。
そして――
「……今、何つった?」
リーダーの笑みが消えた。
額に青筋が浮かび始める。
どうやら、自分の嫌がらせに対して、相手があまりにも淡々と返事をしたことが気に入らないらしい。
まるで、天気予報でも聞かされたかのような態度だった。
「てめぇ……!」
キーンコーンカーンコーン!
チャイムが鳴った。
リーダーが言葉を続けるよりも早く、理人は立ち上がり、ずれた机を元の位置に戻し始めていた。
椅子を整え、本を拾い直し、何事もなかったかのように席に着く。
「チッ!」
リーダーは苛立たしげに舌打ちした。
チャイムが鳴った以上、いつまでも騒ぎを続けるわけにはいかない。
もうすぐ教師がやって来る。教師の目の前で問題を起こせば、自分が面倒なことになるだけだ。
「運がよかったな」
そう言い残し、彼は理人を指さしてから背を向けた。
ほかのメンバーも、くすくすと笑いながら、それぞれの席へ戻っていった。
理人は何も答えなかった。
彼の中では、もう終わったことだった。
少なくとも、今のところは。
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しばらくして、一人の女性教師が教室に入ってきた。
「皆さん、おはようございます。席について、静かにしてください」
少しずつ、教室の話し声が消えていく。
教師は出席簿を教卓に置くと、一人ずつ名前を呼び始めた。
「……水科理人」
「はい」
「……早乙女莉央」
「はーい」
出席確認は、いつもどおり進んでいった。
この数分後、当たり前のように繰り返されていた学校生活が、彼らにとって最後の思い出になるなど、誰も知る由もなかった。
出席確認を終えた女性教師は、教科書を開いた。
「それでは、授業を始める前に――」
床に光が現れた。
最初は、机の脚の間を這うように広がる、青白い細い線だった。
一番前の席に座っていた生徒が、眉をひそめる。
「えっ? 何これ?」
線は次々と伸びていき、やがて複雑な模様を描く巨大な円を形作った。
見たこともない文字や記号が一つ、また一つと浮かび上がり、まるで緻密に設計された装置のように互いにつながっていく。
光は、彼らの足元から生まれていた。
照明でもない。
プロジェクターでもない。
それは――魔法陣だった。
「皆さん、動かないでください!」
女性教師が声を張り上げ、状況を落ち着かせようとする。
しかし、その声は生徒たちの悲鳴にかき消された。
「何だよ、これ!?」
「止めろ! 誰がこんなことをやってるんだ!?」
「先生、何が起きてるんですか!?」
何人かの生徒が慌てて扉へ駆け寄る。
ほかの生徒たちはスマホで誰かに連絡しようとしたが、何もかもが普段どおりにいかないことに気づき、その顔を青ざめさせた。
理人は、床に浮かび上がった魔法陣を見つめていた。
それから本を閉じ、鞄にしまって立ち上がった。
こんな特殊効果を誰が仕掛けたのか、調べるつもりはなかった。
もし悪ふざけなら、度が過ぎている。
もし悪ふざけではないのなら……。
それはそれで、もっと面倒なことになりそうだった。
理人は教室の扉まで歩き、ドアノブを引いた。
動かない。
もう一度試してみる。
やはり、開かなかった。
「……は?」
二秒ほど扉を見つめた後、今度は窓へ向かった。
窓の鍵も動かなかった。
理人は眉をひそめる。
両手で窓を押してみたが、びくともしない。
まるで、目に見えない何かによって、外側から完全に封じられているかのようだった。
「マジかよ……」
彼は後ろを振り返った。
誰もこちらを見ていなかった。
生徒たちは叫び、互いに問いかけ、必死に出口を探している。教師もクラスを落ち着かせようとしていたが、その声には次第に焦りがにじみ始めていた。
理人は近くにあった椅子を見た。
それから窓を見た。
椅子を持ち上げ、思い切り振り下ろす。
ガシャァン!
激しい衝撃音が教室中に響き渡った。
しかし、窓ガラスは割れなかった。
小さなひび一つ、入っていない。
理人は椅子を下ろした。
しばらく窓を見つめ、それから深くため息をついた。
「はぁ……面倒くさい」
椅子を元の位置に戻す。
その後は窓際に立ったまま、床の魔法陣がさらに明るくなっていく様子を眺めていた。
結果が変わらないのなら、同じことを何度も試す意味はない。
誰かがこんなことを仕掛けたのなら、さっさと用事を済ませてくれることを願うばかりだ。
理人には、これから何が起きるのか分からなかった。
そもそも、知りたいとも思っていなかった。
今はただ、待つしかない。
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突然、床の光が脈打った。
一度。
二度。
そして、光が部屋全体へと広がっていく。
「何だ、この光は!?」
生徒たちの悲鳴に、机や椅子が動く音が重なった。
目を覆う者もいれば、隣にいる友人の手をつかもうとする者もいた。
女性教師は生徒たちが離れないよう、必死に手を伸ばした。
しかし、光はますます強くなっていく。
白く。
まぶしく。
教室の隅々まで満たし、やがて周囲のすべてを覆い尽くした。
もう、何も見えない。
ただ、目を焼くような白い光だけがあった。
理人は目を細めた。
その頭に、ふと単純な考えが浮かんだ。
――どうか、本だけは無事でありますように。
そして――
すべてが白に染まった。
数秒後、光が消えた。
音も消えた。
先ほどまで三十五人の生徒と一人の女性教師で埋め尽くされていた一年B組の教室は、今や空っぽだった。
そこには、誰一人として残っていなかった。
机はそのまま並んでいる。教師の机の上には教科書が開かれたまま置かれ、窓際には椅子が一脚、斜めに倒れていた。
そして、ある机の上に残された一本の鉛筆が、ゆっくりと転がり、やがて動きを止めた。
まるで、何事もなかったかのように。
まるで、クラス全員がこの世界から消え去ってしまったかのように。
いつもと変わらない学校生活は、終わりを告げた。
そして、彼らの異世界での運命が、今まさに始まろうとしていた。




