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第10話――二日目の再会と、オレオではない女


……二日目、だろうか。


正直、もうよく分からない。


ここには時計もなければ、空もない。


あるのは岩壁と水場、それから俺が作った焚き火だけだ。


火が消えれば、完全な暗闇。


火が燃えていれば、暗闇の一部が少しだけ明るくなる。


以上。


……いや、もう少し何かないのか、このダンジョン。


例えば太陽とか。


月とか。


一日の始まりを教えてくれる鳥のさえずりとか。


別に贅沢は言わない。


せめて壁に時計でも埋め込んでおいてくれ。


いや、ダンジョンに時計を求めるのはさすがに無茶か。


はぁ……。


「まあ、食料があるだけマシか」


俺は手元に出したパンを眺めながら、しみじみと呟いた。


そう。


俺には収納箱《ストレージボックス》がある。


このスキルのおかげで、城を出る前に確保しておいた食料を取り出せるのだ。


ふっふっふ。


素晴らしい。


俺は天才かもしれない。


……いや、食料を確保したのは城にいた頃の俺で、今の俺はそれを食べているだけなのだが。


まあ、過去の自分の功績は現在の自分が誇ってもいいだろう。


たぶん。


ちなみに、食料の大部分は城の人たちが用意していたものだ。


料理人や侍女たちが作った料理。


庭師が管理していた果物。


それから、なぜか大量にあった酒。


……いや、本当に何なんだ、あの酒の量は。


騎士たちはどれだけ酒が好きなんだ?


食料庫を覗いたとき、酒瓶の数を見て思わず二度見したぞ。


もしかして、あの城では水の代わりに酒を飲んでいるのだろうか。


いや、さすがにそれはないか。


ないよな?


まあ、俺には関係ない。


俺は酒を飲まないし、今は飲みたいとも思わない。


こんな場所で酔っ払ったら、そのまま人生のエンディングを迎えそうだ。


それだけは勘弁してほしい。


ちなみに、最近はパンも時々作っている。


もちろん、俺のスキルで。


ただし、食べ物を作るのはそれなりに魔力を消費する。


だったら、城でもらった食料を食べたほうが効率的だ。


パンなら比較的少ない魔力で作れるので、いざというときのために何個か作って収納箱に入れてある。


そして、この収納箱にはもう一つ、素晴らしい特徴がある。


中に入れた食べ物が、入れたときの状態を保っているのだ。


つまり、作りたての料理を収納しておけば、取り出したときも作りたてに近い状態で食べられる。


腐らない。


少なくとも、今のところは。


……最高か?


食料の運搬にも便利だし、割れやすい物だって安全に保管できる。


しかも収納できる量が尋常ではない。


どこまで入るのか、俺自身にも分からない。


底があるのかすら怪しい。


収納箱というより、もはや異次元倉庫だ。


これがなかったら、俺は今頃、空腹に苦しんでいたかもしれない。


本当に、このスキルを授けてくれた何者かには感謝したい。


できれば、俺をこんな場所に落とした何者かとは別人であってほしい。


同一人物だったら、感謝と苦情を同時に申し立てることになる。


……さて。


そろそろ食べるか。


そう思ってパンを口元へ運んだ、そのときだった。


「……ん……」


…………。


「ん?」


今、何か聞こえたような。


俺はパンを持ったまま、ゆっくりと顔を上げた。


火の向こう側。


布に包まれていた少女が、わずかに身じろぎしていた。


「……あ」


目が開いた。


ようやく。


ようやく起きたのか。


俺が何時間……いや、何十時間もかけて作った即席の野戦病院、その患者が。


「…………」


「…………」


目が合った。


少女は俺を見つめている。


俺も少女を見つめている。


……。


…………。


気まずい。


いや、待て。


ここは俺から声をかけるべきだろう。


患者が目を覚ましたのだ。


まずは容態の確認。


そう、落ち着いて。


俺はできるだけ穏やかな声で尋ねた。


「……おはよう。気分はどうだ?」


「――っ!?」


少女の目が見開かれた。


次の瞬間。


「きゃあああああっ!?」


……うん。


まあ、そうなるよな。


少女は慌てて身体を起こそうとした。


「おい、待っ――」


遅かった。


彼女は布を払いのけようとして、痛めた脚を動かしてしまったらしい。


「っ、痛ぁっ!?」


「だから動くなって!」


彼女の顔が苦痛に歪む。


俺は反射的に手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。


今、俺が近づいたら余計に警戒されるだけだ。


そもそも、目覚めたばかりの少女に、見知らぬ男がいきなり近づくのはよろしくない。


しかも、その男は上半身裸。


……。


改めて考えると、かなり怪しい。


俺だって、目が覚めたら知らない男が目の前にいて、しかもそいつが上半身裸だったら警戒する。


いや、警戒どころか一発殴るかもしれない。


……自分で想像しておいて何だが、俺が殴られる側なのは納得がいかない。


とにかく。


俺は少女を刺激しないよう、ゆっくりと両手を上げた。


「落ち着け。俺は何もしない」


「…………」


「近づかないから。ほら、ここでじっとしてる」


俺はその場に座り直し、できるだけ距離を取った。


少女は警戒した目で俺を見ている。


まあ、当然だろう。


見知らぬ場所。


暗い洞窟。


焚き火。


身体に巻かれた布。


そして、上半身裸の男。


状況だけを並べると、俺が説明を求められる側なのは間違いない。


……いや、実際に説明を求められても困るのだが。


「……ここ、どこ?」


少女がかすれた声で尋ねた。


「俺も知りたい」


「は?」


「いや、本当に。ここがダンジョンのどの辺りなのか、俺にも分からない」


「…………」


「分かっているのは、俺たちがかなり深い場所に落ちたらしいってことくらいだ」


少女は周囲を見回した。


暗い岩壁。


足元に広がる水場。


揺れる焚き火。


そして、自分の脚に巻かれた固定具。


状況を理解しようとしているのか、彼女の表情は次第に強張っていった。


「……私、落ちたの?」


「ああ」


「……あんたが助けたの?」


「まあ、結果的には」


「…………」


少女は自分の脚を見た。


不自然に固定された脚。


その先を見て、顔色が変わる。


「な、何これ……私の脚、どうなってるの!?」


「落ち着け。骨が折れている可能性があるから、動かないように固定してある」


「お、折れて……!?」


「可能性だ。俺は医者じゃないから、正確なことは分からない」


俺はすぐに付け加えた。


ここで変に安心させるようなことを言って、あとから取り返しのつかない事態になったら困る。


俺にできるのは、彼女が目を覚ますまで状態を確認し、なるべく動かさず、これ以上悪化させないようにすることくらいだ。


それだって、正しい方法だったのか自信はない。


「……うそ……」


少女は呆然としたまま、固定された脚を見つめていた。


……まあ、そうなるよな。


突然、見知らぬ場所で目が覚めたと思ったら、脚を痛めている。


しかも、いつ戻れるのかも分からない。


俺だって、できることなら今すぐ帰りたい。


ベッドで寝たい。


風呂に入りたい。


普通の食事がしたい。


そして、できれば明るい場所で時計を見たい。


ここ数十時間で、俺の願いはずいぶんと慎ましくなったものだ。


「……とりあえず、無理に動くな。痛みがあるなら我慢しないで言ってくれ」


「…………」


少女は答えなかった。


代わりに、俺の顔をじっと見つめてきた。


何だ?


俺の顔に何か付いているのか?


いや、顔どころか眼鏡もない。


そういえば、落下したときに眼鏡を失くしたんだった。


長年お世話になった相棒だったのに……。


あれがないと、遠くのものが見づらい。


地味に不便だ。


……まあ、今は遠くを見る必要もあまりないのだが。


すると、少女がぽつりと呟いた。


「……オタク?」


…………。


………………。


オタク?


俺は思わず瞬きをした。


なんだ、その懐かしい呼び方は。


まだ一年も経っていないはずなのに、ずいぶん昔のことのように感じる。


クラスの一部の連中が、俺をそんなふうに呼んでいた。


読書をしているだけでからかってくる、あの面倒な連中だ。


その中に、目の前の少女もいた……ような気がする。


「……ああ、そういうことか」


俺はようやく納得した。


眼鏡がなくても、声や雰囲気で分かったのかもしれない。


……いや、そもそも俺の顔なんて、そんなに特徴的だっただろうか?


少女は困惑したように眉を寄せている。


「え……? なんで、あんたがここに……?」


「それはこっちの台詞だ」


「…………」


「俺だって、好きでここにいるわけじゃない」


本当に。


できることなら、今すぐここから脱出したい。


俺はこの世界に来てから、まだそんなに時間が経っていない。


それなのに、どうしてこんな場所で遭難生活を送っているのだろうか。


異世界召喚といえば、もっとこう……あるだろう。


王様から使命を授かったり。


仲間と冒険したり。


美しい景色を見たり。


……いや、今の俺には仲間が一人いる。


意識を失っている上に、俺を警戒している少女だが。


これを仲間と呼んでいいのかは、審議が必要だと思う。


「……眼鏡は?」


少女が尋ねた。


「落とした」


「……あんた、眼鏡ないと何も見えないんじゃなかった?」


「何も見えないわけじゃない。少し見づらいだけだ」


「ふーん……」


少女はまだ疑っているようだった。


まあ、いい。


眼鏡のことは、もう解決している。


「心配しなくていい。コンタクトレンズを作ったから」


「……は?」


少女が固まった。


そりゃそうだろう。


普通、コンタクトレンズはその辺の岩を削って作るものではない。


……いや、俺だって好きで作ったわけじゃないのだ。


眼鏡を失くした。


それだけなら、まだ我慢できた。


だが、暗い洞窟で生活するとなると話は別だ。


眼鏡は曇るし、濡れるし、壊れる危険もある。


そもそも、予備の眼鏡なんて持っていない。


そこで俺は、以前どこかで読んだコンタクトレンズの製造に関する知識を思い出した。


どういう材料が必要なのか。


どのような形状なのか。


表面をどう加工するのか。


そして、何より重要なのは、眼球に直接触れるものだということ。


……今思えば、よくやろうと思ったものだ。


失敗すれば、目を傷める可能性がある。


少しの歪みや異物だって問題になる。


何度も材料を作り直し、形状を調整し、できるだけ滑らかに仕上げる。


魔力も時間も、かなり消費した。


二日ほどかかった。


二日だぞ、二日。


俺はその間、何をしていたんだろうな。


遭難した高校生が、洞窟の中でコンタクトレンズを製造する。


そんな経歴、履歴書に書いたら採用担当者も困るだろう。


そもそも、この世界に履歴書があるのかも知らないが。


ともかく、どうにか完成した。


最初に装着したときは、違和感がひどかった。


何度も調整し、ようやく使える状態になったのだ。


……もう二度とやりたくない。


「……あんた、本当に何なの?」


少女が呆れたように呟いた。


「ただの遭難者だ」


「いや、そういう意味じゃなくて……」


「俺も知りたい」


「…………」


彼女は何か言いたげだったが、結局それ以上は何も言わなかった。


よし。


会話が一段落したところで、次の問題に移ろう。


「それで、身体の具合はどうだ?」


「……最悪」


即答だった。


「脚が痛いし、身体もだるいし、喉も渇いたし……」


「そうか」


「……そうかって、あんたねぇ……」


「いや、俺に言われても困るだろ」


「…………」


少女は不満そうに俺を睨んだ。


……理不尽だ。


俺は医者ではない。


食料と水を用意することはできるが、怪我を一瞬で治すことはできない。


魔法のような便利な力があっても、何でもできるわけではないのだ。


……まあ、魔力を使えば何かできる可能性はある。


だが、知識もないのに適当に治療しようとするのは危険だ。


少なくとも、俺はそう考えている。


「とりあえず、水を飲むか?」


俺が尋ねると、少女は一瞬だけ迷った。


そして、警戒するように俺の手元を見た。


……まあ、見知らぬ男から渡される水だ。


疑うのも無理はない。


俺はため息をつきながら、収納箱から水の入った容器を取り出した。


「ほら。俺も飲んでいるものだ」


そう言って、俺は先に自分で一口飲んだ。


少女はしばらく容器を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「……ちょうだい」


「はいはい」


俺は近づきすぎないように注意しながら、彼女の手が届く位置に容器を置いた。


少女は少し苦労しながら身体を起こし、両手で容器を持った。


そして、ゆっくりと水を飲んだ。


ごく、ごく。


……よし。


飲めているなら、ひとまず大丈夫そうだ。


「……ふぅ」


少女は息をつき、容器を膝の上に置いた。


その表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


だが、次の瞬間。


ぐぅぅぅぅ……。


…………。


………………。


洞窟に、妙に大きな音が響いた。


俺は少女を見た。


少女も俺を見た。


「…………」


「…………」


ぐぅぅぅぅ……。


二度目の音が響いた。


……なるほど。


どうやら、喉の渇きだけではなかったらしい。


「……腹、減ってるのか?」


「はぁ!? ち、違うし!」


「いや、今の音はどう考えても――」


「違うって言ってるでしょ!」


「そうか」


俺は素直に頷いた。


腹が減っていないなら、別にいい。


俺がパンを食べても問題ないだろう。


そう考えて、パンを口元へ運ぼうとした。


「…………」


少女の視線が、俺の手元に釘付けになっていた。


……。


…………。


「……食べるか?」


「…………」


少女は一瞬だけ目を逸らした。


「……別に、いらないし」


「そうか」


俺は再びパンを持ち上げた。


「ちょ、ちょっと待って!」


……何なんだ。


どっちなんだよ。


俺はパンを持ったまま、彼女を見つめた。


少女は顔を赤くしながら、俺を睨んでいる。


「……いる」


「最初からそう言えばいいだろ」


「う、うるさい!」


はいはい。


元気があるのはいいことだ。


俺は収納箱からもう一つパンを取り出し、彼女に差し出した。


少女はすぐには受け取らなかった。


パンを見て。


俺を見て。


もう一度、パンを見る。


……何だ?


毒でも入っていると思われているのだろうか。


まあ、気持ちは分からなくもない。


だが、俺に毒を作る知識はない。


それ以前に、そんなものを作る魔力があるなら、もっと別のことに使いたい。


「……本当に、食べていいの?」


「そのために渡しているんだが」


「……お金とか、要求しない?」


「ここで金を要求してどうするんだ?」


「…………」


少女は黙り込んだ。


それから、ようやくパンを受け取った。


恐る恐る一口かじる。


もぐもぐ。


……。


もぐもぐ。


…………。


「……おいしい」


小さな声だった。


「そりゃよかった」


俺は自分のパンを食べながら答えた。


城で作られたものだから、味は悪くない。


むしろ、かなり美味しい部類だと思う。


こんな状況でなければ、もっとありがたく食べられたのだろうが。


少女はしばらく黙々とパンを食べていた。


先ほどまでの警戒心は、少しだけ薄れている。


……単純に腹が減っていただけかもしれない。


いや、空腹は人間の警戒心を簡単に打ち砕く。


非常に恐ろしい生理現象だ。


俺も気をつけよう。


まあ、俺の収納箱にはまだ食料がある。


少なくとも、すぐに餓死する心配はないはずだ。


問題は水と、ここから脱出する方法だが。


……考えるのは、彼女の容態がもう少し落ち着いてからでいいだろう。


今は余計なことをしても仕方がない。


「……ねえ」


パンを半分ほど食べたところで、少女が口を開いた。


「ん?」


「……あんた、私が誰か分かってる?」


……。


…………。


そういえば。


どこかで見たことがある。


いや、さっきからずっと考えていたのだが、どうにも記憶が曖昧だった。


彼女の髪は、染めたような明るい金色。


肌は少し日焼けしていて、派手な雰囲気がある。


いわゆるギャルというやつだろう。


そして、クラスで俺をからかっていた連中の中にも、似たような女子がいた気がする。


……ああ。


そうだ。


俺が本を読んでいるとき、騒いでいた連中。


その中にいた、勇者気取りの男。


神崎修吾。


あいつの周りにいた女子の一人だ。


たしか、あの男と一緒に行動していたはず。


……なるほど。


ようやく思い出した。


俺は感心したように頷いた。


「……ああ、思い出した」


「……本当?」


「ああ。ええと……」


名前。


名前は何だったか。


確か、短い名前だった気がする。


二文字。


いや、三文字だったか?


……うーん。


人の名前を覚えるのは苦手なんだよな。


そもそも、俺はクラスメイト全員と親しくしていたわけではない。


むしろ、できるだけ関わらないようにしていた。


だから、名前を覚える機会も少なかったのだ。


仕方ない。


ここは思い出すまで、適当に口に出してみよう。


「……オレオ?」


「誰がオレオよっ!!」


少女が勢いよく叫んだ。


「リオ! 早乙女莉央! さ・お・と・め・り・お! 誰がオレオよ!」


……おお。


すごい勢いだ。


さっきまで脚の痛みで顔をしかめていたのに、今は怒る元気があるらしい。


素晴らしい回復力だ。


いや、怪我が治ったわけではないだろうが。


「……ああ、そうだった。早乙女」


「そうだった、じゃないわよ!」


「悪い悪い」


俺は軽く手を上げた。


「名前を覚えるのが苦手なんだ」


「人の名前をお菓子みたいに間違える人、初めて見たんだけど!?」


「オレオは美味しいだろ」


「そういう問題じゃないっ!」


……なるほど。


早乙女莉央。


ようやく名前を思い出した。


いや、正確には本人に教えてもらったのだが。


まあ、細かいことは気にしない。


俺はパンの残りを口に入れた。


「……とりあえず、早乙女。今は無理に動かないほうがいい」


「……分かってるわよ」


莉央は少し不機嫌そうに答えた。


だが、先ほどよりも落ち着いている。


パンも水も受け取ってくれたし、最低限の会話もできている。


ひとまず、最悪の状況は脱したと言えるだろう。


……いや。


まだ何も解決していないのだが。


俺たちはダンジョンの底にいる。


帰り道は分からない。


外に助けを求める手段もない。


俺は医者ではないし、彼女の脚も治っていない。


さらに、ここに魔物が現れる可能性だってある。


……。


…………。


うん。


やっぱり最悪だな。


「……ねえ、オタク」


「その呼び方、久しぶりだな」


「……じゃあ、何て呼べばいいのよ」


「水科でいい」


「……水科?」


「水科理人。それが俺の名前だ」


「…………」


莉央は俺を見つめた。


それから、小さく呟く。


「……水科、理人……」


「そう」


「……ふーん」


彼女は何かを考えるように視線を落とした。


……何だろう。


俺の名前に何か問題でもあるのだろうか。


いや、まさか。


名前が変だと言われても、今さらどうしようもない。


俺は自分の名前を気に入っているし、改名する予定もない。


「……水科」


「ん?」


「……助けてくれて、ありがと」


…………。


思わず、手が止まった。


予想していなかった言葉だった。


さっきまであれだけ警戒していたのに。


いや、警戒するのは当然だ。


それでも、こうして礼を言ってくれるとは思わなかった。


「……別に。たまたまだ」


俺は視線を逸らしながら答えた。


「目の前で落ちてきたから、放っておけなかっただけだ」


実際、そうだ。


あのとき、彼女を捕まえなければどうなっていたか分からない。


ただ、助けようとして脚を痛めさせてしまった可能性があるのは、少し気になっている。


「……脚のことは、悪かった」


「え?」


「落ちてきたとき、無理に引っ張った。あのままだと壁にぶつかりそうだったから……。でも、そのせいで脚を痛めた可能性がある」


莉央は自分の脚を見た。


しばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。


「……あのままだったら、もっとひどいことになってたかもしれないんでしょ?」


「……まあ、そうかもしれない」


「じゃあ、いいわよ。今さら責めたって、どうにもならないし」


そう言って、彼女はパンの最後の一口を食べた。


……思ったより、話が通じる人なのかもしれない。


いや、まだ判断するのは早い。


人間は空腹が満たされると、多少は優しくなるものだ。


さっきの俺がそうだった。


たぶん。


「……水科」


「今度は何だ?」


「……これから、どうするの?」


…………。


………………。


その質問は、今の俺にとって最も答えにくいものだった。


どうするのか。


そんなこと、俺が知りたい。


出口を探す。


食料を確保する。


魔物に警戒する。


彼女の脚を悪化させないようにする。


できることを一つずつ片付けるしかない。


だが、それをそのまま説明したところで、彼女が安心できるとは思えない。


俺は少し考えてから答えた。


「……まずは、ここで休む。お前の脚もあるし、今すぐ動くのは無理だ」


「……うん」


「それから、周囲を調べる。出口があるかもしれないし、上に戻る道があるかもしれない」


「……もし、なかったら?」


「そのときは、そのときに考える」


「…………」


莉央は不安そうな顔をした。


そりゃそうだろう。


俺だって不安だ。


ただ、今ここで絶望したところで、状況が好転するわけではない。


ならば、できることをするしかない。


……我ながら、ずいぶんと前向きなことを言っている。


普段の俺なら、もう少し投げやりな返事をしていたかもしれない。


遭難という状況が、人間を成長させているのだろうか。


それとも、単純に諦めが悪くなっただけか。


まあ、どちらでもいい。


「……それと」


俺は焚き火に視線を向けた。


「食料と水は、しばらく何とかなる。だから、今は無理をするな」


「……そんなにあるの?」


「ある程度はな」


実際、どれくらい持つかは分からない。


俺一人ならともかく、二人で食べることになるのだから、消費は増える。


それでも、今すぐ食料の心配をする必要はないだろう。


少なくとも、パンを一つ渡したくらいで困るほど切羽詰まってはいない。


「……そっか」


莉央は、少しだけ安心したように息を吐いた。


その様子を見て、俺も肩の力を抜いた。


……よし。


これで、ひとまず会話は成立した。


目覚めた少女が突然暴れ出すこともなかった。


俺が変質者扱いされて叫ばれることも、今のところはない。


食料も分けられた。


名前も思い出した。


……オレオではなく、早乙女莉央。


ここは重要なので、二度と間違えないようにしよう。


たぶん。


「……あ、そうだ」


俺はふと思い出し、莉央に尋ねた。


「上で何があった?」


「……上?」


「俺たちが落ちる前だ。お前は何をしていた? それと、他の連中はどうなった?」


莉央の表情が変わった。


先ほどまでの気の抜けた雰囲気が消え、彼女は視線を落とした。


……。


…………。


どうやら、簡単に話せることではないらしい。


俺は急かさず、彼女の返事を待った。


焚き火が、ぱちりと音を立てた。


この暗闇の中では、その小さな音さえ妙にはっきり聞こえる。


しばらくして、莉央が口を開いた。


「……それは……」


そこで、彼女は言葉を止めた。


そして、俺の顔を見た。


「……水科は、あのとき……何を見たの?」


…………。


なるほど。


どうやら、俺たちが落ちる前に何があったのか。


それを話すには、少しばかり整理する必要がありそうだ。


俺は焚き火に薪を一本くべた。


火が少しだけ大きくなる。


「……順番に話そう。俺も聞きたいことがある」


「……うん」


莉央は小さく頷いた。


俺たちは、ようやく同じ場所に立ったのかもしれない。


いや、正確にはダンジョンの底に座っているのだが。


……細かいことは気にしないでおこう。


とりあえず、意識のある会話相手ができた。


それだけでも、ここ数十時間の孤独を考えれば大きな進歩だ。


……まあ、できれば次は出口を見つけたという進歩が欲しいのだが。


俺は再びパンを手に取った。


焚き火の向こうで、早乙女莉央がゆっくりと息を吐いた。


さて。


これから、どうなることやら。


少なくとも、オレオと呼ぶことだけは二度とないだろう。


……たぶん。

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