第8話 算数の授業01
家庭教師の初日、イスズは算数の授業を始める前に、レオーネと少し話をしておこうと思っていた。
「レオーネ様。一つ聞いてもよろしいですか? 算数で、一番分からないのはどこでしょう?」
レオーネは少し考えてから答えた。
「……答えが分からない、というより……数字そのものが、よく分からないんです」
「数字そのもの、ですか?」
イスズが首を傾げると、レオーネは机の上に置かれた紙へペンを走らせた。
「一とか、二とか、三とか……数字は読めます。問題を見れば、答えを覚えているものもあります」
「では、何が分からないのでしょう?」
レオーネは少し迷ったあと、紙に書いた数字を見つめながら言った。
「……どうして、それで答えになるのかが分からないんです」
イスズは黙って、その言葉の続きを待った。
「たとえば……先生たちは、『六足す七は十三』って言います。僕も、それは知っています。何度も教えてもらいましたから。でも……」
レオーネは紙に書いた「六」と「七」を指差した。
「六っていう文字と、七っていう文字を合わせたら、どうして十三になるんですか?」
「……」
「一、二、三、四、五って、ただの数字の文字ですよね?」
今度は「五」と書かれた数字を指でなぞる。
「これが五個の物を表しているっていうのは、なんとなく分かります。でも、これとこれを足すと、どうして別の文字になるのか……そこがよく分からないんです」
イスズは静かに頷いた。
なるほど。レオーネは答えを知らないわけではない。むしろ、これまで何度も教えられてきたことで、計算の答えそのものは覚えている。
ただ、数字が何を表しているのか。その数字と実際の「量」が、まだしっかりと結びついていないのだ。
イスズは、もう一つ尋ねてみることにした。
「では、こういう問題ならどうでしょう。『りんごが五個あります。そこへ梨が六個加わりました。合わせて何個でしょう』」
「……十一、です」
レオーネは迷わず答えた。けれど、その顔には納得している様子がない。
「でも……なんで、りんごと全然違う梨を、同じものみたいに足さないといけないのか、訳が分からないです!」
思わず声が大きくなった。
レオーネ自身も驚いたように目を見開いたが、一度口にした疑問は止まらなかった。
「りんごはりんご、梨は梨です! 同じものじゃないのに、それを合わせる意味が分からないんです!」
イスズはしばらくレオーネを見つめ、それから小さく頷いた。
「……なるほど。そこだったのですね」
「……はい」
レオーネは少し気まずそうに俯いた。
「変ですか?」
「いいえ。変ではありませんよ。むしろ、とても大事な疑問だと思います」
「大事……?」
「はい。レオーネ様は、答えを覚えることはできています。でも、数字が何を表しているのか。そして、何と何を足しているのか。その意味が、まだ見えていないのですね」
レオーネは黙ったまま、小さく頷いた。
「だから、問題の形が少し変わると分からなくなってしまう」
「……そうです」
「文章問題も苦手ですか?」
今度は即答だった。
「はい。先生が言っていることは分かるんです。でも、文章を読んでから数字を見ると……何をすればいいのか分からなくなります」
イスズは、なるほど、と心の中で頷いた。
これは単純に計算能力の問題ではない。
「三」という数字と、「三個」という量。「足す」という言葉と、実際に物が増えること。「引く」という言葉と、物が減ること。それらが、まだ一つのものとして結びついていないのだ。
特に引き算は、「減る」「残る」「違いを求める」など、意味の異なる状況でも同じ計算になる。そこを理解しないまま式だけを覚えさせれば、問題の形が変わった途端に分からなくなるのも無理はない。
イスズはレオーネの話を聞きながら、以前のことを思い出していた。
――ああ。
――ファーゴも、はじめは同じことを言っていたな。
数字は読める。答えも覚えられる。けれど、数字が「量」を表しているという感覚が、なかなか掴めなかった。
イスズは少し考えた。では、どうすればいいのか。
紙に数字を書かせるだけでは駄目だ。答えを暗記させても、今までと同じことになる。
まずは、数字そのものを目で見て、触れて、量として感じられるようにする必要がある。
「五」と書かれた記号を見せるのではなく、五という量そのものを見せる。
一が五つ集まれば五になる。そこへ六つ加えれば、量はどう変わるのか。それを実際に目で見ればいい。
そこで、イスズの頭の中に一つの教材が浮かんだ。
「……あれなら」思わず呟く。
「先生?」
顔を上げたレオーネに、イスズは微笑んだ。
「少し、試してみたいことを思いつきました」
「何をするんですか?」
「それは、授業になってからのお楽しみです」
そう言ってイスズが立ち上がると、レオーネは不思議そうにその背中を見送った。
これまでの教師たちは、分からなければ何度も同じ問題を解かせてきた。
六足す七は十三。
三足す四は七。
十引く三は七。
正しい答えを繰り返し書かせ、覚えさせる。それが、これまでのレオーネに対する教育だった。
けれど、それではレオーネが抱えている疑問には届かない。答えを覚えさせるのではなく、答えが生まれるところを見せる。
まずは数字と「量」を結びつけるところから始めよう。
イスズはそんな次の授業の内容を頭の中で組み立てながら、静かに微笑んだ。
これは、私の原体験を多少誇張して描写しています。
「三人に一人三個ずつリンゴを渡します。リンゴは全部で何個必要でしょうか?」
3×3=9とは分かるのですが、なぜ「人とりんごという別の物を掛けるのか」が理解できませんでした。




