第9話 算数の授業02
そして数日後、授業の時間がやってきた。
部屋には、レオーネといつも護衛騎士のストリーガ、そして侍女のトレミーが控えている。
しばらくすると扉が開き、「遅れてすみません」とイスズが入ってきた。その両手には、いつもの教科書や筆記具ではなく、何やら木製の箱が抱えられている。
「イスズ先生、それは何ですか?」
レオーネが不思議そうに尋ねると、イスズは楽しそうに微笑んだ。
「ふふっ。今日は少し趣向を変えて、変わった算数のお勉強をしましょうね」
イスズは箱を机の上へ置いた。
レオーネは素直に返事をしたものの、机の上を見て首を傾げる。今まで家庭教師の授業なら、まず紙と筆記具が用意されるはずなのに、今日はそれらがどこにも見当たらない。
「……先生、ペンも紙もないです」
「ええ。今日は紙もペンも使いませんよ」
そう言ってイスズが木箱の蓋を開けると、中から一枚の木製の板を取り出した。
板には細かな升目が整然と刻まれ、その上部には一から二十までの数字が並んでいる。さらに箱の中には、赤と青に色分けされた細長い木の棒が何本も収められていた。
それぞれ一定の間隔で色が変わり、短いものから長いものまで、少しずつ長さが違っている。
レオーネが目を丸くし、トレミーも思わず身を乗り出す。護衛のストリーガですら、いったい何に使うものなのか分からない様子で木箱を見つめていた。
イスズは一番短い棒を一本取り出すと、少しだけ胸を張った。
「今日はこれでお勉強です! ジャジャーン! 私が作った算数セットです〜!」
「…………」
妙に楽しそうなイスズの声に、レオーネはぽかんとした。
「算数……セットですか?」
イスズは一番短い棒を机の上に置いた。
「はい。まずは、これを見てください。この棒は『一』です」
続いて、その二倍ほどの長さがある棒を隣に置く。
「こちらは『二』。そして、こちらが三、四、五……」
棒を順番に並べていくと、数字が大きくなるにつれて、その長さも少しずつ伸びていく。
レオーネは、並べられた棒をじっと見つめた。
「……長さが違います」
「そうです。この棒では、数字を長さで表しているんです」
イスズは一の棒を手に取ると、それを二の棒の上へ重ねた。すると、一の棒二本分の長さと二の棒がぴたりと重なる。
「ほら。『二』という数字は、ただの記号ではありません。一が二つ集まった量なんです」
レオーネは目を瞬かせた。
「……二は、一が二つ?」
「そうです」
今度は三の棒を取り出し、一の棒三本分と並べてみせる。
「三は一が三つ。四は一が四つ。そして五は一が五つです」
レオーネは、それぞれの棒を見比べた。短い棒と長い棒、その違いが、そのまま数字の違いになっている。
これまでレオーネにとって数字とは、紙の上に書かれた記号にすぎなかった。『一』『二』『三』と何度も書き、何度も読んできたから意味は知っているつもりだったが、それぞれが実際にどれほどの量を表しているのかまでは考えたことがない。
五と六を足せば十一になることも知っている。それでも、なぜ五と六を合わせると十一になるのかと問われれば、「そういうものだから」と覚えるしかなかった。
イスズはそんなレオーネの様子を見ながら、三の棒と二の棒を取り出した。
「では、レオーネ様。三と二を合わせてみましょう」
「三と二……?」
「はい。三の棒の後ろに、二の棒を続けて置いてみてください」
レオーネが言われた通りに二本を並べると、二本を合わせた先端は五の位置で止まった。
「……五?」
「そうです。三と二を合わせると五になります」
レオーネは少し不思議そうに棒を見つめた。
イスズは四と三、五と二、六と二と少しずつ組み合わせを変えていった。
「では、七と三なら?」
「十!」
「正解です」
「じゃあ、六と四も十ですね」
今度はイスズが言うより早く答えたレオーネに、イスズは嬉しそうに頷いた。
イスズが八の棒を置く。
「では、今度は引き算をしてみましょう。ここから三を取ると、残りはいくつでしょう?」
レオーネは三の棒を八の棒と重ね、残った長さを確認した。
「五……」
「正解です」
続けて九から二、十から四、七から五と問題を変えていった。棒を合わせれば量が増え、そこから棒を取り除けば量が減る。その違いも、レオーネは目で確かめながら少しずつ理解していった。
イスズはさらに数字を大きくしていった。十一と七、十三と八、十五と七と進んでも、レオーネはもう問題を前にして固まることはない。
棒で確かめることもあったが、次第に先に答えを出し、あとから棒で確認するようになっていった。
「では、最後に一つだけやってみましょう」
イスズが言うと、レオーネは元気よく返事をした。
「では、二十二足す二十九は?」
レオーネは一瞬だけ考え、いつものように棒へ手を伸ばしかけた。けれど、その手が途中で止まった。
頭の中に、さっきまで何度も並べていた木の棒が浮かんだのだ。二十二の長さと二十九の長さを重ねるように思い描くと、その合計が五十一になることが分かった。
二十二の棒、その先へ続く二十九の棒。二本を合わせた先端は、五十一の位置でぴたりと止まる。
「……五十一!」
「正解です」
レオーネは目を丸くした。棒を実際に動かしていないのに、頭の中には二十二と二十九の棒が浮かび、その先が五十一まで届くことが分かった。
「……五十一って、こういうことだったんだ」
ぽつりと漏らしたレオーネに、イスズは優しく頷いた。
その実感が嬉しかったのか、レオーネはふと顔を上げた。
「先生……もう一問やっていいですか?」
「もちろんです」
「では、三十六足す二十七は?」
レオーネはもう棒へ手を伸ばさず、すぐに答えた。
「……六十三!」
「正解です」
その後も問題を少しずつ難しくしていったが、レオーネは棒を使わずに答えられるようになっていった。
「今日はここまでにしましょう」
イスズがそう告げると、レオーネは少し名残惜しそうに机の上の棒を見つめた。
そこには、今日ずっと使っていた色とりどりの木の棒が並んでいる。
つい先ほどまで、これがなければ算数の問題を解けないと思っていた。レオーネは一本の棒をそっと指先で撫でた。
「……すごい」
「何がですか?」
イスズが尋ねると、レオーネは少し照れたように笑った。
「棒がなくても、頭の中に出てくるんです。先生が教えてくれたから……」
「そうですか」
「……もう終わりですか?」
「はい。また次の授業でやりましょう」
「はい!」レオーネは元気よく返事をした。
以前なら、授業が終われば「ようやく終わった」という安堵のほうが大きかった。けれど今日は違う。もっと問題を解いてみたいという気持ちが、まだ胸の中に残っている。
その様子を、部屋の隅に控えていたストリーガは改めてイスズへ視線を向けた。もしかすると、何か魔法でも使ったのではないか。そう疑いたくなるほどの変化だった。
とりわけ、もし人の精神や認識に干渉する魔法を使ったのだとすれば、ただ事ではない。そうした魔法は人間に対して無断で使うこと自体が犯罪とされている。
ストリーガはイスズの一挙一動を注意深く観察した。だが、魔法を使った痕跡らしきものは何も見当たらない。それでも、数時間の授業だけでここまでの変化が起きたことが、どうにも腑に落ちなかった。
警戒するような目でイスズを見つめるストリーガの隣で、侍女のトレミーは机の上に並べられた木の棒をじっと見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……なるほど」
「どうしました?」
イスズが尋ねると、トレミーは少し驚いたように首を振った。
「いえ……その、今までの先生方とは、教え方がまったく違うのだと思いまして」
「そうですか?」
「はい。数字を覚えさせるのではなく、まず数字が何を表しているのかを見せているのですね」
トレミーは机の上の棒へ目を向けた。
「これなら、レオーネ様にも分かります。目で見て、実際に並べて確かめられますから」
「その通りです。分からないものを、無理に覚えさせても仕方ありませんから」
侍女のトレミーは、改めてレオーネの姿を見つめた。
先日まで、数字を前にすると手が止まっていたはずなのに、今では棒を使わず、次々と答えを出している。その変化は、まるで乾いた真綿が水を吸い込むようだった。
「……もしかすると、今までの教え方が、レオーネ様には合っていなかっただけなのかもしれません」
トレミーは、ぽつりと呟いた。
「レオーネ様は……本当は、とても優秀な方なのではないでしょうか」
レオーネは、机の上の棒を見つめたまま、小さく呟いた。
「……算数って、分かると……こんなに簡単なんだな」
イスズは静かに微笑んだ。
「そうですね。分かってしまえば、難しいものではありませんよ」
レオーネは返事をしながら、もう一度机の上へ視線を落とした。今日は授業が終わっても、まだ少し物足りない気がする。
「先生、明日も……いっぱい教えてください」
「もちろんです」
イスズが笑うと、レオーネも嬉しそうに笑う。
その胸に生まれた気持ちが何なのか、十歳のレオーネにはまだ分からない。
ただ、明日もまたイスズと一緒に勉強できることが、今は楽しみで仕方なかった。




