第10話 レオーネの母
時は少し遡る。
インプレッサ伯爵家の大広間。
家庭教師選定試験の結果を告げるため、最終候補者たちが一室に集められていた。
室内には、いずれもそれなりの身分と教養を備えた者たちが揃っている。
名の知られた貴族家の出身者もいれば、学院で優秀な成績を修めた者、すでに他家で家庭教師を務めた経験を持つ者もいた。
その中で、イスズだけが明らかに異質だった。
家格は低く、学院にも通っていない。使える魔法も生活魔法だけで、しかも二十二歳になっても結婚していない。家庭教師として名を連ねるには、あまりにも異色の経歴だった。
やがて、試験結果を手にした男性が前へ出る。
「それでは、家庭教師選定試験の結果を発表いたします」
その一言で、室内の空気が張り詰めた。男性は手元の紙へ目を落とし、候補者たちの顔を一度見回してから、ゆっくりと口を開く。
「今回、最終面談へ進んでいただく方は……イスズ・エルミオ殿です」
その名前が呼ばれた瞬間、室内に小さなどよめきが走った。
ざわめきはすぐに収まったものの、何人もの視線が一斉にイスズへ向けられる。イスズはそんな周囲の反応を気にする様子もなく、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
それだけだった。自分がなぜ選ばれたのか、どこが評価されたのかを尋ねることもなく、ただ結果を素直に受け止めている。
一方、落選した者たちの間には、明らかな不満が広がっていた。
「……まさか、あれが残るとはな」「騎士爵の娘のくせに」「生活魔法しか使えないのでしょう?」「それで伯爵家の御子息の家庭教師だと?」
イスズへ聞こえるように、わざと声を張って言う者もいた。中には露骨に睨みつけてくる者までいる。
「一体、何を評価されたというのだ……」
吐き捨てるような声が聞こえても、イスズは聞こえていないふりをした。ここで反論したところで、何かが変わるわけではない。むしろ、余計な騒ぎを起こすだけだと分かっていた。
最後まで残っていた者がイスズを睨みつけると、吐き捨てるように文句を口にしてから、扉の向こうへ消えていった。
イスズは何も言い返さなかった。ただ、その背中を一度見送ると、すぐに前へ視線を戻す。
静かになった室内で、先ほど結果を伝えた男性がイスズへ近づいてきた。
「イスズ・エルミオ殿、こちらへどうぞ。最終面談のお時間です」
「分かりました」イスズは立ち上がり、男性の後に続いた。
廊下をしばらく進み、案内された先にある扉の前で男性が足を止める。
「どうぞ、お入りください」
扉が開かれ、イスズは一歩、中へ入った。
そこは先ほどまでの部屋とは違い、より落ち着いた調度品が並ぶ部屋だった。高価な絨毯が床を覆い、磨き上げられた木製の家具が整然と置かれている。
壁にはインプレッサ伯爵家の家紋が飾られ、部屋そのものが、この家の格の高さを物語っていた。
そして、その奥にある上質なソファには、一人の女性が腰掛けていた。
一目見ただけで、高位貴族の夫人だと分かる。整った顔立ちに、上品にまとめられた髪。身に着けている衣服も装飾品も、どれも一級品だった。
ただし、その美しい顔には柔らかさがない。切れ長の目は冷ややかで、イスズが入ってくると、その姿を静かに見据えた。
女性はまずイスズの顔を見た。次に髪、服、靴へと視線を移し、まるで品物の価値を確かめるように頭の先から足元までゆっくりと眺めていく。そして最後に、もう一度イスズの顔へ視線を戻した。
イスズは黙ってその視線を受け止めた。
やがて女性は、わずかに眉を動かす。
「……そこに座りなさい」冷ややかな声だった。
イスズは一瞬だけ女性を見たものの、すぐに指示されたソファへ腰を下ろした。名乗るべきだろうかとも考えたが、相手は明らかに自分より身分が上である。
こうした場では、目上の者が先に名乗るのを待つのが礼儀だ。そう判断し、余計なことは口にしなかった。
女性はそんなイスズをしばらく見ていたが、やがて手元の書類へ視線を落とした。紙をめくる音だけが静かな室内に響く。
一枚、また一枚と書類を確認していく女性に対し、イスズも何も言わずに待った。背筋を伸ばし、膝の上に手を置いたまま、相手が話し始めるのを静かに待つ。
時間だけがゆっくりと過ぎていく。
それでもイスズは焦らなかった。こういう場では、沈黙に耐えられず自分から余計なことを話してしまうほうが失敗につながる。ならば、相手が何を考えているのか分からない今は、黙っているのが一番だった。
しばらくして、女性がようやく書類から顔を上げた。
「……あなたが、今回の最終面談に残った方なのね」
「はい」
イスズが静かに答えると、女性は再びイスズを見た。今度は先ほどよりも露骨な侮蔑が、その目に浮かんでいる。
「イスズ・エルミオ……」
名前を確かめるように呟きながら、女性は手元の書類へ視線を落とした。
「エルミオ騎士爵家……なんて、私は初めて聞くわね」
イスズは何も答えない。
女性は淡々と書類をめくりながら、その経歴を一つずつ読み上げていく。
「家格も高くない。学院へ通った経験もない。魔法も生活魔法だけ……」
そこで一度、女性は顔を上げた。そして、最後の項目を確かめるように書類へ目を落とす。
「それでいて、結婚もしていない……もう、二十二歳?」
女性はゆっくりと顔を上げた。
「どういうことかしら?」
その声音には、純粋な疑問などなかった。明らかに、イスズを問い詰めるための口調だった。
イスズは黙っている。女性はそんなイスズを見つめたまま、さらに言葉を続けた。
「貴族令嬢として学院にも通わず、二十二歳になっても結婚していない。それだけなら、まあいいでしょう。人にはそれぞれ事情がありますもの」
そう言いながらも、その表情には一切の同情がない。
「でも、あなたは今、我がインプレッサ伯爵家の長男、レオーネの家庭教師として最終面談に残ってしまったのよ。おかしいとは思わなくて?」
女性は手元の書類を机へ置いた。
「今回の試験には、あなたよりも身分の高い者もいたでしょう。学院を優秀な成績で卒業した者もいた。家庭教師としての経験を持つ方だっていたはずよ。それなのに、選ばれたのはあなた。生活魔法しか使えず、学院に通ったこともない騎士爵家の娘である貴女がね」
そう言って、女性はわずかに身を乗り出した。
「どうしてだと思う?」
イスズは女性の顔を見た。美しい。けれど、その切れ長の目には、見る者を萎縮させるほどの鋭さがあった。
この女性が誰なのか。考えるまでもなかった。
ここはインプレッサ伯爵家。そして、自分はその長男であるレオーネの家庭教師を選ぶため、ここへ呼ばれている。
ならば――。イスズはようやく理解した。
目の前にいるのは、レオーネの母。インプレッサ伯爵夫人、名前はマイアだと聞いた。
イスズはほんの少しだけ姿勢を正した。それでも表情は変わらない。そして――小さく息を吐くように笑った。
「ふふっ」
イスズの口元に浮かんだ微笑みに、マイアの眉がぴくりと動く。まさか、ここで笑うとは思っていなかったらしい。
「……何がおかしいのかしら?」
「申し訳ありません。少しだけ、面白いと思ったものですから」
「面白い?」
「私も、どうして最終面談まで残れたのかは分かりません。ですから、奥様がそれをお尋ねになるお気持ちは分かります」
「では、あなた自身も、自分がここにいる理由が分からないということ?」
「はい。少なくとも、私には分かりません。ただ、一つ気になっていることがあります」
イスズはそこで一度言葉を切った。
「何かしら?」
「奥様は、私が最終面談に残った理由をご存じなのですか?」
マイアは答えなかった。
「私の経歴も、家柄も、使える魔法も、すべてご覧になった上で、それでも選定担当の方々は私を残されたのでしょう?」
イスズの声音は穏やかだった。問い詰めるような響きも、反抗的なところもない。ただ、自分でも分からないことを確かめようとしているだけだった。
「つまり、あなたには何かあると?」
「そうかもしれません。ですが、それが何なのかは、私にも分かりません」
イスズは微笑んだまま続けた。
「ですから、もし奥様が何かご存じなのでしたら、私にも教えていただければと思っております」
「……私に教えろと?」
「そのようなつもりではありません。ただ、私自身にも分からないことですから」
イスズはすぐに首を横に振った。反抗的ではない。声も穏やかだ。それでも、マイアが最初に投げかけた質問の前提を、静かに問い直している。
マイアはしばらくイスズを見つめた。だが、まだ終わらせるつもりはなかった。
「……では、別のことを聞きましょう。あなたは、レオーネのことをご存じかしら?」
「いいえ。名前や、伯爵家の長男であるということは存じ上げております。ですが、それ以上のことは何も」
マイアの眉がわずかに上がる。
「何も?」
「はい。レオーネ様がどのような性格なのか。何を得意としていて、何を苦手としているのか。何に興味を持ち、何を学びたいと思っているのかも、私は存じません」
「それで、よく家庭教師になろうと思ったものね」
「そうですね」イスズは否定しなかった。
「ですが、だからこそ、私がレオーネ様にとって良い家庭教師になれるかどうかは、まだ判断できないのだと思います」
マイアは黙ってイスズを見つめている。
「私は試験には合格したのかもしれません。ですが、私がレオーネ様に合う教師かどうかは、まだ分かりません」
イスズは一度、言葉を切った。
「ですから、もし私を落とされるのであれば、それは構いません。ただ、経歴だけを見て判断されるのであれば、少し残念ですね」
「なぜ?」
「私は、レオーネ様をまだ一度も見ておりませんから」
その一言に、マイアは黙り込んだ。
――この娘。私の質問に答えている。けれど、それだけではない。
こちらが当然だと思っている前提そのものを、静かに問い直している。
家庭教師を選ぶのであれば、教師の経歴だけではなく、教える相手のことも知らなければならない。そんな、ごく当たり前のことを突きつけられている。
マイアは小さく息を吐いた。だが、まだ一つ試してみたいことがあった。
「では、あなたは何ができるの?」
今度こそ、マイアはイスズ自身の能力を問うた。
「分かりません」
「……は?」
「レオーネ様を存じ上げない今の私には、何が必要なのかも分かりません。ですから、今ここで『私はこれが教えられます』と申し上げても、あまり意味がないと思います」
マイアはイスズを見つめた。
「では、もしあなたを採用したら、最初の授業では何を教えるつもりなの?」
「何も教えないつもりです」
「……何ですって?」
さすがにマイアの声が揺れた。
イスズは微笑んだまま、穏やかに答える。
「最初の授業では、レオーネ様に何かを教えるのではなく、まずレオーネ様のことを知りたいと思っています」
「知る?」
「はい。レオーネ様が何を知っていて、何を知らないのか。そして、何を知りたいと思っているのか。それを確かめたいと思います」
イスズは当たり前のことを話すように続けた。
「それが分からなければ、何を教えるべきなのかも決められませんから」
マイアは何も言わなかった。先ほどまで、この娘を値踏みしていた。
家格。学歴。魔法。年齢。婚姻歴。
どれも家庭教師としては不利に見えるものばかりだった。だから、少しばかり強く出れば、すぐに萎縮すると思っていた。伯爵夫人の前で自分の身分の低さを思い知らされれば、それだけで十分だと思っていたのだ。
だが――この娘は萎縮しない。
かといって、無礼でもない。言葉遣いは丁寧で、姿勢も崩さない。こちらの身分をきちんと認めながらも、それを理由に自分の考えまで曲げることはない。
マイアは、そこでようやく理解した。
――家格は認める。
――けれど、家格と教師としての能力は別の問題。
この娘は、そう考えているのだ。しかも、それを露骨な反抗ではなく、淡々とした理屈として示している。
「……なるほど」
マイアの口から、ぽつりと言葉が漏れた。
「ジェミニ殿が、あれほどまでにこの娘を慕う理由が……少し分かった気がするわ」
そう呟いたマイアの目には、先ほどまでの侮蔑とは違う色が浮かんでいた。
代わりに生まれていたのは、目の前の娘が一体これからどうレオーネを導くのか――そんな、純粋な興味だった。




