第11話 掛け算の授業01
今日は、いつもの授業とは違い、室内に用意された勉強部屋で授業をすることになっていた。
そこは、以前の家庭教師とレオーネがいつも使っていた部屋だった。
机も、椅子も、黒板も変わっていない。何も変わっていないはずなのに、レオーネは部屋へ入った途端、少しだけ表情を曇らせた。
ここで何度も問題を解かされた。分からないと叱られ、間違えるとやり直しをさせられた。特に掛け算の授業は苦手だった。そんな記憶が、どうしても蘇ってしまう。
レオーネが俯き気味に机へ座っていると、扉が軽く叩かれた。
「どうぞ」
返事をすると、扉が開く。
「お待たせしました」
にこにこと笑いながらイスズが入ってきた。その顔を見た瞬間、レオーネの表情が少しだけ明るくなる。
「イスズ先生、今日もよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
イスズはいつものように笑ってレオーネの向かい側へ座り、教科書を机の上へ置いた。
「さて、今日は何をすると思いますか?」
レオーネは少し考えてから答える。
「……算数、ですか?」
「そうです」
「今日は、何をするんですか?」
イスズは楽しそうに微笑んだ。
「今日は、掛け算をしましょうね」
その瞬間、レオーネの表情が見るからに曇った。
「……掛け算」
その反応を見て、イスズは思わず苦笑する。どうやら相当苦手らしい。この世界でも、掛け算の基本的な覚え方は変わらない。
「二一・二」「二二・四」「二三・六」「二四・八」
数字と答えを何度も口にし、ひたすら暗記していく。レオーネは記憶力そのものが悪いわけではない。むしろ、一度意味を理解したことを覚えるのは人より得意だった。それでも、掛け算だけは苦手だった。
何度覚えても、数字の並びがただの暗号のように見えてしまう。
二一が二。二二が四。二三が六。二四が八。
それを覚えたところで、一体何の意味があるのか。そう思ってしまうのだ。
同じ年頃の貴族の子弟たちは、ほとんどが九九を暗記している。だからこそ、レオーネは余計に自分だけができないことを気にしていた。
イスズは黒板へ向かい、白墨を手に取った。そして、レオーネが予想した通り、黒板へ数字を書いていく。
『二一・二』『二二・四』『二三・六』『二四・八』
レオーネは、それを見ただけで憂鬱になった。またこれを覚えるのか。そう思った、その時だった。
イスズが突然、その数字の上から大きく白墨で『×』の線を引いた。
「えっ?」レオーネが目を丸くする。
イスズは楽しそうに笑った。
「レオーネ様。もちろん、これを覚えておくのは悪いことではありません。覚えていれば、とても便利ですからね。でも――これを全部丸暗記する必要はありませんよ」
「……え?」
イスズは九九を消すと、黒板の中央へ新しく階段のような図を書き始めた。一段目、二段目、三段目と並べ、その横へ数字を書き込んでいく。
まずは二の階段。
2、4、6、8、10、12、14、16、18、20。
続いて、その隣に三の階段を書く。
3、6、9、12、15、18、21、24、27、30。
イスズは黒板から離れ、レオーネを振り返った。
「レオーネ様。何か気づきませんか?」
レオーネは黒板をじっと見つめた。しばらく考えてから、指で二の階段をなぞる。
「……二の階段は、二ずつ増えています」
今度は三の階段を見る。
「三の階段は……三ずつ増えています」
「正解です」イスズは嬉しそうに頷いた。
「つまり、二の段を覚えるということは、二を何度も足していくことなんです。三の段なら、三を何度も足していく。それだけなんですよ」
「……何度も足す?」
イスズは黒板に、さらに小さく書き足した。
2 → 4 → 6 → 8 → 10
「二に二を足せば四。そこへまた二を足せば六。さらに二を足せば八です」
レオーネは黙って黒板を見つめていた。
「掛け算って、何か特別な計算をしているわけではないんです。『同じ数を何度も足す』ことを、短く書いているだけなんですよ」
「……そういうことだったんだ」
レオーネの目に、少しだけ色が戻った。
イスズは今度は、机の上へ赤と青の丸い木片を並べ始めた。赤い木片を三列に並べ、それぞれの列に青い木片を二つずつ置いていく。
「たとえば、三掛ける二を考えてみましょう」
そう言って、黒板に簡単な図を描いた。
● ●
● ●
● ●
「赤い丸が三列あります。そして、一列につき二個ずつですね」
レオーネは木片を見ながら答える。
「二個が三つ……だから、六」
「そうです」
イスズは木片の向きを変え、今度は横から見えるように並べ直した。
● ● ●
● ● ●
「では、見方を変えてみましょう。今度は三個が二列ありますね」
レオーネは少し考えた。
「……これも六です」
「その通りです。三掛ける二でも、二掛ける三でも、答えは同じ六になります」
「三が二つでも六。二が三つでも六……」
「はい。掛ける数字の順番を入れ替えても、答えが同じになる組み合わせがあるんです」
レオーネは、目の前の木片をじっと見つめた。先ほどまで数字の並びにしか見えなかった掛け算が、少しずつ別の形に見え始めているようだった。
イスズはそこで一度黒板へ戻ると、今度は大きな九九の表を書いた。ところが、それを見た瞬間、レオーネの顔がまた曇った。
「……これ、前の先生が、全部覚えなさいって……」
「でしょうね。九九を覚えておけば計算はとても速くなりますから、便利な方法ではあります。でも、最初から全部を丸暗記する必要はありませんよ」
「……本当に?」
「本当です」
イスズは九九の表を指差した。
「まず、一の段はどうでしょう?」
「一を掛ければ、そのままの数字になります」
「そうですね。では、二掛ける三と三掛ける二は?」
「どちらも六です」
「ならば、両方を覚える必要はありませんね」
そう言いながら、イスズは一の段を線で消し、さらに二掛ける三と三掛ける二のように、順番を入れ替えるだけで同じ答えになる組み合わせにも線を引いていった。
やがて、黒板には覚えておけばよい組み合わせだけが残る。
「こうして整理すると、一の段を覚えなくてもよくなりますし、同じ組み合わせを二度覚える必要もなくなります。残る組み合わせは、全部で三十六個です」
レオーネは、先ほどまで嫌そうに見ていた九九の表を見直した。
「……三十六個?」
「はい。最初から全部を覚えようとすると大変ですが、こうして整理すれば、覚える量はかなり減ります」
レオーネは少しだけ安心したような顔を見せた。
するとイスズは、さらに白墨を持ち替えた。
「それに、覚えていない掛け算が出てきても、知っているところから答えを作ることができます」
「答えを……作る?」
「はい。たとえば、五の段を見てみましょう」
イスズは黒板に五の段を書いた。
5、10、15、20、25、30、35、40、45
「五の段は、五ずつ増えていくだけです。ですから、比較的覚えやすいんですよ」
「五、十、十五、二十……」
レオーネも小さく口にする。
「では、これを使ってみましょう。八掛ける七なら、どうでしょうか」
「……八掛ける七」
「まず、八掛ける五なら?」
レオーネは少し考えた。
「四十です」
「そうですね。では、八掛ける六なら?」
「四十に八を足して……四十八」
「正解です。では、八掛ける七は?」
レオーネは少し考え、指を折りながら答えた。
「四十八に、もう一度八を足して……五十六!」
「その通りです」
レオーネの目が大きく開いた。
「……八掛ける五を知っていれば、そこから八を足していくだけなんですね」
「そういうことです。掛け算を全部覚えていなくても、知っている掛け算を基準にすれば、知らない答えを自分で作れます」
レオーネは、黒板をじっと見つめた。
「じゃあ……別の問題もできますか?」
「もちろんです。では、七掛ける九ならどうでしょう?」
「七掛ける九……」
レオーネは少し考えた。
「九掛ける五なら、四十五。そこから九を二回足せば……五十四、六十三」
「正解です」
「じゃあ、六掛ける八なら……」
今度は、レオーネのほうからすぐに考え始めた。
「八掛ける五で四十。そこから八を一回足して……四十八」
「その通りです」
レオーネは嬉しそうに笑った。先ほどまで見るだけで憂鬱だった九九の表が、今はそれほど難しいものには見えなかった。
「先生……これなら、全部覚えなくてもいいんですね」
「ええ。もちろん、九九を覚えてしまえば計算は速くなりますから、覚えられるなら覚えておくと便利です。でも、覚えられないからといって、掛け算ができないわけではありません」
イスズは黒板にもう一度、二の段と三の段を書いた。
「大切なのは、答えを丸暗記することだけではありません。分からなくなったときに、自分で答えを作る方法を知っていることです」
レオーネは黒板を見つめた。
「……知っている掛け算まで戻って、そこから足していけばいい」
「そうです」
「じゃあ、掛け算を忘れても……」
「大丈夫です」
イスズはにっこりと笑った。
「忘れてしまったら、知っているところまで戻ればいいんです。そこから同じ数を足していけば、答えは自分で作れますから」
レオーネはしばらく黙っていた。そして、ふと笑った。
「掛け算って……思っていたより、ずっと簡単なのかもしれない」
「ふふっ。そう思ってもらえたなら、今日の授業は大成功ですね」
それまでレオーネにとって、掛け算とは意味の分からない数字の並びをひたすら暗記するものだった。
けれど、今は違う。
二、四、六、八――数字は階段のようにつながっている。分からなくなったら、知っている掛け算まで戻ればいい。そこから一つずつ足していけば、答えを自分で導き出せる。
レオーネはもう一度、黒板へ目を向けた。
「先生。もう一問、やってみたいです」
イスズは嬉しそうに笑った。
「もちろんです。では、次は少しだけ難しくしてみましょうか」
さっきまで重く感じていた掛け算の授業が、今は不思議と楽しみに思えていた。
※本場面の数学的説明について。
イスズはレオーネに「掛け算とは何か」を感覚的に理解してもらうため、複数のアプローチを用いて説明しています。
そのため、ここでの説明は厳密な数学的定義や証明を目的としたものではなく、あくまで初学者向けの理解を助けるための説明です。
数学的な厳密性よりも、作中におけるレオーネの理解しやすさを優先しています。




