第7話 野外授業04
今日の授業も、庭で行われた。
レオーネは、イスズがやって来るよりも前から庭に出ていた。
これまでなら、家庭教師が来る時間が近づくほど気が重くなり、授業が始まる前から憂鬱そうな顔をしていたものだ。けれど、今は違う。
今日は何をするのだろう。何を見せてくれるのだろう。そんな期待が、イスズの姿を待つレオーネの明るい表情からも伝わってくる。
やがてイスズが庭へ姿を見せると、レオーネはすぐに駆け寄った。
「お待たせしました、レオーネ様」
「イスズ先生!」
嬉しそうな声に、イスズも思わず微笑む。
「今日も、楽しく勉強しましょうね」
「はい!」
その様子を少し離れたところから見ていた侍女のトレミーは、思わず頬を緩めた。以前のレオーネなら、授業が始まる前からこんな顔をすることなどなかった。
一方、護衛の騎士ストリーガは、相変わらず険しい表情を崩していない。レオーネが授業を楽しんでいることは分かっている。だが、それだけでイスズの教育方針を信用するつもりはないらしい。
そんな二人をよそに、イスズはレオーネの前へ進み出た。
「では、今日の授業はこちらです」
そう言って手のひらを上に向けると、足元の土から細かな粒がふわりと浮かび上がった。
それらがイスズの手のひらへ集まり、圧し固められていく。やがて、そこには小さな石が二つ転がっていた。
「わあ……」レオーネの目が輝く。
イスズはそのうちの一つを手渡し、手のひらに乗せるよう促した。
「では、そのまま手を開いてみてください」
レオーネが手を開く。石はぱらりと落ち、地面を転がった。
レオーネにとっては、あまりにも当たり前の光景だった。石を手から離せば、地面へ落ちる。それだけのことだ。
イスズはもう一つの石を手に取りながら、ふと尋ねた。
「レオーネ様。空気というものをご存じですか?」
「はい。見えないけれど、そこら中にあるもの……ですよね?」
「その通りです。では、空気には重さがあると思いますか?」
レオーネは少し考えたものの、首を横に振った。
「……ないと思います。だって、空気は見えませんから」
「なるほど」
イスズは否定せず、手にしていた石をもう一度地面へ落とした。ぽとん、と石が地面に落ちる。
イスズはその石を指差した。
「では、この石はなぜ地面へ落ちたのでしょう?」
レオーネは目を瞬かせた。あまりにも当たり前のことだったからだ。手を開けば落ちる。それが普通であり、今まで一度も、その理由を考えたことなどなかった。
侍女のトレミーも首を傾げ、護衛の騎士ストリーガはわずかに眉をひそめている。そんなことを聞いて何になるのか、とでも言いたげだった。
けれど、イスズは答えを教えない。ただ、レオーネが自分で考えるのを静かに待っていた。
レオーネは地面に転がった石を見つめる。なぜ落ちるのだろう。
先ほどイスズから聞いた「空気」という言葉が頭に浮かんだ。見えないけれど、そこら中にあるもの。そして、空気には重さがあるのかと尋ねられた。
しばらく考えた末、レオーネは顔を上げた。
「もしかして……空気にも重さがあるから、石が地面に落ちるんですか?」
イスズは嬉しそうに微笑んだ。
「とても良い考え方です。ただ、そこは少し違います。空気にも重さはありますが、空気の重さが石を落としているわけではありません」
「じゃあ、どうして……?」
レオーネが考え込むと、イスズは石を手のひらに乗せたまま、ゆっくりと説明した。
「実は、私たちが立っているこの大地には、物を引き寄せる力があるのです。私たちも、石も、木も、みんな大地に引っ張られています」
「大地が……?」
レオーネは足元を見つめた。
「はい。どうしてそんな力があるのかまでは、今日の授業だけでは説明しきれません。今はまず、『大地には物を引き寄せる力がある』と覚えておいてください」
「……はい」
少し名残惜しそうに頷くレオーネに、イスズは笑みを向ける。
「では、その力によって石がどうなるのか、実際に見てみましょう」
イスズは石を持ち上げた。
「私がこうして石を持っている間は、私の手が石を支えています」
そして手を開く。石は再び地面へ落ちた。
「ですが、手を離せば支える力がなくなります。すると石は大地に引っ張られ、地面へ落ちていくのです」
レオーネは落ちた石を見つめた。
「じゃあ……石が自分から落ちているわけじゃないんですね」
「その通りです。『物が落ちる』と言いますが、実際には『大地に引っ張られている』と考えた方が分かりやすいでしょう。この力を、私は『重力』と呼んでいます」
「重力……」
初めて聞く言葉を、レオーネは小さく口にした。
イスズは頷き、今度はレオーネ自身を指差した。
「そして、重力は石だけに働いているわけではありません。私たちも同じです。大地の重力が私たちを地面へ引き寄せ、その地面が私たちを支えてくれるから、こうして立っていられるのです」
レオーネは自分の足元を見た。
「もし、重力がなかったら……?」
「今のように地面に立っていることも、歩くこともできなくなるでしょうね」
レオーネは驚いたように周囲を見回した。
庭の木も、花壇の草も、地面に転がる石も、そして自分自身も、今まで当たり前に存在していると思っていたものすべてが、目には見えない重力の影響を受けている。
「……見えないのに、あるんですね」
イスズも庭を見渡した。
「そうです。世の中には、目で見ることのできないものがたくさんあります。それでも、起きていることをよく観察すれば、その存在や働きを知ることができるのです」
レオーネは黙ってその言葉を聞いていた。石が落ちる。ただそれだけだった現象の中に、大地の力が隠れていた。
当たり前だと思っていたことにも、「どうして?」がある。
「……先生、もっと、知りたいです」
イスズは嬉しそうに微笑んだ。
「では、それが今日の一番大切な学びですね」
それからというもの、庭での授業はレオーネのお気に入りになった。そこはもう、ただの遊び場ではない。不思議を探す場所でもあった。
机も教科書もない。
けれど、イスズと一緒に庭へ出ると、昨日まで何気なく眺めていたものが、まるで別のものに見えてくる。
そんな二人の様子を、少し離れた場所から見つめていたトレミーは、思わず頬を緩める。
以前のレオーネなら、授業が終わるのをただ待っていた。けれど今は、自分から「もっと知りたい」と言っている。
その変化を間近で見てきただけに、トレミーにとっても嬉しいことだった。
一方、護衛の騎士ストリーガの表情は、ますます険しくなっていた。
『空気に重さがある? 重力? 物が大地に引っ張られている? 何を馬鹿なことを教えているのだ』
ストリーガには、イスズの話がまるで理解できなかった。石が落ちるのは当然のことだ。それをわざわざ「大地が引っ張っている」などと説明する意味が、まったく分からない。
しかも、それを伯爵家の長男であるレオーネに教えているのだ。
「……大丈夫なのか、あの教師は」
思わず漏らした呟きに、イスズは気づかない。
彼女はただ、目の前の少年が初めて抱いた「どうして?」という疑問を大切にしていた。
トレミーは嬉しそうに二人を見つめ、ストリーガは不安そうに眉をひそめている。
同じ授業を見ているはずなのに、二人の受け止め方はまるで違っていた。




