第6話 野外授業03
次に何が起こるのか待ちきれない様子のレオーネを横目に、イスズは鍋へ少しずつ水を足していった。
茶色く濁った水が、次第に鍋いっぱいになる。
「もう少し入れてみましょう」
イスズは生活魔法で、鍋へさらに少しずつ水を足していく。やがて鍋の縁ぎりぎりまで水が満たされた。
レオーネが慌てて声を上げる。
「イスズ先生、もうこぼれそうです!」
「そうですね。では、よく見ていてください」
イスズはさらにほんの少しだけ水を加えた。
ところが――。
「……あれ?」
水はこぼれなかった。鍋の縁よりも高く、ほんのわずかに水面が盛り上がっている。
「どうして……?」
レオーネが目を丸くする。侍女も思わず鍋へ顔を近づけた。
イスズは水面を指先で示した。
「こういう現象に私は『表面張力』という名前をつけています」
「表面……張力?」
「はい。でも、今日は名前を覚える必要はありません。大切なのは、水がただ流れるだけではないと知ることです」
レオーネは、盛り上がった水面をじっと見つめた。
「……じゃあ、どうしてこうなるんですか?」
「それを考えるのが、勉強ですよ」
レオーネは少し考えた。
「……先生は、どうしてこうなるのか知っているんですか?」
「もちろんです。でも、今ここで答えを言ってしまったら、レオーネ様が自分で考える機会がなくなってしまうでしょう?」
レオーネは水面を見つめたまま、しばらく考えた。
そして――。
「……自分で考えてみたいです」
「では、そうしましょう」
イスズは満足そうに頷いた。
レオーネはもう一度、水面を見つめた。
「水にも……力があるんですか?」
イスズは少し嬉しそうに笑った。
「そう考えてみるのも面白いですね」
「……見えないのに?」
「風だって見えないでしょう?」
イスズが庭の木々を指差す。葉がさらさらと揺れている。
「でも、木が揺れていれば、風が吹いていると分かりますよね」
「……はい」
レオーネはもう一度、水面を見つめた。
「……面白いな」
その呟きに、イスズは微笑んだ。
しかし、護衛の騎士ストリーガだけは、なおもイスズから視線を離さなかった。
レオーネが楽しそうにしていることは分かる。だが、それだけでこの授業を信用する気にはなれない。
水面を覗き込んで、いったい何の勉強になるというのか。ストリーガには、イスズが何を教えようとしているのか、さっぱり理解できなかった。
その隣では、侍女のトレミーもレオーネと一緒になって水面へ顔を近づけ、不思議そうに覗き込んでいる。その様子を見ているうちに、ストリーガの中にはますます苛立ちが募っていった。
こんな若い家庭教師に、伯爵家の長男を任せて本当に大丈夫なのか。
その疑念は、まだ消えていなかった。
「では、次にいきましょうか」
イスズは鍋の水を捨てると、再び新しい水を用意した。そして、今度は手のひらの上に小さな水球を作り出す。
レオーネが身を乗り出した。
「また魔法ですか?」
イスズはその水球を一瞬で凍らせた。透明な氷の塊が、手のひらに現れる。
「レオーネ様。質問です。この氷を水の中へ入れたら、浮かぶと思いますか? それとも沈むと思いますか?」
イスズは氷をレオーネへ手渡した。
「触って考えてみてください」
レオーネは氷を両手で包んだ。
「冷たい……」
その重さを確かめるように持ち上げる。そして、もう片方の手を鍋の水へ入れてみた。
しばらく考えたあと、レオーネは答えた。
「……沈むと思います」
「どうしてですか?」
「固いものだから……それに、これは持っていると重いです!」
イスズは頷いた。
「なるほど。では、確かめてみましょうね」
レオーネは氷を鍋の中へそっと落とした。
ぽちゃん。すると、氷は水面に浮かんだ。
「……え?」
レオーネが目を見開く。
氷は沈まない。水の上で、ゆらゆらと揺れている。
「どうして……?」
イスズは答えを言わなかった。ただ、優しく笑った。
「それは、今日の最後の宿題にしましょうね」
「宿題……?」
「はい。どうして氷は水に浮かぶのか。レオーネ様が自分で考えて、答えが見つかったら、いつでも良いので私に教えてください」
レオーネは氷を見つめた。
わからない。でも、知りたい。
どうして氷は水に浮かぶのか。どうして洗濯物は乾くのか。
どうして水面は盛り上がるのか。
今日一日で、今まで気にしたこともなかった疑問が、次々と浮かんでくる。
不思議だった。けれど、不思議なことが嫌ではなかった。
むしろ――。
「……イスズ先生」
レオーネは氷を見つめたまま、小さく笑った。
「明日も、続きを教えてください」
イスズは一瞬だけ目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「もちろんですよ、レオーネ様」
庭には午後の柔らかな風が吹いていた。
その風に乗るように、干された洗濯物が静かに揺れていた。




