第5話 野外授業02
午後の授業は、昼食を挟んで再び庭から始まった。
午前中の授業ですでに、レオーネの表情には明らかな変化が現れていた。
これまでなら、午後になる頃には「まだ授業があるのか」と気が重くなっていたはずなのに、今日は違う。
イスズが次に何を見せてくれるのか。何を教えてくれるのか。そんな期待が、レオーネの瞳に浮かんでいる。
ただし、レオーネに付き従う二人の従者――護衛の騎士と侍女の表情だけは、午前中からほとんど変わっていなかった。
護衛のストリーガと侍女のトレミーとも、いまだにイスズの授業を完全には信用していない。
そんなことは気にも留めず、イスズは再び小さな鍋を用意した。
「では、午後の授業を始めましょうか」
イスズが生活魔法で鍋へ水を満たす。
「午前中にも水について考えましたね。午後は、もう少し身近なところから見てみましょう。水というものは、器に入れれば、その器の形になります」
イスズは鍋を少し傾けた。鍋の縁から流れ出した水が、用意していた机の上へ広がっていく。
「そして、高いところから低いところへ流れていきます」
水は机の上を伝い、その端からぽたり、ぽたりと地面へ落ちていく。
レオーネは、その様子をじっと目で追った。
「……本当だ」
「いつも見ているものでも、改めて見てみると、気づくことがありますね」
レオーネが素直に頷く。イスズは鍋へ視線を戻した。
「では、午前中に見た湯気について、もう一度考えてみましょうか」
「湯気……?」
「はい。あの湯気は、いったいどこから来たのでしょう?」
レオーネは少し考えた。
「……水、ですよね?」
「どうしてそう思いましたか?」
「だって、元は水だったから……」
「なるほど。では、水は消えてしまったのでしょうか?」
「……分かりません」
イスズはすぐには答えを教えなかった。
「では、それをこれから一緒に考えてみましょう」
レオーネは少し不思議そうに鍋を見つめた。けれど、その目にはすでに「知りたい」という色が浮かんでいた。
イスズは次の場所へ向かった。
庭の一角には、洗濯物を干すための場所がある。白い布や衣服が、柔らかな風を受けて揺れていた。
「ここでは、別の水の変化を見てみましょう」
イスズは干されている衣服を指差した。
「侍女の方ならご存じでしょうけれど、洗濯したばかりの衣服は水で濡れていますね」
侍女が頷く。
「ですが、こうして干しておけば、しばらくすると乾きます」
レオーネも洗濯物を見る。
「火で温めているわけではないのに?」
「そうです」
イスズは干された衣服を指先で軽くつまんだ。
「では、ここにあった水は、どこへ行ったのでしょう?」
レオーネは洗濯物を見つめた。
「……消えた?」
「本当に、消えたのでしょうか?」
「……」
レオーネは答えられなかった。
「水がなくなったのなら、どこかへ移ったのかもしれませんね」
「空気の中へ……?」
レオーネが呟く。
「そう考えることもできます」
イスズは頷いた。
「では、本当にそうなのか。どうすれば確かめられるでしょう?」
レオーネは洗濯物を見上げた。
すぐには答えが出ない。けれど、考えることは嫌ではなかった。
「……調べてみたいです」
「はい。では、今度は別のものを使って、もう少し調べてみましょう」
イスズは笑った。そう言って、二人は再び机のある場所へ戻った。
イスズは鍋に水を入れる。そして、地面へ視線を落とした。
「レオーネ様。今度は、この鍋に土を入れてみてください」
「土を……?」レオーネは少し驚いた。
そして、恐る恐る地面へしゃがみ込む。指先で土をつまもうとした、そのときだった。
侍女のトレミーが慌てて声をかける。
「レオーネ様、お待ちください。お召し物が汚くなってしまいます。それに、お手も……」
レオーネの手が止まった。確かに、土を触れば手は茶色くなる。服につけば汚れてしまう。
すると、イスズが穏やかな声で言った。
「土は、汚いものではありませんよ」
トレミーが目を瞬かせる。
「ですが……」
「もちろん、土が付けば手や服は汚れます。それは間違いありません。でも、『土が付いて汚れること』と『土そのものが汚いこと』は、少し違うのです」
イスズは庭の花壇へ目を向けた。
「レオーネ様。あそこにある花も野菜も、土の中で育っていますよね?」
「はい」
「私たちが食べている野菜は、土から養分や水を得て育ちます。野菜にとって土は、眠ったり育ったりする場所でもあります。人間にとっての家や寝床と、少し似ているかもしれませんね」
レオーネは、足元の土を見つめた。
土は、ただ手や服を汚すもの。それが今までのレオーネにとっての「土」だった。けれど、イスズの言葉を聞くと、それだけではないことがわかる。
土がなければ、花や野菜は育たない。野菜がなければ、人は食べるものを得られない。
そう考えると、目の前の土が少し違って見えた。
土で育った野菜は、汚いものではない。土に触れて育つからこそ、野菜は大きくなり、人の食べ物になるのだ。
今まで「汚れるもの」としか思っていなかった土が、実は自分たちの食べ物を育ててくれているものなのだと、レオーネは初めて知った。
「……触っても、いいですか?」
「もちろんです」イスズが微笑む。
レオーネは土をしっかりと手で掴んだ。指の間から土がさらさらとこぼれる。
「……冷たい。ざらざらしています。でも……少し、ふっくらしています」
イスズは嬉しそうに頷いた。
「そうでしょう? 本で見るのと、実際に触ってみるのでは、同じ土でも違って感じませんか?」
レオーネは、自分の手の中にある土を見つめた。
しばらく考えてから、小さく呟く。
「……勉強って、見るだけじゃないんですね」
「ええ」イスズは微笑んだ。
「では、その土を鍋へ入れてみましょう」
レオーネは土を鍋の中へ落とした。
イスズは周囲を見渡すと、花壇の近くに落ちていた枯れ枝を一本拾い上げた。
枝の先は鋭く尖っている。イスズがそのままレオーネの方へ歩み寄った、その瞬間だった。
「イスズ殿! その枝は……!」
護衛の騎士ストリーガが素早く二人の間へ割って入る。腰へ手を添え、いつでもレオーネを庇える姿勢を取った。
ストリーガの視線は、イスズの手に握られた尖った枝へ向いている。
いくらイスズに悪意がないと分かっていても、貴族家の嫡男へ尖ったものを向けたまま近づかせるわけにはいかない。
しかしイスズは慌てることなく足を止めた。自分の手元へ視線を落とし、枝の先端を見る。
「ああ、そういうことですか。申し訳ありません。これは確かに危ないですね」
イスズは枝を横向きに持ち替えた。
「レオーネ様に危害を加えるつもりはありません。この枝で鍋をかき混ぜてもらおうと思っただけです」
ストリーガはなおも警戒している。
「ですが、警戒してくださってありがとうございます」
イスズは枝の尖った先を自分とは反対側へ向け、持ち手の方をレオーネへ差し出した。
「では、レオーネ様。こちらを持ってください。鍋の中をかき混ぜてみましょう」
レオーネは護衛の方をちらりと見た。
ストリーガが頷く。それを確認してから、レオーネは枝を受け取った。
そして鍋の中へ入れ、ゆっくりとかき混ぜ始めた。
水が、みるみるうちに茶色く濁っていった。
「わぁ……!」
レオーネが目を輝かせる。
「水の色が変わりました!」
イスズは頷いた。
「そうですね。水には、いろいろなものを溶かしたり、細かなものを混ぜたりする性質があります」
「土もですか?」
「土のすべてが水に溶けたわけではありませんよ」
イスズは鍋の中を指差した。
「例えば塩を水へ入れれば、塩は水の中に溶けて見えなくなり塩辛くなります。砂糖なら甘くなります。でも、砂や土のように、水に溶けないものもあるんです」
「全部が溶けるわけではない……」
「その通りです。では、水に溶けるものと、溶けないものには何があるでしょう?」
イスズは少し笑った。「それは、これからレオーネ様自身で探してみましょうね」
「はい!」
レオーネの返事には、もう以前のような気だるさはなかった。
むしろ、次に何が出てくるのかを待ちきれない様子だった。




