第4話 野外授業01
「おはようございます、レオーネ様。本日からよろしくお願いいたします」
明るい声とともに、イスズが部屋へ入ってきた。その背中には、見慣れないリュックが揺れている。レオーネと、いつも付き添っているストリーガやトレミーは、思わず顔を見合わせた。
家庭教師が背負ってくるには、あまりにも場違いな荷物だった。だが、それ以上に目を引いたのは、イスズの身なりだった。
今日も質素な服に身を包み、胸元には木製のブローチ、髪には手製の竹飾りをつけている。
レオーネたちにとっては、昨日も見た姿である。だから、特に驚くこともなかった。
しかし、この部屋を担当する侍女たちにとっては違った。イスズを見るのは、今日が初めてだったのだ。
その姿を見た侍女の一人が、思わず口元を押さえ、くすりと笑った。
イスズにも、それは聞こえていた。
けれど、気にする様子はない。自分の服装を見下ろすこともなく、そのままレオーネへ歩み寄ると、にこりと優しく微笑んだ。
「今日は、とても良い天気ですね。レオーネ様」
レオーネは返事をするより先に、イスズの背負っているリュックへ視線を向けた。
「……それ、何ですか?」
「これですか? 今日のお勉強に使うものが入っています」
イスズは背負っていたリュックを軽く叩いた。
「……勉強?」レオーネが不思議そうに首を傾げる。
イスズは笑った。
「はい。昨日、お約束しましたでしょう? 今日は、庭へ行きましょう」
そう言って、窓の外へ目を向ける。その顔には、これまでの家庭教師たちにあった厳しさも、呆れた様子もない。
「……よろしくお願いします」
レオーネも小さな声で返事をする。少し緊張していた。
新しい先生も、きっと今までの先生と同じなのだろう。そう思っていた。けれど、昨日のことを思い出すと、その考えに少しだけ迷いが生まれた。
イスズは、これまでの先生たちとは何か違っていたように感じたのだ。
もしかしたら、今度の先生は違うのかもしれない。そんな小さな期待を、レオーネは胸の奥に抱いていた。
けれど、イスズが向かったのは、やはり教室ではなく庭だった。
教科書を開くのではないのか。机に向かうのではないのか。
レオーネが戸惑う一方、その後ろでは、護衛騎士のストリーガと侍女のトレミーも、その様子を見て困惑した表情を浮かべた。
家庭教師の授業といえば、普通は部屋の中で行うものだ。庭へ出るなど、二人とも聞いたことがない。
イスズはそんな二人の困惑も気にせず、そのまま庭へ出た。
「家の中にずっと閉じこもっていても、面白くありませんからね」
イスズは柔らかな日差しを見上げた。
「今日は幸いにも暖かく、過ごしやすい日です。この庭でお勉強をしましょう」
「イスズ……先生、あの……ペンや紙がありませんけど……」
レオーネは少し戸惑いながら尋ねた。
するとイスズは、くすりと笑った。
「今日は必要ありませんよ。というより、これからの授業でも、あまり使わないかもしれませんね」
そう言って笑うイスズに、後ろに控えていた二人の従者は思わず苦い顔をした。
勉強とは、机に向かい、本を読み、文字を書き、知識を覚えるもの。それが彼らの常識だったからだ。
しかし、イスズがまず向かったのは井戸だった。桶いっぱいに水を汲むと、それを持ってきた小さな鍋へ注ぐ。
「まずは、水について考えてみましょう」
そう言うと、イスズは生活魔法で小さな火を起こした。鍋の下で火が揺らめき、やがて水が少しずつ温まり始める。しばらくすると、鍋から白い湯気が立ち上った。
イスズはその様子を眺めながら、湯気へ手を近づける。
「熱いので、気をつけてくださいね」
すると、指先が少しずつ濡れていく。
「……?」
レオーネが不思議そうに見つめていると、イスズは彼へ振り返った。
「レオーネ様も、ここへ手をかざしてみてください」
「危険では――」
ストリーガとトレミーが慌てて近づこうとするが、イスズは目で制した。
「大丈夫です。近づけすぎなければ問題ありません」
レオーネは恐る恐る手を伸ばし、少し離れたところから湯気へ手をかざした。しばらくすると、手のひらがじわりと湿っていく。
「……あ、濡れて……います」
「そうですね」
イスズは微笑むと、今度は別の鍋を用意した。そこへ生活魔法で水を注ぎ込み、短く呟く。
次の瞬間、鍋の中の水が一瞬で白く変化して氷になった。
「……っ!」ストリーガとトレミーが思わず息を呑む。
しかし、イスズは二人の反応を気にすることなく、その氷をレオーネへ差し出した。
「触ってみてください」
レオーネが恐る恐る指を伸ばす。
「氷……冷たい。本当に……冷たいです」
目を丸くするレオーネに、イスズは楽しそうに笑った。
「そうでしょう? では、先ほどの水と、この氷を比べてみましょうね」
今度は氷の入った鍋を再び火にかける。すると、氷は少しずつ形を失い、水へと変わっていった。さらに温め続けると、やがて白い湯気が立ち上り、鍋の中の水は少しずつ減っていく。
レオーネは黙ったまま、その一連の変化を見つめていた。
「レオーネ様、これを不思議だと思いませんか?」
そう尋ねられても、レオーネはすぐには答えられなかった。
不思議だった。
なぜ水は徐々に消えていくのか。なぜ湯気になるのか。なぜ冷たくすると固まるのか。聞きたいことはいくらでも浮かんでくる。
けれど、今までの先生たちの反応が頭をよぎった。
質問をすれば、また嫌な顔をされるのではないか。そう思うと、口を開くことができなかった。
そうしているうちに、午前の授業は終わった。
これまでの授業とは、何もかも違っていた。紙に書くこともなければ、覚えろと言われることもない。ただ見て、触れて、考える。それだけだった。
まだ、イスズがこの授業で何を教えようとしているのか、レオーネには分からない。
けれど――胸の奥には、久しぶりに「もっと知りたい」という気持ちが芽生えていた。
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