第3話 最初の授業
そんな中――。
「おはようございます。レオーネ様。本日からよろしくお願いいたします」
明るい声とともに、イスズが部屋へ入ってきた。イスズはレオーネの顔を見ると、にこりと優しく微笑んだ。
その表情には、これまでの家庭教師たちが見せていた厳しさも、呆れた様子もない。
「……よろしくお願いします」レオーネも小さな声で返事をした。
新しい家庭教師。どうせ、今までと同じだろう。教科書を開いて、先生の話を聞く。
言われたことを紙に書く。分からないことがあっても、授業が終わるまでは黙っている。
それが終われば、また次の日も同じことの繰り返し。
そう思っていた。
ところが――。
「では、今日は初めての授業ですから、まずは少しお話をしましょう」
イスズは、まるでこれから楽しいことを始めるかのように明るく言った。
「……お話?」
「はい。せっかく初めてお会いしたのですから、いきなり教科書を開くより、まずはお互いのことを知った方がいいでしょう?」
そう言うと、イスズは部屋に控えていた侍女のトレミーへ顔を向けた。
「申し訳ありませんが、お茶とお菓子をいただけますか?」
「……はい?」
侍女が思わず聞き返した。
その隣に控えていた護衛騎士のストリーガも、わずかに眉をひそめていた。
家庭教師として招かれたというのに、イスズはいまだ教科書を開こうともせず、ノートや筆記具を用意する様子もない。それどころか、授業を始める気配すらなく、平然と茶と菓子を頼んでいる。
レオーネもまた、そんなイスズを前にして戸惑ったような顔をしていた。
これまでの教師たちとは、あまりにも違う。イスズを見つめるレオーネの顔には、そんな困惑がありありと浮かんでいた。
しかし、イスズは気にする様子もなく、レオーネの向かいに腰を下ろした。
やがて、お茶と菓子が運ばれてくる。イスズは自分の分を一口飲むと、向かいに座るレオーネへ目を向けた。
「どうぞ。レオーネ様も、よろしければ召し上がってください」
そう促すと、レオーネはちらりと菓子へ目を向けたものの、すぐに首を横に振った。イスズは無理に勧めることなく、もう一度ゆっくりとお茶を口にしてから言った。
「では、レオーネ様。何か好きなものはありますか?」
「……特に、ありません」
「そうですか」
イスズは無理に答えを引き出そうとはしなかった。
「では、お勉強はどうですか?」
「……嫌いです」
今度は、はっきりとした返事だった。
「どうして嫌いなのですか?」
レオーネは答えようとして、ふと窓の外へ目を向けた。
庭を一羽の小鳥が横切っていく。その姿を目で追ってから、ようやく口を開いた。
「先生が言ったことを書くだけだから……つまらないです」
イスズは頷いた。
「では、何が一番嫌いですか?」
「先生が話していることを、ずっと書くことです」
「書くことそのものが嫌いなのですか?」
レオーネはそこで言葉を止めた。指先が、机の端をなぞっている。
「そうじゃなくて……分からないことがあるのに、先に進んでしまうから……」
イスズの表情が、ほんの少し変わった。
「分からないことがあると、どうするのですか?」
「……何もしません」
「質問はしないのですか?」
「先生に聞いても……後で、と言われます」
「その『後で』というのは?」
レオーネは少し考えた。「だいたい、そのままにされてしまいます」
「まあ……それは困りましたね」イスズは思わず苦笑した。
レオーネが、ほんの少しだけ顔を上げる。
「では、私の授業では、分からないことがあったら途中でも聞いてくださいね」
「……途中でも?」
「はい。むしろ、分からないまま黙っている方が困ります」
「でも……授業が止まってしまいます」
「止まってもいいではありませんか」
イスズは笑った。
「先生が話すための授業ではなく、レオーネ様が分かるための授業なのですからね」
その言葉に、レオーネの口元がほんの少し緩んだ。今日初めて見せた笑顔だった。イスズはそれを見逃さなかった。
「では、お勉強以外では、何をしている時が楽しいですか?」
「……窓から外を見ることです」
「何を見ているのです?」
レオーネは少し考えてから答えた。
「庭とか……鳥とか……あと、雨」
「雨が好きなのですか?」
「はい」今度は、顔を上げた。
「雨が降ると、庭の水が流れていくでしょう? 水たまりができたり、そこからまた流れていったり……」
レオーネの声が、次第に大きくなっていく。
「雨が止んだら水たまりがなくなっていくのも不思議で……どうしてなんだろうって」
「なるほど」イスズは静かに頷いた。
すると、レオーネがふと思いついたように言った。
「先生、雨って、どうして空から降ってくるんでしょう?」
イスズはすぐには答えなかった。
「どうしてだと思いますか?」
「……分かりません」
「では、今のところは分からなくて大丈夫です」
「……?」
「分からないからこそ、考えることができますから」
イスズは微笑んだ。
「明日、庭に出てみましょうか。雨が降っていなくても、何か分かるかもしれませんよ」
「……雨が降っていなくても?」
「ええ。答えは一つとは限りませんからね」
それをきっかけに、レオーネは次第に自分から話すようになった。最初は短い返事ばかりだったが、一つ話し始めると、次第に自分から話すようになっていく。
「分からないことがあると、先生に聞きたいんです。でも、そう思っていると授業がどんどん先に進んでいくんです」
「ええ」
イスズは口を挟まず、黙って続きを促した。
「でも、分からないことをそのままにしていると、ずっと気になってしまって……。そうすると、その先の話が耳に入らなくなるんです。そうしていると、また新しい疑問が出てきて……」
レオーネは、そこで一度言葉を止めた。しかし、すぐに続ける。
「それで、その疑問を考えていると、また別の疑問が出てきて……。それで、またそれを考えて……」
言葉がどんどん早くなる。
「気がついたら、先生の話が全然分からなくなっています」
イスズは黙ってレオーネを見つめた。
――なるほど。レオーネは、物覚えが悪いわけではない。
少なくとも、今の話を聞く限りではそうではなかった。むしろ、一つのことを聞くと、その先まで考えてしまう。
分からないことをそのままにできず、そこへ意識が引っ張られてしまう。その間にも授業は先へ進み、さらに分からないことが増えていく。
そして、とうとう最初に聞いていた話そのものが分からなくなる。
――この子は、勉強が嫌いなのではない。イスズは、そう思った。
――今までの教え方が、この子に合っていなかったのだ。だが、話を交わすうちに、イスズは別のことにも気づき始めていた。
会話を続けながら、レオーネの様子を注意深く観察する。
レオーネは、ほとんどイスズの顔を見ない。
視線は窓の外へ向かったかと思えば、机の上へ移り、今度は部屋の隅へ向かう。まるで、視界に入るもの一つひとつが気になって仕方がないようだった。
そしていつの間にか、指先には小さな物が握られている。
よく見ると、いつの間に拾ったのか、小さなボタンを指先で弄んでいた。くるくると回してみたり、指の間で転がしたりしている。
また、椅子の下では足が小さく揺れ続けていた。イスズが話している途中でも、何かを思いつくとすぐに口を挟む。
「それで――」「先生、それって――」「でも、そうなると――」
話が何度も横道へ逸れる。しかし、イスズは止めなかった。
むしろ、そのまま話させた。すると、また一つ気づくことがあった。
レオーネは、イスズの言葉を聞いていないわけではなかった。イスズが少し前に口にした言葉も、きちんと覚えている。ただ、その途中で別のことに意識が移ってしまうのだ。
「……なるほど」イスズが小さく呟いた、その時だった。
レオーネがふと机の上へ手を伸ばした。指先がコップに触れた瞬間――
「あっ、も、申し訳ありません!」
ガシャッ、と音を立ててコップが倒れ、茶が机の上へこぼれた。
レオーネが慌てて立ち上がる。侍女のトレミーがすぐに駆け寄ろうとしたが、イスズは手を上げて制した。
「大丈夫ですよ、レオーネ様。火傷はありませんか?」
「……はい」
「それなら大丈夫です」
イスズは穏やかに微笑んだ。怒ることも、叱ることもない。ただ、何事もなかったかのように振る舞った。
レオーネは少し不思議そうにイスズを見つめたが、やがてまた俯いた。
その様子を見ながら、イスズは考えた。
この子を一つの場所に座らせ、長い時間じっと話を聞かせるだけでは、おそらく難しい。けれど、話を聞いていないわけではない。むしろ、興味を持ったことには驚くほど深く入り込んでいく。
だったら、机の上だけで教える必要はない。
イスズは窓の外へ目を向けた。そこには広い庭がある。土があり、水があり、木があり、風がある。本なら何ページも使って説明しなければならないことでも、実際に見せればすぐに理解できるものは多い。
実際に見て触れれば、きっとたくさんの疑問を持つだろう。その疑問を一つずつ拾っていけばいい。
イスズは小さく微笑んだ。
「レオーネ様、明日の授業ですが、少し場所を変えてみませんか?」
「どこへ?」
イスズは窓の外を指した。
「庭ですわ。せっかくこんなに広い庭があるのですから、部屋の中だけでお勉強するのは、もったいないでしょう?」
レオーネは少しだけ目を丸くした。
「……何をするんですか?」
イスズは笑った。
「それは、明日のお楽しみです。ふふっ」
「……?」
レオーネは首を傾げたものの、その声には先ほどまでの嫌そうな響きはなかった。
初めての授業は、それで終わった。結局、レオーネがイスズの顔を真正面から見ることは一度もなかった。それでも、イスズには十分だった。
この子には、「もっと知りたい」という気持ちがある。
ただ、それを引き出す授業を、今まで誰もしてこなかったのだ。
イスズは、そう確信していた。
そしてレオーネ自身も、まだ気づいてはいなかった。
明日の授業が、これまでの勉強とはまったく違うものになることを。
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