第83話 レオーネの後悔
午後の授業は、終始、レオーネが上の空だった。
イスズが説明する魔法の理論も、机の上に広げられた資料の内容も、頭に入ってこない。目の前の文字を追っているつもりでも、気がつけば昨日の野盗との戦いが脳裏によみがえっていた。
レオーネは、これまで自分なりに努力してきたつもりだった。
以前の家庭教師たちの授業は、何を説明されてもよく理解できなかった。わからないことを質問しても、難しい言葉で説明されるばかりで、結局、教科書を暗記するしかなかった。それでも、勉強ができないのは自分の頭が悪いからなのだと思い、必死に食らいついてきた。
そんな自分に対して、周囲から陰口が聞こえてくることもあった。長男なのに、次男のソルテラよりも出来が悪い。跡継ぎとして、本当に大丈夫なのだろうか。
そんな言葉を耳にするたび、レオーネは悔しさを押し殺してきた。
しかし、イスズが家庭教師になってから、状況は大きく変わった。
彼女の授業は、それまでの教師たちとはまるで違っていた。難しい理論も身近な例に置き換えて説明してくれるため、今まで理解できなかったことが少しずつわかるようになった。わからないことを質問すれば、納得できるまで教えてくれる。何より、学ぶことそのものが面白いと感じられるようになったのだ。
武術や魔法の訓練も同じだった。イスズは自分の実力に合わせて指導してくれた。そのおかげで、以前とは比べものにならないほど上達したという実感もあった。
だからこそ、昨日の戦いはショックだった。
実際に野盗と対峙したとき、レオーネは周囲の状況を把握することもできず、ただ焦って魔法を放った。アージの後ろから放った風の魔法は、敵にあっさりといなされ、かろうじて頬をかすめただけだった。
それなのに、周囲からは勇敢に戦ったと褒められる。
自分がどれほど何もできなかったのか、誰よりも自分自身がわかっていた。そんな自分が褒められるたび、胸の奥が重くなった。
そして、何よりも悔しかったのは、イスズとの実力差だった。
あれほど多くの野盗を相手に、イスズはほとんど一人で圧倒してしまった。自分が必死になって放った魔法とは違い、彼女の動きには迷いがなかった。戦況を見極め、必要な行動を瞬時に判断し、次々と敵を無力化していく。
自分も、あんなふうになりたい。イスズを守れるほど強くなりたい。彼女の隣に立ち、一人の男として認めてもらいたい。
そう思っていたはずなのに、実際には守られるどころか、彼女に助けられてばかりだった。
しかも、イスズの功績は周囲に正しく伝わっていない。ストリーガやアージが活躍したことになり、自分まで戦いに貢献したと受け取られている。
このままでは、イスズがどれほどの働きをしたのか、誰にも知られないままになってしまうのではないか。
かといって、自分から真実を話せば、周囲が褒めている自分の働きが実際には大したものではなかったと認めることになる。それもまた、情けなかった。
何をどうすればいいのか、自分でもわからない。そんな悶々とした気持ちを抱えていたところへ、ソルテラがやってきた。
弟は無邪気な笑顔を浮かべながら、自分のことを褒めてくれた。そして、昨日の戦いについて、目を輝かせながら何度も尋ねてきた。
悪気がないことはわかっていた。むしろ、自分のことを誇らしく思ってくれているのだろう。
それなのに、どうしても耐えられなかった。自分でも整理できていない感情を、あの無邪気な笑顔に向けられたことで、とうとう抑えきれなくなってしまったのだ。
『うるさいな!』
怒鳴った瞬間の、ソルテラの驚いた顔が頭から離れない。
どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。後悔するたび、胸が締めつけられるようだった。
「では、今日の勉強はこれでおしまいにしましょうね」
イスズの声に、レオーネははっと顔を上げた。いつの間にか、授業が終わっていたらしい。
結局、午後の授業はほとんど進まなかった。イスズもレオーネの様子がおかしいことには気づいていたが、今日はいつものように問いかけたり、考えを促したりすることはせず、必要な説明だけをしていた。
「……ありがとうございました」
レオーネは、いつもより小さな声で礼を言った。
イスズは資料をまとめながら、ちらりとレオーネに目を向けた。
今日のレオーネは、明らかに様子がおかしい。昼間、ソルテラに怒鳴ってしまったことを気にしているのだろう。イスズに対しても、どこか気まずそうにしている。
魔法の授業中も、同じ箇所を何度も読み直していた。集中できていないのは明らかだったが、無理に話を聞き出すつもりはなかった。
「レオーネ様、今日はずいぶんと手が止まりましたね」
「……別に」
珍しく、レオーネが少し反抗的な口調で答えた。
イスズは気にした様子もなく、机の上の資料を指で軽く叩いた。
「そうですか。では、先ほどから私がまとめた資料の同じ箇所を三度も読み直しているのは、何か深い考えがあってのことなのですね?」
レオーネは言葉に詰まった。
「それとも、私のまとめ方が悪かったのでしょうか。だとしたら、今後の参考にしたいので、ぜひご意見を聞かせていただきたいのですが」
「そういうわけじゃありません!」
思わず声を上げてから、レオーネは気まずそうに口を閉じた。
イスズは小さく笑った。
「それならよかったです」
それ以上、追及することはなかった。
イスズが資料を片づけ始めたのを見て、レオーネはかえって落ち着かなくなった。話を聞いてほしいわけではない。けれど、このまま何も言わずに終わってしまうのも、どこか違う気がした。
しばらく迷った末、レオーネはぽつりと口を開いた。
「……イスズ先生。昨日のことなのですが……」
イスズは手を止め、レオーネに向き直った。
「野盗との戦いのことですか?」
レオーネは膝の上で拳を握った。
「僕は、もっとできると思っていたんです。これまで、イスズ先生に教えてもらって、勉強も魔法も武術も、ずいぶん上達したと思っていました。以前はわからなかったことも理解できるようになりましたし、魔法だって、前よりずっと上手く使えるようになったと思っていたんです」
そこで言葉を切り、レオーネは視線を落とした。
「でも、実際に戦ってみたら、何もできませんでした」
イスズは口を挟まず、続きを待った。
「周囲の状況もよく見えなくて、何をすればいいのかもわからなくて……焦って魔法を放ったら、簡単にいなされました。相手の頬を少しかすっただけです。あんなもの、攻撃と呼べるのかどうかもわかりません」
言葉にするほど、昨日の自分の情けなさが鮮明によみがえってくる。
「それなのに、皆は僕が活躍したと言うんです。ストリーガさんやアージさんが敵を倒したことは聞いていても、イスズ先生がどれだけ戦ったのか、きちんと知っている人はほとんどいないのでしょう?」
「そうですね。私も、あまり目立ちたいとは思っていませんでしたから」
イスズはあっさりと答えた。
レオーネは顔を上げた。
「でも、それでは……」
言いかけて、口をつぐむ。
イスズの功績が正しく伝わってほしい。そう思う一方で、自分が何もできなかったことを知られるのも怖い。褒められるのは苦しいのに、真実を明らかにする勇気もない。
そんな自分が、ますます嫌になった。
「……僕は、何をしていたんでしょうね」
イスズは、すぐには答えなかった。
レオーネが抱えているものは、昨日の戦いで味わった悔しさだけではないのだろう。これまでの努力や周囲からの評価、そして自分自身への期待。そのすべてが、昨日の出来事をきっかけに揺らいでしまったのだ。
イスズは、静かに尋ねた。
「なるほど。それで、悔しいのですね」
レオーネは、少しだけ顔をこわばらせた。
「……悪いでしょうか」
「いいえ。悔しいと思えるのは、悪いことではありませんよ」
思いがけず穏やかな返事が返ってきて、レオーネは戸惑った。
イスズは、そんな彼を見つめながら続けた。
「自分が思っていたほどできなかった。もっとできると思っていたのに、実際には何もできなかった。だから悔しい。そういうことですよね? それなら、その気持ちは大切にしたほうがいいと思います」
「大切に……?」
「ええ。悔しいということは、レオーネ様がもっとできるようになりたいと思っている、ということでしょう?」
レオーネは答えられなかった。確かに、そうなのかもしれない。けれど、今は悔しさばかりが先に立ち、どうすればいいのかまるでわからなかった。
イスズは椅子に腰を下ろし、レオーネと目線を合わせた。
「では、一つ聞いてもよろしいですか? レオーネ様は、昨日の戦いで怖くなかったのですか?」
レオーネは意外そうに目を瞬かせた。
「怖かったですよ。相手は大勢いましたし、何をしてくるのかもわかりませんでしたから」
「そうでしょうね。それでも、魔法を放ったのですよね?」
「……何とかしなければと思ったんです。僕だって、何かしなければと……」
「誰かを守りたかったからですか?」
その問いに、レオーネは言葉を詰まらせた。
あのとき、目の前にいたのはアージやトレミーたちだった。そして、イスズもいた。自分が何とかしなければ。そう思ったのは確かだ。
「……はい」
ようやく答えると、イスズは微笑んだ。
「それなら、そこは誇っていいことだと思いますよ」
「でも、僕は何もできませんでした」
イスズは、はっきりと言った。
「それは、また別の話です。怖くても、何とかしようと思った。それ自体は、立派なことです。ただし、気持ちだけでは戦いには勝てません。実際に何ができるのか、何をすればいいのか。それを考えて、訓練していく必要があります」
レオーネは、黙ってイスズの話を聞いていた。
「レオーネ様は、昨日の戦いで何ができなかったのか、もうわかっているのでしょう?」
「……周りを見る余裕がありませんでした。それに、相手がどう動くのかも考えられなくて、ただ焦って魔法を放ってしまいました」
「はい。では、これから何をすればいいのかも、少しずつ見えてくるのではありませんか?」
「それは……」
レオーネは考え込んだ。もっと周囲を見ること。相手の動きを予測すること。焦らずに状況を判断すること。
言葉にしてみれば、当たり前のことばかりだった。しかし、実際の戦闘では、その当たり前のことが何一つできなかったのだ。
「……訓練を、もっとしなければいけないということでしょうか」
「そうですね。ただ、闇雲に訓練すればいいというわけでもありません。何ができて、何ができなかったのか。それを振り返り、改善していくことが大切です」
イスズは少し考えてから、言葉を続けた。
「それから、レオーネ様。一つ、誤解していらっしゃることがあるようです。私が強かったから、レオーネ様は何もできなかった。そう考えていらっしゃるのなら、それは少し違います」
レオーネは、思わず顔を上げた。
「どう違うんですか?」
「私があの場で戦えたのは、私に戦う力があったからです。レオーネ様が私と同じことをできなかったからといって、それが何だというのでしょう?」
イスズは、不思議そうに首を傾げた。
「私はレオーネ様の家庭教師です。レオーネ様より強いからといって、それが恥ずかしいことだとは思いません。むしろ、私より強くなっていただければ、教師としては嬉しい限りですけれどね」
「……僕が、イスズ先生より強くですか?」
「ええ。そうなったら、教え子の成長を喜べますから」
イスズは、いつもの調子で笑った。
その言葉に、レオーネは目を見開いた。
自分は、イスズとの実力差ばかりを考えていた。あれほど強い彼女に守られた自分は情けない。彼女の足元にも及ばない自分は、何をやっても駄目なのではないか。
そんなことばかり考えていた。けれど、イスズは自分と比較して優劣を決めようとしているわけではなかった。
自分が強いことを誇るのでもなく、レオーネが弱いことを責めるのでもない。ただ、もっと強くなってほしいと言っているのだ。
「……本当に、そう思っているんですか?」
「もちろんです。教え子が成長してくれたら、教師としては嬉しいものですよ」
イスズは、少しだけいたずらっぽく笑った。
「ただし、私を超えるとなると、なかなか大変だと思いますけれどね」
レオーネは思わず顔をしかめた。
「そこは、もう少し励ましてくれてもいいでしょう!」
「あら。私は十分に励ましているつもりなのですが」
「全然、そうは聞こえません!」
「それは困りましたね。では、もっと頑張っていただくことにしましょう」
イスズが楽しそうに笑う。
レオーネは呆れたように息を吐いたが、先ほどまで胸の中を占めていた重苦しさは、ほんの少しだけ薄らいでいた。
「……僕は、イスズ先生を守れるようになりたいんです」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
イスズは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
レオーネ自身も、口にしてから自分の言葉に気づいたらしい。頬を赤くし、慌てて言い足した。
「い、いえ! その、昨日のようなことがあったときに、何もできないのは嫌なんです。守られてばかりではなく、自分でも何かできるようになりたいというか……」
言い訳するように言葉を重ねるレオーネを、イスズは微笑ましそうに見つめていた。
「それは頼もしいですね」
「……本当ですか?」
「ええ。でも、まずは自分の身を守れるようになってくださいね。自分が倒れてしまったら、誰かを守るどころではありませんから」
「……わかっています」
レオーネは少し不満そうに答えたが、その表情には先ほどまでの沈んだ色はなかった。
イスズは立ち上がり、まとめた資料を手に取った。
「それでは、明日からの魔法や武術の授業では、実戦を意識した訓練も取り入れていきましょうか」
「実戦の訓練ですか?」
「はい。魔法の知識を覚えることと、実際に使えることは別ですからね。昨日の経験を無駄にしないためにも、何ができて、何ができなかったのか、一緒に考えてみましょう」
「……僕にも、できるようになると思いますか?」
レオーネの声には、まだわずかな不安が残っていた。
イスズは、迷うことなく頷いた。
「もちろんです。ただし、私と同じ戦い方を身につける必要はありません。レオーネ様には、レオーネ様に合った戦い方があるはずですから」
レオーネは、しばらくイスズを見つめていた。
これまで、周囲からは自分が長男であることを理由に、弟より優れていることを求められているように感じていた。自分自身も、そうでなければならないと思っていた。
けれど、イスズは違う。
自分にできないことがあるのを認めたうえで、これから何ができるようになるのかを考えさせてくれる。
昨日の戦いで何もできなかったことは、変えようのない事実だ。それでも、これから何もできないままでいる必要はないのだ。
「……ありがとうございます、イスズ先生」
レオーネは、今度こそ心から礼を言った。
イスズは笑顔で頷いたあと、ふと思い出したように口を開いた。
「それから、ソルテラ様には謝っておいたほうがよろしいかと思いますよ」
「……わかっています」
レオーネは、途端に気まずそうな顔になった。
「でも……どんな顔をして謝ればいいのか、わからないんです」
昼間のソルテラの顔が、また脳裏によみがえった。
自分を褒めようとしてくれた弟に、あんな言い方をしてしまった。謝らなければいけないことはわかっている。けれど、いざ本人を前にすると、どうしても言葉が出てこないような気がした。
イスズは、くすりと笑った。
「おや。ずいぶん素直ですね」
「なっ……! だ、だって!」
「難しく考えすぎですよ。ソルテラ様は、レオーネ様が皆さんに褒められたので、それが誇らしく嬉しかったから、昨日のことを聞いてきたのでしょう?」
「それは……そうだと思いますけど」
「でしたら、素直に謝ればよろしいのではありませんか。きっと、ソルテラ様も安心なさると思いますよ」
レオーネは、少し考えてから頷いた。
「……そうですね。明日、謝ってみます」
「はい。それがよろしいと思います」
イスズは満足そうに頷き、扉のほうへ向かった。
「それでは、今日はこれで失礼しますね。明日からは、しっかり訓練していきましょう」
「はい。よろしくお願いします、イスズ先生」
レオーネは、いつもよりも少しだけ晴れやかな顔で答えた。
イスズが部屋を出ていくと、レオーネは机の上に広げられた資料に目を落とした。
昨日の戦いを思い出せば、今でも悔しさは込み上げてくる。イスズとの実力差が、すぐに埋まるわけでもない。
それでも、何をすればいいのか、ほんの少しだけわかった気がした。
まずは、昨日の自分が何をできなかったのかを考えよう。そして、一つずつできることを増やしていけばいい。
いつか、イスズを守れるほど強くなるために。
レオーネは、今日の授業ではほとんど頭に入らなかった資料を、今度こそ真剣に読み始めた。




