第82話 レオーネの苛立ち
フローリアンとソルテラが部屋の前に着くと、ソルテラが扉をノックした。
「どうぞ」
中から返事があり、トレミーが扉を開けた。
「ソルテラ様、フローリアン先生。いらっしゃいませ」
「お邪魔します!」
にこにこと笑いながら入ってきたソルテラに続き、フローリアンも部屋へ足を踏み入れた。
レオーネは机に向かい、魔法の勉強をしているところだった。扉のそばには、いつものように護衛騎士のストリーガが控えている。
ソルテラは部屋に入るなり、弾んだ声を上げた。
「レオーネ兄上! 聞きましたよ! 昨日は野盗を相手に大活躍したそうですね!」
レオーネの手が止まった。顔を上げた彼は、苦いものを噛み潰したような表情を浮かべた。扉のそばに立つストリーガも、なんとも言えない顔をしている。
二人の不自然な反応に、フローリアンは首を傾げた。しかし、興奮しているソルテラは気づかなかった。
「昨日は実地研修の帰りに野盗に襲われたのでしょう? それなのに、皆さん無事だったと聞きました。兄上も魔法で敵を傷つけて、捕縛を手助けしたとか!」
「………うん」
レオーネは短く答え、手元のペンを置いた。
ソルテラは兄の向かいに腰を下ろすと、目を輝かせて尋ねた。
「それで、どんな魔法を使ったのですか? 相手は大勢いたのでしょう? 兄上はどうやって戦ったのですか?」
「別に、大したことはしていないよ」
「えっ、でも、野盗の副首領に魔法を当てたのでしょう? すごいじゃないですか!」
レオーネは答えず、視線を机の上に落とした。
ソルテラは不思議そうに首を傾げたが、すぐにストリーガへと顔を向けた。
「ストリーガ殿! ストリーガ殿だけで、挟み撃ちにしようとした野盗五人をあっという間に倒したのですよね? それから、先に行っていたアージ殿が十人を相手にしているところへ合流して、皆を守りながら野盗を捕らえたと聞きました。僕の護衛たちも、二人の働きはすごいと褒めていましたよ!」
「はぁ……まあ、そのようなところです」
ストリーガは曖昧に答えた。
「やっぱり、すごいですね! それだけの人数を相手にして、誰も怪我をしなかったなんて!」
「……いえ。私一人の働きというわけではありませんので」
ストリーガはそれ以上、話を広げようとはしなかった。
フローリアンは二人の様子を静かに見守っていた。
ソルテラは純粋に感心しているだけだ。兄を尊敬しているからこそ、昨日の戦いについて詳しく知りたいのだろう。けれど、レオーネもストリーガも、どうにも話したがらないように見える。
何か、触れてほしくない事情でもあるのだろうか。
フローリアンがそう考えていると、ソルテラは再び兄に向き直った。
「それで、兄上はどんな魔法を使ったのですか? 相手の動きを止めたのですか? それとも、攻撃魔法で倒したのですか?」
「だから、大したことはしていないと言っているだろう」
レオーネの声に、わずかな苛立ちが混じった。だが、ソルテラはそれを深刻には受け取らなかった。
「でも、兄上も戦ったのでしょう? どんな魔法を使ったのか、教えてくださいよ!」
その言葉に、レオーネの表情が強張った。
昨日の光景が脳裏によみがえる。
野盗たちに囲まれたとき、レオーネは必死に魔法を放った。少しでも皆を守ろうとし、実際に副首領の頬に傷を負わせることもできた。
けれど、それだけだった。自分がどうにかしなければならないと思っていたのに、戦況を支配していたのは自分ではなかった。イスズは迷いなく野盗たちを圧倒し、次々と無力化していった。あまりの強さに驚き、彼女が自分の家庭教師であることを誇らしく思ったのも事実だ。
しかし、戦いが終わってみれば、自分はほとんど何もできず、イスズや護衛たちに守られていた。彼女を守るどころか、逆に助けられたのだ。
それなのに、周囲は自分のことまで勇敢だと褒めている。実際には、敵の頬に小さな傷を負わせた程度の働きしかできなかったというのに。
そのことを思い返すたび、情けなさが込み上げてきた。
「兄上?」
黙り込んだレオーネを、ソルテラが不思議そうに覗き込む。
「どうしたのですか? もしかして、まだ疲れているのですか?」
「……違う」
「それなら、昨日のことを教えてくださいよ。僕、兄上がどんなふうに戦ったのか、知りたいんです!」
悪気がないことはわかっていた。
ソルテラは兄を褒めたいだけなのだ。自分のことのように喜び、もっと話を聞きたいと思っている。それはレオーネにも伝わっていた。
だからこそ、余計につらかった。
「うるさいな!」
レオーネは思わず声を荒らげた。
ソルテラが驚いて口を閉じる。フローリアンも目を見開き、ストリーガは静かに視線を落とした。
「勉強の邪魔だから、出て行ってくれ!」
部屋に、気まずい沈黙が落ちた。
ソルテラはびくりと肩を震わせた。兄の活躍が誇らしく、嬉しかったので、昨日のことを聞こうとしただけだった。それなのに、なぜ怒鳴られたのか、まるでわからない。戸惑った表情でレオーネを見つめている。
「申し訳ありません、ソルテラ様。レオーネ様は昨日の今日で、かなりお疲れのようです」
見かねたイスズが、ソルテラに向かって頭を下げた。
「そう、ですね……。兄上、お邪魔してすみませんでした」
ソルテラは困惑したまま立ち上がった。兄を怒らせるつもりなどなかっただけに、どうしてよいのかわからないのだろう。フローリアンもそれ以上その場にとどまるわけにはいかず、ソルテラを促して部屋を出た。
廊下に出ても、ソルテラの表情は晴れなかった。
「兄上は、どうして怒ったのでしょう……。僕はただ、昨日のことを聞きたかっただけなのに」
「イスズ殿もおっしゃっていましたが、お疲れなのでしょう。今はそっとしておいて差し上げましょう」
フローリアンはそう答えたものの、胸の内には小さな疑問が残っていた。
野盗を撃退したという話をされているのに、レオーネは誇らしげにするどころか、終始、苦しそうな顔をしていた。ストリーガもまた、ソルテラの問いかけに対して、どこか話しにくそうな様子だった。
単に機嫌が悪かったというだけではないのかもしれない。そう思ったが、何があったのかまではわからなかった。
昼食を終え、午後の授業に備えて準備を始めたフローリアンは、先ほどのことで気落ちしているソルテラを少しでも慰めてやろうと考えた。そこで、授業で使う机に花を飾ることにした。
屋敷の庭には、手入れの行き届いた花壇がある。フローリアンは庭師に断り、ハサミを借りて、きれいな薔薇を何本か切り取った。花束を手に、その場を離れようとしたときだった。
少し離れたところから、男たちの話し声が聞こえてきた。声の主はストリーガとアージだった。普段はレオーネのそばを離れないストリーガが、今は護衛を一時的に交代しているらしい。二人は庭の片隅で、周囲に人がいないことを確かめるようにして話していた。
フローリアンは、思わず足を止めた。盗み聞きをするつもりはなかったが、耳に入ってきた言葉に注意を向けずにはいられなかった。
「まったく、こんなことになるのだったら、正直に敵を倒したのはイスズ殿だと言えばよかったのだ……」
ストリーガが、悔やむようにため息をついた。
「そうですね。他人の戦功を自分たちのもののように扱うなど、騎士の風上にもおけないことです」
アージも同意した。
フローリアンは驚き、思わず息をのんだ。
昨日の野盗との戦いについては、多数の野盗に襲われたレオーネたちを護衛が守り、最終的には十人を捕らえたと聞いていた。ところが、今の二人の話は、それとはずいぶん違っている。
いったい、どういうことなのだろう。
「そもそも、俺はあのとき、戦いに加わってすらいなかったからな。財布を摺られた子供を追っていたせいで、戻ってきたときには、イスズ殿がほとんど片をつけてしまっていた」
ストリーガは苦々しげに続けた。
「アージ殿のほうはどうだったのだ?」
「先ほども話したとおりです。私も、レオーネ様とトレミー殿、エルキャパ殿を守るので精一杯でした。敵を近づけないよう牽制してはいましたが、実際に敵を倒したのは、ほとんどイスズ殿です」
「そういうことだ。イスズ殿は、あれだけの数を相手にして、ほとんど一人で圧倒してしまったのだからな」
フローリアンは、にわかには信じられなかった。
イスズが武芸に秀でているという話は聞いていた。だが、護衛の騎士たちが手いっぱいになるほどの野盗を、ほとんど一人で制圧したというのか。
それほどの腕前があるのなら、戦功を誇ってもおかしくはない。貴族社会において、実力を示し、功績を立てることは、自分の価値を周囲に認めさせるための重要な手段だ。低位の騎士爵家の娘であるイスズにとっても、名声を得ることは決して無意味ではないはずだった。
ところが、ストリーガは再びため息をついた。
「仕方がなかろう。イスズ殿が、『私は家庭教師なのだから、そんなところで目立ちたくはない』とおっしゃるのだからな」
「だからといって、私たちが戦功を立てたかのように受け取られるのも困りますが……」
「まったくだ。レオーネ様も、あのようなことになるとは思っておられなかっただろう」
二人の会話はそこで途切れたが、フローリアンはしばらくその場から動けなかった。
イスズは、自分の戦功を人に譲ったのだ。
普通なら、誰もが自分の力を示したいと思うものではないだろうか。まして、命懸けの戦いで敵を圧倒したのなら、なおさらだ。功績を認められれば名声にもつながり、貴族としての立場を高めることもできる。それをイスズは、家庭教師としての仕事を理由に、あえて表に出ようとしなかった。
フローリアンには、それが不思議でならなかった。
貴族の中には、見栄や誇りを何よりも大切にする者も多い。自分の功績を他人に譲るどころか、少しでも手柄を立てようと競い合うことさえ珍しくない。フローリアン自身、そうした人々の中で育ってきた。
だからこそ、イスズの振る舞いは、彼女の知る貴族の常識から外れていた。
イスズは、家庭教師の採用試験でフローリアンを退け、レオーネの家庭教師になった人物だ。これまで彼女にとって、イスズはどうしても気になる存在だった。けれど、今の話を聞いたことで、その気持ちに別のものが混じり始めていた。
いったい、どのような方なのだろう。
あれほどの力を持ちながら、どうして自分の功績を隠そうとするのか。名声を求めるのではなく、家庭教師としての立場を優先するのはなぜなのか。
フローリアンは、イスズという女性について、もっと知りたいと思い始めていた。




