第76話 イスズ無双
イスズの横を、心配そうな顔をしたレオーネが通り過ぎようとした。何かを言いかけて振り返ったが、トレミーに背中を押され、そのまま走っていく。
レオーネは走りながらも、何度か振り返ってイスズの様子を気にしていた。
そのすぐ後ろを走っていたアージとイスズの目が合った。アージはほんのわずかに頷くと、前を走るレオーネに追いつき、その身体を小脇に抱え上げた。
「えっ、アージさん!?」
レオーネが驚きの声を上げる間もなく、アージは一気に速度を上げて走り出した。トレミーもその後を追っていく。
その少し後、気づけばエルキャパも走り出していた。イスズには一瞥もくれず、その脇を駆け抜けていった。
やがて、彼らの足音が遠ざかっていった。
レオーネたちが向かった先を一度だけ振り返り、彼らの姿が見えなくなったことを確かめてから、ゆっくりと後方へ目を向ける。
この先へは、誰も通さない。
そう決めたイスズは、道の中央で静かに足を止めた。木々の間を吹き抜ける風が、彼女の髪をわずかに揺らしている。
やがて、遠くから複数の足音が聞こえてきた。
荒々しい足取りに、わざと地面を踏み鳴らすような音。そして、男たちがひそひそと交わす下卑た笑い声が、次第に近づいてくる。
イスズは表情ひとつ変えず、足音のする方を見つめていた。
ほどなくして、身なりのよくない男たちが姿を現した。
先頭を歩く五人の荒くれ者と、その一番後ろを歩く商人風の男。場違いなほど小綺麗な身なりの男は、道の中央に立つイスズを認めると、ほかの男たちと同じように、迷惑そうな顔をした。
「お嬢さん。ちょっとそこにいられると邪魔なのですがな」
商人風の男が、笑いながら声をかけた。
イスズは男たちをひとりずつ見渡した。人数は六人。それを確認すると、落ち着いた口調で答えた。
「あなた方が、ずっと私たちをつけてきていたことはわかっています。この先には、インプレッサ伯爵様のお屋敷しかありませんよ。ですから、引き返してください」
商人風の男は、さも愉快そうに肩を揺らした。
「まぁ、そういうわけにもいかなくてですねぇ。あの子供をこちらで引き取ったら、伯爵様とも話をつけなきゃならないのですよ。その前に、少しばかり下調べをしておきませんとねぇ」
「それは……あの子供を攫うということでしょうか?」
イスズが尋ねると、男は口元を歪めた。
「攫うだなんて、人聞きの悪いことを言わないでいただきたいですね。ちょっとばかり、こちらで預からせてもらうだけですよ」
すると、横にいた男がイスズを上から下まで舐めるように眺めた。
「おい、そんなことよりよ。お頭、この女もついでに攫っていいんですかい? こいつも連れていきましょうぜ!」
「お前たち、お頭と呼ぶなといつも言っているでしょうに。しかし、ほう……なかなか高く売れそうですな」
商人風の男はそう言って、改めてイスズをじっくりと眺めた。
粗末な服に、華奢な身体。背丈もさほど高くなく、腰に剣を帯びているわけでもなければ、魔法使いのようなローブをまとっているわけでもない。どう見ても、戦いとは縁のなさそうな女だった。
顔には少しそばかすがあるものの、化粧をすればかなりの美人になりそうだ。男の目には、イスズが金に換えられる獲物としか映っていなかった。
「そうですなぁ。少しばかり歳をくってはいますが、売り飛ばせば金になりそうです」
商人風の男は薄笑いを浮かべると、部下たちに言い放った。
「お前たち、何をしてもいいですが、殺さないでくださいね。あぁ、ここで妙な真似をするんじゃないですよ。アジトに連れて帰ったら、お前たちに任せましょう。好きにしなさい」
「へへへ……そいつはありがてぇなぁ!」
男たちの顔に、いっそう下卑た笑みが広がった。
しかし、イスズの表情は変わらなかった。怒りを露わにすることも、怯えることもなく、ただ静かな目で男たちを見つめている。
やがて、イスズは改めて口を開いた。
「これが最後ですよ。このまま引き返すのであれば、何もしません。しかし、戦うのであれば躊躇はしません。どうしますか?」
商人風の男はしばらくイスズを眺めていたが、やがて呆れたように笑い出した。
「はっはっは! なんだ、威勢のいいお嬢さんだな!」
そう言って、後ろの男たちに顎をしゃくる。
「お前ら、そいつを捕まえろ!」
命令を受けた男たちは、一斉に短剣を抜いた。鈍い光を放つ刃が次々とイスズへ向けられ、ひとりが右側から、もうひとりが左側から回り込もうとする。残る男たちも逃げ道を塞ぐように間合いを詰めてきた。
イスズは、その動きをひと目で見極めた。
右の男は短剣を握る手に力が入りすぎている。左の男は足を開きすぎており、踏み込んだ後の姿勢が不安定になる。後ろの二人は互いの位置を気にしていて、連携が取れていない。
そして、先頭の男は自分が真っ先にイスズを捕まえられると信じ切っていた。
イスズは小さく息を吸い、すっと腰を落とした。
「剣を抜いたということは、敵意があると判断します」
静かな声が林道に響く。
「排除します」
「なんだと、この女!」
男が怒鳴り、短剣を振り上げた。
次の瞬間、イスズの姿が男の視界から消えた。
いや、消えたのではない。男が短剣を振り下ろすよりも早く、イスズは重心を低くして一気に間合いを詰めていたのだ。
刃が空を切る。その懐に滑り込んだイスズは、短剣を握る男の手首を正確に掴んだ。
「なっ……!?」
男が驚く間もなかった。
イスズは相手の腕の下へ身体を潜り込ませると、掴んだ手首を逃がさぬまま、鋭く身体を回転させた。男の肘関節が不自然な方向へ引かれ、身体の重心が一瞬で崩れる。小柄なイスズの背中が男の胸元へぴたりと収まったかと思うと、次の瞬間には男の足が地面から浮いていた。
「うおっ!?」
イスズは相手の腕を制したまま腰を切り、全身を使って男の巨体を背負い投げの要領で投げ飛ばした。男の身体が宙を舞う。その瞬間、肘関節に限界を超える力が加わり、ベキッ、と鈍い音が道に響き渡った。
「ぎゃああああっ!」
男は地面に叩きつけられるよりも早く、激痛に絶叫した。短剣が手から滑り落ち、土の上を転がっていく。
あまりにも一瞬の出来事だった。残る五人は何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くしていた。
「な、なんだ、こいつ……!」
その動揺が、次の男にとって致命的な隙となった。
「くそっ、舐めやがって!」
男が短剣を突き出す。イスズは身を沈め、頭上を通り過ぎていく刃をかわすと、そのまま相手の懐へまた潜り込んだ。足を止めることなく踏み込み、立ち上がる勢いを利用して、渾身の拳を相手の喉元へ叩き込む。
「ぐぼっ……!?」
男のくぐもった声が途切れた。息を吸おうとしても、まともに空気が入らない。男は喉を押さえ、目を見開いたまま後ずさった。
イスズはその隙を逃さない。相手の頭がのけぞったところへ身体を鋭くひねり、後ろ回し蹴りを叩き込んだ。男の身体が崩れ落ちる一方で、イスズのスカートは少し遅れて、ひらりと宙を舞った。
直後、すぐ横から別の男が短剣を突き出してきた。イスズは刃の軌道を見極め、上体を紙一重で横へ傾ける。刃が頬先をかすめたが、構わず相手の脇をすり抜け、その背後へ回り込んだ。
「こ、このっ!」
男が慌てて振り返り、短剣を振る。イスズはその刃を難なくかわし、再び男の脇をするりと抜けた。
「どこにいやがるんだ! ちょこまかと!」
男が苛立ち、振り返ったその瞬間だった。
イスズの二本の指が、男の両目へ容赦なく突き入れられた。
「ぎゃあああああっ!」
男の絶叫が林道に響き渡り、短剣が手から落ちた。男は両手で顔を押さえてその場にうずくまり、指の隙間から血を滴らせながら、激痛に身体を震わせていた。
イスズは地面に落ちた短剣を拾い上げた。
残る男たちも、ようやく目の前の女がただ者ではないと悟ったようだった。
「な、なんだ、こいつ……!」
しかし、もう遅かった。
イスズは短剣を手にしたまま、次の男との間合いを一気に詰めた。男が刃を構えると、イスズは相手の攻撃をかわしながら短剣を振り上げた。男の意識がその刃に向かい、反射的に両腕で身を守ろうとした瞬間、イスズは短剣を低く引き下げ、ためらうことなく男の股間へ突き刺した。
「ぐおおおおっ!」
男の身体が大きく跳ねた。イスズは短剣を突き立てたまま、よろめく男をその場に残し、さらに次の相手へと向き直った。
最後の男が、恐怖を振り払うように短剣を振り上げた。
「この化け物がぁっ!」
イスズは振り下ろされる刃をかわして懐へ踏み込むと、男の顔面に拳を叩き込んだ。鈍い音が響き、男の身体が後ろへ吹き飛ぶ。
男が地面に倒れ込むより早く、イスズはその顔をめがけて踵を振り下ろした。踵が顔面に叩きつけられ、その勢いで男の後頭部が地面に打ちつけられる。鈍い衝撃音が響き、男は声も出せずに悶絶した。やがて口から泡を吹き、身動きもままならなくなった。
一瞬の出来事だった。
六人のうち五人が、地面に倒れて動けなくなっていた。
周囲には血が飛び散り、男たちの呻き声と荒い呼吸だけが響いている。イスズのドレスにも鮮血が飛び散り、頬にはうっすらと一筋の血が滲んでいた。
そして、そこに残されたのは商人風の男ひとりだった。
男は恐怖に顔を引きつらせ、じりじりと後ずさった。
「そ、そんな……五人が一瞬で……」
その顔からは、先ほどまでの余裕がすっかり消えていた。
目の前に立つ女は、剣も鎧も、武器らしい武器すら持っていない。華奢な身体に粗末な服をまとっているだけだ。それなのに、戦い慣れているはずの屈強な男たちが五人も、まともに抵抗できないまま倒されていた。
イスズは冷ややかな視線を男に向け、静かに問いかけた。
「まだ続けますか?」
男は答えなかった。代わりに、憎々しげにイスズを睨みつける。
「き、貴様ぁ……! だが、残念だったな。先に逃げた林には、俺の仲間が十人はいる。子供と女、それに兵士ひとりで守り切れるでしょうかねぇ!」
イスズの目がわずかに細くなった。
レオーネたちが向かった先。そこに十人もの仲間が待ち構えているというのなら、アージたちも危険かもしれない。
男は短剣を左手に持ち替えると、右手を突き出した。
「赤き髪の精霊よ、契約の灯をここに。我が魔力を糧とし――」
右手に赤い光が集まり始める。火の魔法だ。詠唱を聞いたイスズは、魔法が完成するのを待つことなく、迷わず動いた。
男が言葉を続けるよりも早く、イスズは一気に間合いを詰めた。
「なっ……!」
男が驚いて目を見開く。懐へ入り込むとイスズは飛びつきながら、男の頭を両腕で抱え込んだ。そして、膝を容赦なく顔面へ叩き込む。
「ぐがっ!」
男の詠唱が途切れた。右手に集まっていた赤い光も、音もなく掻き消える。
イスズは男の頭を解放すると、崩れ落ちようとするその顔面へ、間髪入れずに渾身の蹴りを叩き込んだ。男の身体は宙を舞うように吹き飛び、地面に転がった。その勢いは、人間の身体とは思えないほど凄まじかった。
イスズはすかさず男に近づき、その手から短剣を奪い取った。続いて、倒れた男の右手を地面に押さえつけ、手のひらを貫くように短剣を突き立てた。
「ぎゃああああっ!」
男の絶叫が林道に響き渡る。
魔法を使うために突き出していた右手は、地面に縫い付けられ、もはや自由には動かせない。イスズは苦痛に身をよじる男を一瞥すると、静かに立ち上がった。
その身体が、ぴくりと痙攣する。やがて、それも止まった。
林道に静寂が戻った。
イスズは倒れた男たちを一瞥したあと、レオーネたちが向かった林の方角へと顔を向けた。
「十人、ですか……」
小さく呟き、少しだけ困ったように眉を寄せる。
「ちょっと厳しいかもしれませんね」
そう言いながらも、イスズの足は止まらなかった。彼女は倒れている男たちを顧みることなく、林の奥へ向かって走り出した。
レオーネたちを追うために。




