第75話 守るべきもの
レオーネ一行は、インプレッサ伯爵邸へと帰路についていた。
街道を進み、もう少しで林に差し掛かろうという頃だった。
先ほどから幾度となく後方を振り返っていたアージが、レオーネのそばに寄り、声を潜めて告げた。
「レオーネ様、先ほどから後ろをつけてくる者がいるようです。気のせいであればよいのですが……」
その言葉に、イスズは一瞬だけ後方へと視線を向けた。そして、すぐさまアージに告げた。
「アージ様、いざとなったらレオーネ様を抱えて、館へ向かってください。トレミーさんも、何があっても寄り道せず、まっすぐ館を目指してください。私がここで食い止めます」
「……イスズ殿」
アージは思わず言葉を詰まらせた。
自分も剣を手に応戦するつもりではあった。しかし、相手の数も力量もわからない以上、レオーネを守りながら全員で切り抜けられる保証はない。
アージはしばし逡巡したのち、決意を固めたように口を開いた。
「私も、できる限り応戦します。ですが、いざとなれば、レオーネ様だけでも必ずお守りします。そのつもりでいてください」
「でも……イスズ先生もトレミーも、なんとか一緒に助けられないの?」
レオーネは不安げにアージを見上げた。すがるようなその眼差しを向けられても、アージは何も答えられなかった。
助けられると言い切ることはできない。かといって、見捨てるしかないと告げることもできなかった。
その沈黙を見て、イスズが静かに口を開いた。
「レオーネ様。まず、お守りしなければならないのは、レオーネ様ご自身なのです。ですから、いざというときには、アージ様の言うことを聞いてくださいね」
「でも、イスズ先生……一緒に逃げましょう。みんなで逃げればいいじゃないですか」
レオーネはなおも食い下がった。イスズはそんなレオーネを見つめていたが、やがて表情を引き締めた。そして、いつになく厳しい口調で言った。
「レオーネ様。聞き分けのないことをおっしゃってはいけません!」
不意に響いた強い声に、レオーネはびくりと肩を震わせた。
「あなたは、インプレッサ伯爵家の跡取りなのですよ。その自覚をお持ちなさい!」
イスズはまっすぐにレオーネを見据えた。
「あなたが将来、何を背負うことになるのか、おわかりですか。伯爵家の領地には、何千、何万という民が暮らしています。彼らには彼らの生活があり、家族があり、守るべき日々があります。そして、その暮らしを守り、領地を治めていく責任を負うのが、領主となるあなたなのです!」
イスズの声には、もはや普段の優しさだけではない、揺るぎない厳しさがあった。
「ある国には、ロイヤル・デューティーやノブレス・オブリージュという言葉があります。高い地位にある者には、それに見合った義務と責任が伴うという考え方です。財産や権力、身分に恵まれているからこそ、自分の望みや利益ばかりを優先してはならない。自らを律し、その力を人々のために使わなければならないのです」
イスズは、レオーネが目をそらそうとしても、決して視線を外さなかった。
「貴族とは、ただ人々の上に立ち、命令する者のことではありません。人々の暮らしを預かり、その命と未来に責任を負う者のことです。平穏なときには領地を治め、民が困窮すればその窮状を救い、国が危機に陥れば、己の身を惜しまず率先してその責めを負う。それが、本来あるべき貴族の姿ではありませんか」
一度言葉を切り、イスズは続けた。
「もちろん、だからといって、命を粗末にすればよいということではありません。勇気を示すことと、無謀に命を投げ出すことは違います。あなたが今ここで私たちとともに戦い、命を落としたとしたら、どうなりますか」
レオーネは唇を引き結んだ。
「あなた一人の命が失われるだけではありません。伯爵家の跡取りを失った領地は、誰が治めるのですか。領主を失い、後継者まで失えば、その混乱の中で苦しむのは、あなたを守ろうとした私たちだけではありません。領地に暮らす大勢の民なのです。あなたを待っている人々がいる。あなたが守らなければならない人々がいる。そのことを、どうか忘れないでください」
イスズの言葉は、レオーネの胸に重く響いた。
「あなたが今、私たちを見捨てたくないと思う気持ちは、よくわかります。私も、あなたにそんな思いをさせたくはありません。けれど、あなたが大切に思う人を守りたいという気持ちだけで、すべてを決めてよい立場ではないのです。あなたの判断には、あなた自身の命だけでなく、大勢の人々の暮らしと未来が懸かっているのですから」
イスズは、ほんのわずかに表情を和らげた。しかし、その口調は変わらなかった。
「だからこそ、今は御身を優先してください。ここであなたがなすべきことは、私たちと一緒に戦うことではありません。生きて館へ戻り、いずれ領主として民を守る責任を果たせるようになることです。それが、今のあなたに課せられた務めなのです」
レオーネは何かを言おうとした。しかし、言葉が出てこなかった。
イスズたちを置いて逃げることなど、考えたくもなかった。自分だけが助かることを、卑怯なことのようにさえ感じていた。
けれど、イスズの言葉を聞いているうちに、自分が見ていたものが、あまりにも近くにあるものだけだったことに気づかされていた。
目の前にいる大切な人たち。その人たちを失いたくないという、自分自身の願い。
そればかりを考えていた。
自分が伯爵家の跡取りであること。その先に、どれほど多くの人々の暮らしがあるのか。その人々を守る責任が、自分にはあるのだということ。
イスズは、そのことをレオーネに突きつけていた。
「……わかりましたか、レオーネ様」
静かな問いかけに、レオーネはうつむいたまま、小さくうなずいた。
まだ、すべてを納得できたわけではない。それでも、イスズの言葉が、自分をただ従わせるためのものではないことはわかった。
イスズはレオーネを守ろうとしている。
そして同時に、いつか大勢の民を守る立場になる彼に、その責任の重さを教えようとしているのだ。
レオーネは、握りしめていた拳に力を込めた。
今はまだ、イスズの言うとおりにするしかない。
そのことが、悔しくてならなかった。




