第73話 怪しい影
喫茶店を出た一行は、満足そうな笑顔を浮かべていた。美味しいケーキを食べたレオーネもイスズもトレミーも、すっかりご機嫌だった。
「イスズ先生、また一緒に喫茶店に来たいです!」
レオーネは少し恥ずかしそうに、イスズを見上げた。
「はい、今度は別のケーキを食べてみたいですし、ぜひまた来ましょうね」
イスズが笑顔で頷くと、トレミーがすかさず口を挟んだ。
「レオーネ様、私は連れていってくださらないのですか?」
「……もちろん、トレミーも一緒だよ!」
「ありがとうございます。楽しみにしておりますね。うふふ」
トレミーが嬉しそうに微笑むと、今度はアージが声を上げた。
「私は今度こそケーキを食べたいです」
すると、ストリーガがすかさずアージに視線を向けた。
「アージ殿は私と一緒の護衛なのだから、今日の紅茶ですら例外だったのだ。次回もケーキなどありえないぞ」
「そ、そんな……!」
アージが大げさに肩を落とすと、皆から笑いが起きた。
ただ一人、アージだけはケーキを食べられなかったことが不満らしく、どこか恨めしそうな顔をしていた。
そんなやり取りをしながら店を出たところで、トレミーは会計の際に使った財布をバッグにしまおうとした。
その様子に気づいたイスズは、慌てて声をかけた。
「トレミーさん、人がいるところで財布を出すのは――」
言い終わるより早く、通りの脇から一人の子供が飛び出してきた。
「えっ?」
トレミーが慌てて財布をしまおうとした、その瞬間だった。
少し離れた場所にたむろしていた、身なりの良くない子供たちの集団から、一人の少年が勢いよく駆け出した。
狙いは、トレミーの財布だった。
「しまっ――!」
ストリーガがいち早く反応したものの、わずかに間に合わなかった。少年はトレミーの手から財布をひったくると、そのまま走り去っていく。
「待て!」
ストリーガが追いかけようとした、そのときだった。
逃げる少年が、すれ違いざまに別の子供へ財布を渡した。
受け取った子供は反対方向へ走り出し、周囲にいた子供たちも一斉に散らばっていく。
「くっ……!」
ストリーガは一瞬だけ足を止めた。しかし、すぐに財布を持って逃げた少年を見定めると、レオーネたちに振り返った。
「レオーネ様、申し訳ありません! すぐにあの財布を取り戻してまいります!」
そう言い残すと、ストリーガは人混みの中へと駆け込んでいった。
残されたトレミーは、何が起きたのか理解できないといった様子で立ち尽くしていた。
「トレミーさん、大丈夫ですか? きっとストリーガ様が取り返してきてくれますよ」
イスズが優しく声をかけると、トレミーははっと我に返った。
「レオーネ様、申し訳ありません。お預かりしていたお財布を、盗まれてしまいました……」
トレミーは申し訳なさそうに頭を下げた。
「トレミー、大丈夫? 怪我はない?」
レオーネが心配そうに尋ねると、トレミーは小さく頷いた。
「はい、どこも怪我はしておりませんが……」
「そっか。なら、よかった。お金はまた取り返せばいいんだから。ストリーガが取り返してくれるよ」
レオーネは、ほっとしたように微笑んだ。
「怪我をしなくてよかったね」
その言葉に、トレミーは顔を上げた。叱られるどころか、自分の身を心配してくれたレオーネの優しさに、胸が温かくなる。
「……ありがとうございます、レオーネ様」
一方、アージはストリーガが走り去った方向を見送ると、周囲に目を配った。それからレオーネに向き直る。
「レオーネ様。護衛が一人減りました。今日はもう屋敷へお戻りになったほうがよろしいかと思います」
「えっ、もう帰るの?」
レオーネは残念そうに声を上げた。
イスズもアージの言葉に頷いた。
「アージ様のおっしゃる通りです。護衛が一人だけでは、少し心許ないかもしれません。今日は戻ったほうがよろしいかと思いますよ」
二人にそう言われ、レオーネは残念そうに眉を下げた。まだ街を見て回りたい気持ちはあったが、アージが真剣な表情をしているのを見て、しぶしぶ頷いた。
「……わかった。ストリーガが戻ってきたら、一緒に帰ろう」
「いえ、ストリーガ殿を待つ必要はございません。私たちだけで先に戻りましょう」
「そっか……」
レオーネは少しだけ不満そうな顔をしたものの、これ以上わがままを言うつもりはないらしい。
「うん、わかった」
すると、イスズがレオーネの前にそっと手を差し出した。
「レオーネ様、念のため、私と手を繋いで帰りましょう」
「えっ……?」
レオーネは一瞬、驚いたように目を見開いた。それから頬を赤く染め、差し出されたイスズの手を握った。
細く、少し冷たい手だった。
イスズはそんなレオーネを見て、にこっと微笑む。
「それでは、帰りましょうか」
「……うん!」
レオーネは嬉しそうに頷いた。
そんなやり取りを、通りの向こうからじっと見つめている男がいた。
商人風の身なりをした男だった。人通りの中に紛れ、荷物を積んだ荷車の傍らに立っている。その姿だけを見れば、街で商いをする者にしか見えない。
だが、その目つきは商人のものではなかった。
男は、レオーネたちの様子を注意深く観察していた。
女性が二人と、まだ幼い少年が一人。そして、護衛らしき男が一人。
先ほどまで、もう一人いたはずだが、今はどこにも見当たらない。
「……へえ」
男の口元に、薄い笑みが浮かんだ。




