第72話 喫茶店02
紅茶とケーキを注文し、それらが運ばれてくるのを待つ間、レオーネは店内をそっと見渡した。
ふと、入口近くの席に目が留まる。
そこには、若い男女が並んで座っていた。二人とも身なりは質素で、貴族ではなく町の人間だろう。
けれど、二人の間には自然と肩が触れ合うほどの近さがあり、互いに顔を見合わせては、照れくさそうに笑っている。紅茶を飲み、ケーキをひと口ずつ味わいながら、楽しそうに言葉を交わしていた。
……あれが、恋人同士というものなのだろうか。
レオーネはそんなことを考えながら、二人をしばらく眺めていた。
やがて、正面に座るイスズへと視線を移す。
イスズもまた、珍しそうに店内の様子を眺めていた。客たちの会話に耳を傾けたり、テーブルに並ぶ菓子を見たりと、周囲を楽しんでいるようだった。
レオーネは、そんなイスズの横顔をじっと見つめた。
これほど間近で、イスズと向かい合って過ごす機会は、意外と少ない。
自分よりもずっと年上の女性なのに、イスズのそばにいると不思議と緊張する。横顔は知的で、それでいて顔立ちや仕草のひとつひとつから、どこか優しい印象を受けた。
鼻筋はそれほど高くないが、すっきりと整った形をしている。頬にはほのかなそばかすが散り、白い肌には、外で過ごしたときについたのだろう、うっすらと日焼けの跡も見えた。
貴族の令嬢たちと比べれば、少しばかり日に焼けているのかもしれない。それでも、レオーネには、その横顔がとても美しく見えた。
……イスズ先生って、綺麗だな。
そんなことを考えながら見つめていると、イスズがふとこちらを向いた。
「あら、レオーネ様?」
目が合った瞬間、イスズは優しく微笑んだ。
その笑顔を間近で見た途端、レオーネの胸がどきりと跳ねた。慌てて視線を落とす。なぜだか、いつまでも見つめているのが恥ずかしくなってしまったのだ。
「ふふっ。どうかなさいましたか?」
「い、いえ……何でもありません」
レオーネは小さく首を振った。
イスズは不思議そうにしながらも、それ以上追及することはなかった。
「それにしても、先ほども申し上げましたが、私、喫茶店に来るのは初めてなのですよ」
イスズは改めて店内を見渡し、楽しそうに目を細めた。
「こうしてお店で紅茶をいただきながら、ケーキを待つというのも、なんだかワクワクしますね」
「えっ、初めてなのですか?」
思わず声を上げたのはトレミーだった。ストリーガも意外そうにイスズを見た。
貴族の子女であれば、十二歳で学院に通い始める頃には、友人たちと喫茶店へ出かけることも珍しくない。授業の合間に紅茶や菓子を楽しみ、友人同士で語らう。それもまた、学院生活の楽しみのひとつだった。
それなのに、イスズは喫茶店に来ること自体が初めてだという。
二人が驚くのも無理はなかった。しかし、そんな貴族社会の常識をよく知らないレオーネは、別のことが気になっていた。
イスズ先生は、喫茶店に来るのが初めて。
そして、今、自分と一緒にこの場所にいる。それが、なんだかとても嬉しかった。
まるで、自分と過ごす時間を特別なものだと思ってくれているような気がしたのだ。
もちろん、イスズはそんなことを口にしたわけではない。ただ初めての喫茶店を楽しみにしているだけなのだろう。
それでも、レオーネの胸には、温かな喜びがじんわりと広がっていた。
「ふふっ、どんなケーキが来るのでしょうね」
イスズが期待に満ちた顔でテーブルに目を向けた、そのときだった。
「お待たせいたしました」
店員がトレイを手に、皆の席へとやってきた。
レオーネの前に、紅茶とリンゴのケーキが運ばれてきた。
続いて、イスズの前には紅茶とチーズケーキ、トレミーの前には紅茶とイチジクのタルトが並べられた。最後に、ストリーガとアージの前にも、それぞれ紅茶が置かれた。
「ごゆっくりどうぞ」
店員が一礼して立ち去ると、テーブルの上には、淹れたての紅茶の香りと、甘い菓子の匂いがふわりと漂った。
イスズは目の前に置かれたチーズケーキを見て、ぱっと顔をほころばせた。
「わあ……美味しそうですね」
その嬉しそうな声を聞きながら、レオーネはそっとイスズの顔を見た。さっきまで胸の中にあった喜びが、また少し大きくなった気がした。
一方、アージは三人のケーキを羨ましそうに眺めていた。今にも食べたくてたまらないといった顔をしていると、隣のストリーガが鋭い視線を向けた。
「……」
アージは何も言わず、肩をすくめて諦めた。
そんな様子を横目で見ながら、イスズはレオーネにそっと目配せした。それに気づいたレオーネは、居住まいを正して口を開いた。
「では、いただきましょうか」
その言葉を聞くと、ストリーガは一瞬だけ考えるような素振りを見せた。そして、イスズをちらりと見た。その視線に気づいたイスズは、何も言わずに微笑みを返す。
ストリーガはそれを確認すると、まず自分の紅茶をひと口飲んだ。
柑橘の皮やハーブが入っているのだろうか。紅茶には複雑な香りがあり、口に含むと、爽やかさの中にほのかな苦みと甘みが広がった。普段飲む紅茶とはひと味違う、なかなか美味しい紅茶だった。
イスズは満足そうに味わった後、フォークを手に取った。そして、チーズケーキを食べようとしたところで、ふと思いついたように顔を上げた。
「レオーネ様、トレミーさん。少しずつケーキをシェアしませんか?」
「…シェア? ですか?」
レオーネが不思議そうに首を傾げる。
「はい。女の子は食いしん坊なのですよ。だから、皆さんのケーキを少しずつ交換して、味見をし合うんです」
「それは良いですね」
トレミーも何かを察してか嬉しそうに頷いた。
「では、レオーネ様のリンゴのケーキを、先にひと口いただきますね。私のチーズケーキはトレミーさんに少し差し上げます」
そう言うと、イスズはレオーネの前に置かれたリンゴのケーキをひと口分、フォークですくった。
「いただきます」
口に運ぶと、リンゴの甘酸っぱさと生地の柔らかな甘みが広がる。
「んー、美味しいですね」
イスズが微笑むと、トレミーもイスズのチーズケーキをひと口味わった。
「こちらも美味しいです。口当たりがなめらかで、甘さもちょうど良いですね」
「ふふっ、そうですか、食べるのが楽しみです! レオーネ様も、まずはご自分のケーキを召し上がってみてください。とても美味しいですよ」
レオーネはフォークを手に取り、リンゴのケーキをひと口食べた。
ふんわりとした生地に、リンゴの優しい甘さがよく合っている。思わず頬が緩みそうになるほど美味しかった。
その間に、イスズはトレミーの前に置かれたイチジクのタルトにも手を伸ばした。
ちょうどイチジクが旬を迎える時期だ。熟した果実ならではの濃厚な甘みが、香ばしいタルト生地とクリームによく合っている。
「これも美味しいですね」
イスズが感心したように言うと、トレミーも自分のタルトをひと口食べ、思わず微笑んだ。
「本当ですね。イチジクの甘みがとても良いです」
二人の様子を見ていたレオーネは、少し緊張した面持ちでフォークを持ち直した。
「では、レオーネ様。私とトレミーさんのケーキも、ぜひ召し上がってくださいね」
「はい……」
レオーネはまず、トレミーのイチジクのタルトをひと口食べた。
サクッとした生地と、なめらかなクリーム。そして、イチジクの甘みが口いっぱいに広がる。
「美味しいです」
素直な感想を口にしてから、レオーネはイスズの顔をちらりと見た。
イスズは優しく微笑んでいる。
その笑顔に少しだけ背中を押された気がして、レオーネは、イスズのチーズケーキへとフォークを伸ばした。
ひと口分をすくい、そっと口に運ぶ。途端に、なめらかなチーズの風味と、ほのかな甘みが舌の上に広がった。甘すぎず、それでいて物足りなさもない。口の中で優しく溶けていくような、そんな味だった。
そして、なぜだろう。イスズのケーキだからだろうか。レオーネは、胸の奥が妙にそわそわするのを感じた。
美味しい。確かに美味しいのだが、それだけではない。ほんのりと甘く、優しい香りまで漂ってくるような気がした。
もうひと口食べたい。そんな気持ちが湧いてきたものの、さすがにそれを口にするのは恥ずかしかった。
「どうですか、レオーネ様?」
イスズに尋ねられ、レオーネは慌てて顔を上げた。
「お、美味しいです!」
少し声が上ずってしまった。
「ふふっ、良かったです」
イスズはそんなレオーネを見て、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見た途端、レオーネの胸がまた、どきりと跳ねた。
自分のリンゴのケーキも、トレミーのイチジクのタルトも、どちらも美味しかった。けれど、イスズのチーズケーキを食べたときの気持ちは、どうにもそれらとは違っていた。
もう一度食べたいと思うのに、イスズの顔を見ると、なぜか恥ずかしくなってしまう。
レオーネは照れ隠しのように紅茶をひと口飲んだ。
紅茶も、やはり美味しい。ほのかな苦みと複雑な香りが口の中に広がり、どこか大人びた味わいがした。
けれど、今ばかりは、その美味しさが少し惜しい。
せっかく口の中に残っていたチーズケーキの甘みが、紅茶の風味に変わってしまったからだ。
……もう少し、あの味を楽しんでいたかったな。
そんなことを考えてしまい、レオーネはますます気恥ずかしくなった。
その間も、アージは三人のケーキを羨ましそうに眺めていた。どうやら、ケーキを食べられなかったことが相当心残りらしい。
しかし、ストリーガだけは違った。
彼女は静かにイスズへと目礼した。イスズもそれを受け、何も言わずににっこりと微笑み返す。
二人の間で交わされた、ほんの一瞬のやり取り。
レオーネには、その意味が分からなかった。
ただ、イスズのチーズケーキを食べられたことが、なんだか嬉しい。
そして、嬉しいのに、どうしてこんなにも恥ずかしいのだろう。
レオーネは、再び紅茶に口をつけた。
その美味しさを味わいながらも、心のどこかでは、先ほど食べたチーズケーキの甘みを、もう一度思い出していた。




