第66話 パンの試食
パン屋に着くと、プローブはストリーガから水桶を受け取り、水瓶に水を移し始めた。
そのとき、奥の工房から、白い生地を載せたトレイを持った男性が現れた。パンを成形していたらしく、両手がふさがっている。男性は店の扉を背中で押し開けると、そのまま店内へ入り、店の一角に設けられた石窯へと向かった。
「おい、遅かったじゃねえか」
顔も見ずにプローブへ声をかけ、トレイを石窯の中へ滑り込ませる。そうして、ようやく一息ついた男性は、振り返ってプローブを見た。
そこで初めて、彼は自分たち以外の人間が店内にいることに気づいた。
身なりのよい少年が一人。その後ろには、いかにも貴族の護衛といった風格の男性が二人控えている。さらに、侍女らしき女性も二人いた。
男性の動きがぴたりと止まった。
「……え?」
一瞬にして顔がこわばる男性を見て、プローブは声を上げて笑った。
「あははは! 驚かせちまったね。これがうちの旦那で、この店の主人のコルサだよ。まあ、このパン屋は私の名前の『プローブのパン屋』って呼ばれているんだけどね!」
「お、おい……」
コルサは戸惑った様子でプローブを見たあと、改めてレオーネたちに目を向けた。
「おい、この方たちは一体……?」
「ほら、いつもパンを買ってくれるイスズさんだよ。そのイスズさんが教えている生徒なんだとさ。さっき水汲み場で出会ってね。この坊ちゃんが、街の授業ではじめて自分で買い物をするっていうんで、うちに連れてきたのさ」
プローブは何でもないことのように説明したが、コルサの表情はなかなか和らがなかった。
レオーネの服装は上質で、どう見ても裕福な家の子供に見える。そのうえ、後ろに控える二人の護衛は、ただの付き添いとは思えないほど堂々とした体格と立ち居振る舞いをしていた。
パンを焼くことには慣れていても、こうした相手と接することには慣れていないのだろう。コルサはどう振る舞えばよいのかわからず、落ち着かない様子で視線をさまよわせていた。
そんな彼を見て、イスズがすかさず声をかけた。
「こんにちは。突然お邪魔して申し訳ありません。私たちのことは、どうぞお気になさらないでください。いつもどおりに接していただければ大丈夫ですので、ご安心くださいね」
イスズが穏やかに微笑むと、コルサは彼女を見て、それからもう一度、背後の護衛たちに目を向けた。
やはり、少し怖い。そんな表情を浮かべていたコルサだったが、ふとストリーガと目が合った。
ストリーガは無骨な顔つきのまま、にっこりと笑ってみせた。
威圧するつもりなどない。むしろ安心させようとしたのだろう。その意図が伝わったのか、コルサはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……このパン屋でパンを焼いている、コルサです」
そう名乗ると、ちょこんと頭を下げた。
「ありがとうございます。先ほど石窯に入れたのは、白パンですか?」
イスズが尋ねると、コルサはこくりとうなずいた。
その様子を見ていたプローブは、困ったように笑った。
「ごめんなさいね。うちの旦那はパンを焼くのはうまいんだけど、人付き合いが苦手でねぇ」
「パンを焼くのは、焼き時間や火加減の調整が大変なのだと思います。コルサさんには、パンを焼くことに集中していただきましょう。そのほうがよいですよね、プローブさん?」
「そうだねぇ。パンは、その日の窯の温度や火加減によって、置く場所も焼く時間も変わるからね」
プローブがそう答えると、コルサの顔にあからさまな安堵が浮かんだ。
彼は皆に軽く頭を下げると、すぐに石窯へと向き直った。どうやら、パンの様子を見ているほうが性に合っているらしい。
「白パンは、どのくらいで焼き上がるのですか?」
イスズが尋ねると、今度はプローブが答えた。
「火の温度にもよるけどねぇ。大体、十分から十五分くらいかね。ただ、この時間っていうのが曲者でね」
そう言って、プローブは石窯のほうへ目を向けた。
「うちの旦那は、時計で時間を測って焼き上がりを決めているわけじゃないんだよ。窯の中や周りの温度、それに外の気温も見ているし、一番大事なのは焼き上がりの匂いだそうだよ。だから、お客さんに『何分くらいで焼けるんですか』って聞かれると、答えるのが一番難しいんだってさ」
「なるほど……」
レオーネは感心したように石窯を見つめた。ストリーガもアージも、トレミーも同じだった。
「普通は、何分で焼き上がるのかを聞きますけれど、やはり、その道の職人さんは時間だけで判断するわけではないのですね。素晴らしいです」
イスズがそう褒めると、コルサがちらりとこちらを振り返った。その口元が、ほんの少し緩んでいる。
「ほらほら、あんた! こっちを気にしてると、今焼いてる白パンが焦げパンになっちまうよ!」
プローブが声を上げると、周囲から笑いが起こった。
コルサは慌てて窯へ向き直ったが、その耳が少し赤くなっているのをレオーネは見逃さなかった。
なんだか、楽しそうな店だ。そう思うと、レオーネの緊張もすっかり解けていた。
「では、坊ちゃん。パンの棚を見てみましょうね」
イスズに促され、レオーネは店先の商品へと目を向けた。
棚には、朝に焼いた黒パンが八十個ほど並んでいた。その隣には、黒っぽい粒がところどころに混じったパンが置かれている。
レオーネはそのパンを指さした。
「あのパンには黒いものが入っていますけど、何でしょう? ブドウですか?」
「おや、よくわかったね。じゃあ、形が悪くて売り物にならないブドウパンがあるから、食べてみるかい?」
プローブがそう言って、棚の奥から一つ取り出した。
「あ、やっぱりブドウパンなんですね」
レオーネが納得したようにうなずくと、イスズが頭を下げた。
「ありがとうございます」
プローブは引き出しからパン切り包丁を取り出した。その瞬間、ストリーガの肩がわずかに動いた。
護衛として、刃物を手にした相手への警戒が反射的に働いたのだろう。
イスズはその動きに気づくと、プローブに悟られないよう、さりげなくレオーネの前へ一歩出た。
しかし、プローブはそんなことには気づかず、ブドウパンを一センチほどの厚さに切り分けた。そして、その一切れをイスズに差し出した。
「こういうのは、まず毒味をしなきゃいけないんだろ?」
そう言って、にこりと笑う。
「お気遣い、ありがとうございます」
イスズは笑顔で受け取ると、まず一口食べた。
パンの生地は少し硬めで、小麦粉の挽き方がやや粗いのか、舌にわずかなざらつきが残った。それでも、噛むほどにほのかな甘みが広がり、ところどころに混じったブドウの皮の感触も楽しめる。白パンとは違う素朴な味わいがあった。
「ほんのりと甘くて、ブドウの香りがする、おいしいパンですね。私、このお店ではいつも黒パンしか買わないので、初めて食べました」
「おや、そうかい! じゃあ、今度からブドウパンも買っておくれよ」
プローブは嬉しそうに笑い、残りのパンをレオーネたちにも配った。少し離れたところにいたエルキャパにも勧めてみたが、彼は無言で首を横に振った。
レオーネは受け取ったパンを口に運んだ。
「……あ、おいしいです!」
噛むと少し硬さがあるものの、ほんのりとした甘みが口の中に広がる。初めて食べるブドウパンは、思っていた以上においしかった。
ただ、舌には少しだけざらつきが残ったような感じがした。
ストリーガもトレミーも、おいしそうに食べている。アージにいたっては、ひと口でぱくりと食べてしまった。
そして、心なしか残念そうな顔をした。どうやら、もう少し食べたかったらしい。
そんな様子を微笑ましく眺めながら、イスズはレオーネに説明した。
「干しブドウには、パン生地を発酵させる酵母という菌が付いていることがあるんですよ。こうしたパンは、生地が十分に膨らむまで時間がかかりますが、そのぶん、ふっくらと焼き上げることができるんです」
「そうなんですね!」
「おや、よく知ってるねぇ。白パンと比べたら硬いけどねぇ。でも、これは人気があるんだよ。昼過ぎには売り切れちまうからね」
プローブも自慢げに話した。
レオーネは、棚に並ぶブドウパンを改めて見つめた。
同じパンでも、小麦粉だけで作るものと、ブドウを加えて作るものでは違いがある。発酵の仕方によっても、食感や味が変わるらしい。
パン一つにも、知らないことがたくさんあるのだ。
「では、こちらも食べてみようかね」
今度はプローブが棚の奥から黒パンを取り出し、同じように薄く切って皆に配った。
先ほどと違って、レオーネとプローブの間には十分な距離がある。ストリーガも、今度は身構えることなく、その様子を見守っていた。
イスズは受け取った黒パンを一口食べ、噛みちぎるようにして味わった。それを見て、レオーネたちも一切れずつ手に取る。
「黒パンと言っても、茶色いんですね。もっと黒いのかと思いました」
レオーネはパンを眺めながら、素直な感想を口にした。
「普段、白パンを食べ慣れているんなら、気をつけておくれよ。黒パンは硬いからね」
プローブの言葉を聞きながら、レオーネはパンを口に入れた。
そして、すぐに驚いた。
硬い。
先ほどのブドウパンとは比べものにならない。歯を立ててもなかなか噛み切れず、思わず眉を寄せた。
どうにか噛み切ろうとしたものの、うまくいかない。とうとうレオーネは、はしたないと思いながらも、口に入れたパンをいったん取り出した。
「……こんなに硬いんですね」
驚きを隠せないレオーネに、プローブが苦笑する。
「だから、気をつけておくれって言っただろう?」
レオーネは少しだけ口に入れる量を減らし、今度はしっかりと歯を立てて噛みちぎった。ようやく口の中に入ったパンを、ゆっくりと咀嚼する。
味そのものは、確かにパンだった。ただ、白パンに比べると舌触りがざらついていて、口の中の水分も吸い取られるような感じがする。
「この黒パンは、普段はスープに浸したりして、柔らかくして食べるのですよ」
イスズがそう説明すると、レオーネはようやく納得したようにうなずいた。
なるほど。これを毎日そのまま食べるのは、なかなか大変そうだ。顎が疲れてしまいそうだと思いながら、レオーネは手の中に残った黒パンを見つめた。
普段、何気なく食べている白パンが、どれほど柔らかく、食べやすいものだったのか。
それを初めて、身をもって知ったのだった。




