第65話 パン屋のプローブ
プローブが水を汲み終え、そろそろ帰ろうとした頃、イスズは彼女に声をかけた。
「プローブさん、これから坊ちゃんが、プローブさんのお店でパンを買いに行ってもよろしいでしょうか」
「うちの店でパンを?」
プローブは少し考えてから、笑顔で答えた。
「そうだねぇ。この時間なら朝のお客さんも帰って、店もそれほど混んでいないから大丈夫だよ。ただ、うちの旦那は昼のお客さんに出すパンを焼いている最中だからね。ろくに挨拶もできないと思うけど、それでもいいのかい?」
「ええ、大丈夫です。お店の端で中の様子を見せていただきながら、買い物の仕方を説明したいのです。この坊ちゃんは、今日が人生初めてのお買い物ですから」
それを聞くと、プローブは目を丸くし、すぐに嬉しそうな顔になった。
「まぁ、そうなのかい! 坊ちゃんの初めてのお買い物を、うちの店でしてくれるなんて光栄だねぇ。ぜひ寄っておくれよ」
「ありがとうございます」
イスズが微笑んで礼を言うと、プローブは桶を持ち直して、レオーネに顔を向けた。
「店までは歩いて五分くらいだからね。すぐ着きますよ」
そのとき、ストリーガが声をかけた。
「プローブ殿、と言ったかな。その水の入った桶、私が持とう」
「あら、いいのかい? こんなに格好の良い騎士様に水桶を持ってもらうなんて、なんだか悪いねぇ」
口では恐縮しているものの、プローブの顔には喜びがにじんでいた。
「いや、私は坊ちゃんの護衛だからな。片手で桶を持ったところで、もう片方の手は空いている。護衛の務めに支障はない」
ストリーガはそう言って、プローブから桶を受け取った。水がたっぷり入っているため、それなりの重さはあったが、騎士として鍛えている彼にとっては片手で軽く運べる程度だった。
「まあ、頼もしいねぇ。なんだか騎士様に水桶を持ってもらうと、自分がお姫様になったような気分だよ」
プローブは楽しそうに笑った。
「はは、それは光栄だな」
ストリーガも苦笑しながら応じる。
一行はパン屋へ向かって歩き始めた。先頭をプローブが歩き、その隣にイスズとレオーネが続く。桶を持ったストリーガは、護衛として周囲に目を配りながら最後尾を歩いていた。
街の通りは相変わらず人通りが多く、店先では商人たちが品物を並べ、行き交う人々に声をかけていた。しばらく歩いたところで、イスズはふと思いついたようにプローブに尋ねた。
「そういえば、プローブさんのお店では、一日に何個くらいパンを焼いているのですか?」
「そうだねぇ。朝に百個、昼に五十個、夕方に五十個ってところかね。合わせて二百個くらいだよ」
「一日に二百個ですか。なかなかの数ですね。どんな種類のパンを作っているのですか?」
「うちは三種類さ。黒パンが百五十個、ぶどうパンが三十個、あとは白パンが二十個くらいだね」
プローブが指を折りながら答えると、レオーネが不思議そうに口を開いた。
「僕の家では白パンしか出ないけど、いろいろなパンがあるんですね」
その言葉に、プローブは驚いたように目を見開いた。
「まあ、坊ちゃんの家はずいぶん裕福なんだねぇ。普通の家じゃ、白パンなんてそうそう食べられないよ。うちじゃ白パン一つの値段で、黒パンが十個も買えるんだからね」
「そんなに違うんですか?」
レオーネが驚いて聞き返すと、プローブはうなずいた。
「そうさ。白パンは上等な小麦を使うし、粉を細かく挽いて、ふるいにかけて白く仕上げるのにも手間がかかるからね。値段も高くなるのさ。うちで作る白パンだって、商人の家や、裕福なお客さんを相手にする宿屋から注文が入るから焼いているようなものだよ。私たちだって、売れ残りが出たときくらいしか食べられないねぇ」
「売れ残ったときだけ……」
レオーネは思わずつぶやいた。自分の家では当たり前のように食卓に並んでいた白パンが、街の人々にとっては特別な食べ物だったのだ。
イスズはそんなレオーネの様子を見ながら、穏やかな口調で説明した。
「坊ちゃん、街で暮らす民の多くは、黒パンを食べているのですよ。黒パンは安くて、白パンほど柔らかくはありませんが、日持ちするのが利点です。きちんと保存すれば、二週間ほど食べられるものもあります。日が経つにつれて固くなりますが、スープに浸せば食べやすくなりますからね」
「二週間も?」
レオーネはまた驚いた。
「はい。一方、白パンはふんわりしていて美味しいのですが、水分が多いぶん、黒パンほど長くは保存できません。数日もすれば風味が落ちてしまいます」
「そうだったんですね……」
レオーネは、自分が毎日食べているパンのことを思い返していた。食卓に並ぶ白パンはいつも柔らかく、食事のたびに新しいものが用意されている。それがどのように作られ、どれほどの手間がかかっているのか、考えたこともなかった。
「白パンは、いつも邸の料理人さんが焼いて出してくれているのだと思いますよ。そうなると、前日から仕込みを始める必要がありますね」
イスズがそう言うと、プローブも感心したようにうなずいた。
「イスズさん、よく知っているねぇ。そうなんだよ。うちじゃ前の日に発酵種を整えて、翌日の仕込みに備えるんだ。朝になったら小麦粉や水と混ぜて生地をこねて、それから発酵させて形を整え、ようやく焼き上げる。生地の具合を見ながら進めなきゃいけないから、なかなか手間がかかるんだよ」
「発酵させるのにも時間がかかるんですね」
レオーネが感心したように言った。
「そうさ。季節によっても発酵の具合が違うし、思ったように膨らまない日だってある。だから、朝から仕込んですぐに焼けるってものじゃないんだよ。うちじゃ、白パンが店に並ぶのは早くても昼からさ」
レオーネは、いつも食べている白パンが、食卓に並ぶまでにそんな時間と手間をかけて作られているとは思ってもいなかった。
「……明日からは、白パンを残さず、よく味わって食べることにします」
その言葉に、プローブは目を細めた。
「そう言ってもらえると嬉しいねぇ。うちで作っているパンじゃないけど、同じパン作りに携わる者としては、そうやって大切に食べてもらえるのが一番嬉しいんだよ。坊ちゃん、ありがとうね」
プローブは心から嬉しそうに笑った。
レオーネは少し照れくさくなり、はにかみながら小さくうなずいた。
「いえ……」
自分が何気なく食べていたものにも、それを作る人の苦労がある。そのことを知り、明日からの食事が少し違って感じられそうだった。
そんな話をしているうちに、通りの先に小さな看板が見えてきた。焼きたてのパンの香ばしい匂いが、風に乗って漂ってくる。
「ほら、あそこだよ。うちの店さ」
プローブが指さした先には、こぢんまりとしたパン屋があった。店先には木製の棚が置かれ、焼き上がったパンが並べられている。
レオーネは興味深そうに店を見つめながら、イスズの隣を歩いていた。初めて自分で買い物をすることが楽しみで、つい足元への注意がおろそかになっていたのだろう。
そのとき、道のわずかな段差につまずいた。
「わっ!」
バランスを崩したレオーネの体を、イスズがとっさに支えた
「危ないですよ、レオーネ様!」
イスズは転ばないようにレオーネを抱き留めた。勢い余ったレオーネの顔は、彼女の胸元にすっぽりと埋まってしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
心配そうに尋ねるイスズの声が、すぐ頭上から聞こえる。
レオーネは慌てて顔を上げようとした。けれど、その瞬間、ふわりと柔らかな感触に気づいてしまった。
(……白パンみたいだ)
いつも食べている、柔らかくてふっくらとした白パン。そんな場違いな連想が頭に浮かんだ途端、レオーネの顔がかっと熱くなった。
(な、何を考えているんだ、僕は……!)
「レオ……、坊ちゃん? どこか痛めましたか?」
イスズが顔を覗き込もうとする。
「い、いえ! 大丈夫です!」
レオーネは慌ててイスズから離れた。幸い、転んだわけでもなく、怪我もしていない。けれど、今はとても彼女の顔をまともに見られそうになかった。
「そうですか。よかったです。でも、歩くときは足元にも気をつけてくださいね」
「は、はい……」
レオーネはうつむいたまま、小さく返事をした。
どうして自分がこんなに恥ずかしいのか、レオーネにはうまく説明できなかった。ただ、先ほどの感触を思い出すたびに、顔が熱くなってしまう。
そんなレオーネの様子を不思議に思いながらも、イスズは気に留めず、パン屋へ向かって歩き始めた。
その後ろ姿を見送ったストリーガとアージは、そっと顔を見合わせ、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。侍女のトレミーも口元を押さえ、レオーネに気づかれないように笑いをこらえている。
そんな三人とは対照的に、エルキャパだけは苦い顔でその様子を見つめていた。
レオーネは慌ててイスズの後を追ったが、隣に並んでからも、しばらくの間、彼女の顔をまともに見ることができなかった。




