第64話 水汲み
イスズが井戸のそばへ歩み寄ると、レオーネも興味深そうに後をついてきた。
井戸の周囲には、桶や水瓶を持った主婦や老婆たちが集まっていた。水を汲みながら、家族のことや近所の出来事、商店での買い物について楽しそうに話している。誰かが冗談を言えば、周囲から笑い声が上がった。
ところが、イスズたちが近づくと、先ほどまで賑やかだった井戸端が、急に静まり返った。
女たちは手を止め、互いに顔を見合わせながら、一行の様子を窺っている。レオーネの身なりは上質で、後ろには騎士のストリーガとアージが控えていた。さらに侍女のトレミーまで付き従っている。
これだけの護衛を連れた子供となれば、裕福な商家の子息か、貴族の子息に違いない。少なくとも、普通の町人が気軽に声をかけてよい相手ではなかった。
特に貴族に対しては、相手の気分を害すれば、無礼討ちさえ許されるという認識が広く残っている。実際にどこまで認められるかは別として、庶民にとっては、それだけで十分な脅威だった。
先ほどまで笑っていた女たちも、今は口を閉ざし、レオーネの一挙一動を気にしている。水を汲む手さえ、どこかぎこちなくなっていた。
その様子に気づいたイスズは、軽く頭を下げた。
「皆さん、申し訳ありません。今、授業の一環として、井戸の使い方や水汲みについてこの坊ちゃんにお話ししているのです。皆さんのお邪魔をするつもりはありませんし、ここで何か問題が起きたとしても、皆さんを罰するようなことはありません。どうぞ、いつもどおりにしていてください」
女たちは驚いたようにイスズを見つめた。
貴族の子息を連れた女性が、わざわざ頭を下げている。それだけでも意外だったが、何よりも、何があっても罰しないという言葉が彼女たちを安心させた。
やがて、強張っていた顔から少しずつ力が抜けていく。
「……そうかい。それなら、まぁ、いつもどおりにさせてもらうよ」
一人の老婆がそう言うと、ほかの女たちも小さく頷き、再び水汲みを始めた。もっとも、先ほどのように遠慮なく笑い声を上げるには、まだ少し時間がかかりそうだった。
そんな中、一人の女がイスズに気づき、声をかけてきた。
「おやまぁ、イスズさんじゃないか!」
「プローブさん! こんにちは。水汲みにいらしたのですね」
イスズも顔をほころばせた。
声をかけてきたのは、四十代ほどの、ふくよかな体つきの女性だった。人懐こい笑顔が印象的で、周囲の女たちと同じように、手慣れた様子で水を汲んでいる。
プローブはレオーネに目を向けると、少しばかり遠慮がちに頭を下げた。
「さっきは授業って言ってたけど、こちらのお坊ちゃんは、イスズさんの生徒さんなのかい?」
「ええ。今日は街の様子を見ながら、暮らしに関わることを学んでいただいているのです」
そう答えたイスズは、プローブの足元に置かれた桶に目を留めた。水がたっぷりと入っており、持ち運びやすいように取っ手が付いている。
イスズは何かを思いついたように、レオーネへ視線を向けた。
「プローブさん。その水の入った桶を、少しだけこの坊ちゃんに持たせていただいてもよろしいですか?」
プローブは怪訝そうに眉を上げた。
「えっ、この桶をかい? 構わないけどね。こんなものを坊ちゃんに持たせて、いったい何の意味があるんだい?」
「水汲みがどれほど大変な仕事なのか、坊ちゃんにも知っていただきたいのです。お話しするだけでは、実際の苦労までは分かりませんから」
イスズがそう答えると、すぐ横から声が飛んできた。見ると、別の主婦が腰に手を当て、呆れたような顔をしていた。
「そうだよ、まったく! うちの旦那なんか、水汲みの苦労も知らないくせに、いつも水を無駄に使いやがるんだ。あれを見るたび、頭をひっぱたいてやりたくなるよ!」
その言葉に、周囲の女たちがどっと笑った。
「分かる分かる! うちも同じだよ! 男ってのは、気づけば水が湧いてくるとでも思ってるんじゃないかね!」
「使った水を元に戻せるものなら自分で戻してみろってんだ!」
「水汲みは女の仕事だと勘違いしてるんだろうよ! ロクな稼ぎも持ってこないのにさ!」
女たちは顔を見合わせ、また大きな声で笑った。先ほどまでの緊張は、いつの間にか薄れていた。
今度は別の女が話に加わった。
「そういえば、聞いて送れよ、昨日うちの子が水瓶に手を突っ込んで、水をばしゃばしゃ汚していたんだよ。見つけたときは、もう腹が立ってねえ。顔を真っ赤にして叱ってやったよ。罰として、今朝はいちばんに水汲みをさせたんだ」
「そりゃいいね! 自分で運んでみれば、水汲みがどれだけ大事か分かるってもんだ!」
「そうそう。子供のうちに覚えさせないとねえ」
いつの間にか、井戸端は再び賑やかな話し声に包まれていた。プローブも楽しそうに笑いながら、桶の取っ手を持ち上げた。
「さあ、お坊ちゃん。持ってごらん。見た目よりずっと重いから、気をつけるんだよ」
レオーネはイスズを見上げた。自分で水桶を持ち上げてみたい気持ちはあったが、普段そんなことをした経験はないので、うまく持ち上げられるだろうかと、少し不安そうな様子だった。
イスズはストリーガへ目を向けた。護衛として問題がないか、確認するためである。ストリーガは一瞬だけ桶と周囲の人々を見渡したが、特に危険はないと判断したのだろう。小さく頷いた。
それを見て、イスズも頷き返す。
「坊ちゃん、せっかくですから、持たせていただきましょう」
「分かりました、イスズ先生」
レオーネはプローブに礼を述べ、桶の前に立った。
そして、取っ手を片手でつかみ、持ち上げようとした。しかし、桶はわずかに浮いただけだった。
「あれ……?」
もう一度、力を込めてみる。それでも、片手ではなかなか持ち上がらない。
レオーネは不思議そうに桶を見つめた。普段、食事の席で使う水差しなら片手で持てる。だが、この桶はそれとは比べものにならないほど重かった。水を含めれば、十五キロほどはあるだろうか。
その様子を見ていた主婦の一人が、笑いながら声をかけた。
「坊ちゃんくらいの年じゃ、片手じゃ無理だよ! 腰を落として、両手で持つんだ。腕の力だけで持ち上げようとするんじゃなくて、膝を曲げて、体全体で持ち上げるようにするのさ!」
「体全体で、ですか?」
「そうそう。ほら、こうやって!」
女は自分の体で動きを示した。レオーネは教えられたとおり、桶の前で膝を曲げ、両手で取っ手をしっかりと握った。そして、ゆっくりと腰を上げていく。
今度は、桶が地面から離れた。
「持ち上がりました!」
思わず声を弾ませるレオーネに、周囲の女たちから笑い声が上がった。
「おお、やったじゃないか!」
「そのまま、ゆっくり歩いてごらん!」
「気をつけるんだよ、下ろすときはそっと下ろすんだよ!」
レオーネは桶を両手で持ったまま、慎重に数歩進んだ。水が揺れて桶の中で音を立てる。そのたびに腕へ重みがかかり、思っていた以上に力が必要だった。
数歩歩いただけなのに、腕にずしりとした負担を感じる。レオーネは桶を持ち上げたまま元の場所へ戻ると、膝を曲げて、ゆっくりと地面に下ろした。
「ふう……皆さんは、これを毎日運んでいるのですね。こんなに重いとは思いませんでした!」
息をついてから、レオーネは桶とプローブを交互に見た。その言葉を聞いた主婦たちの表情が、自然と和らいだ。
貴族の子息なら、こんな仕事をする者たちの苦労など気にも留めないのではないか。そんなふうに思っていた者もいたのだろう。けれど、目の前の少年は、自分で桶を持ち、その重さを知ったうえで、素直に驚いている。
プローブは満足そうに笑った。
「そうだろう? うちは店をやっているからね。この桶で朝、昼、夕と、少なくとも三回は水を運んでいるんだよ」
「三回もですか!」
「店で使う分もあるからね。飲み水に炊事の水、掃除に使う水だって必要だ。家族だけで暮らしている家とは違うのさ」
すると、ほかの主婦たちも次々と口を開いた。
「うちは朝と晩の二回だね。朝のうちにたっぷり汲んでおくんだよ。でも、両手に一つずつ持って運ぶのさ!」
「うちは一日四回さ。子供が多いから、すぐになくなっちまう! 」
「うちは面倒だから、できるだけ一度にまとめて汲んでいるよ。そのぶん、一回の水汲みが大変だけどねえ」
「一回で済ませるって、どれだけ大きな桶を使ってるんだい?」
「大きけりゃいいってもんでもないんだよ。重すぎて運べなくなったら、元も子もないだろう!」
そんな調子で、話題はいつの間にか、それぞれの家の水汲み事情へと移っていた。
誰の家では何人分の水が必要なのか。どれほどの量を汲んでおけば夕方まで足りるのか。家に水を運ぶのは誰の役目なのか。
話は次から次へと広がり、女たちは笑いながら互いの暮らしを語り合っていた。
レオーネは、その様子を興味深そうに眺めていた。
これまで水は、屋敷で使いたいときに用意されているものだった。食事の前には手を洗う水が用意され、喉が渇けば飲み水が差し出される。
それが誰かの労働によって支えられていることは知っていても、実際にどれほどの手間がかかるのか、考えたことはなかった。
自分で桶を持ってみたことで、ようやくその一端が分かった気がした。
「皆さん、今日はありがとうございました。お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」
イスズが丁寧に頭を下げると、女たちは慌てて手を振った。
「いいんだよ、イスズさん! 坊ちゃんも、なかなか見どころがあるじゃないか」
「そうそう。自分で持ってみようってんだから、大したもんだよ!」
「またいつでもおいで。今度は水汲みのコツを教えてあげるからね!」
「ありがとうございます!」
レオーネが笑顔で礼を言うと、女たちは再び楽しそうに笑った。イスズはもう一度頭を下げ、一行を連れて井戸から離れた。
そのときだった。これまで少し離れたところから様子を窺っていた男が、足早に近づいてきた。
マイア付きの侍従、エルキャパである。彼は険しい表情でイスズの前に立つと、声を潜めながらも、咎めるような口調で言った。
「イスズ殿。少々、よろしいですかな。先ほどから拝見しておりましたが、なぜレオーネ様に、あのような庶民の仕事をさせたのですか?」
エルキャパは、先ほどまで女たちが集まっていた井戸を振り返った。
「水汲みなど、町の者たちが日々行っている仕事にすぎません。レオーネ様はインプレッサ伯爵家のご長男です。そのような労働の苦労を、わざわざご自身で体験していただく必要があるのでしょうか。お教えになるべきことは、ほかにいくらでもあるはずです」
「エルキャパ様は、そうお考えなのですね」
イスズは、穏やかな表情を崩さなかった。
「ええ。そもそも、あの者たちがレオーネ様に対して、無礼な振る舞いをする可能性もあったのです。身分の違いというものを、もう少しお考えいただきたい」
エルキャパの言葉には、苛立ちだけでなく、レオーネの身を案じる気持ちも含まれていた。
貴族の子息が、護衛を連れて町を歩く。それだけでも人々の目を引くのに、井戸端で庶民と気軽に言葉を交わし、持ち物まで手にするとなれば、思わぬ問題が起きるかもしれない。
万が一、誰かが不敬と受け取られる言葉を口にしたり、無礼な振る舞いをしたりすれば、相手がどれほど恐ろしい目に遭うか分からない。そうした身分社会の現実を、エルキャパはよく知っていた。
イスズは、そんな彼の懸念を否定しなかった。
「ご心配は分かります。ですが、だからこそ、先ほど皆さんにお伝えしたのです。何があっても、私たちがあの方々を罰することはない、と」
「しかし……」
「皆さんは、最初、私たちが近づいただけで口を閉ざしました。レオーネ様が何かをなさったわけでもないのに、です」
イスズは静かに続けた。
「皆さんは、貴族の子息を前にして、どのように振る舞えばよいのか分からなかったのでしょう。失礼があれば罰せられるかもしれない。そう考えれば、普段どおりに話すことさえ難しくなります」
エルキャパは、返す言葉を探すように口を閉じた。
「私は、皆さんに無理に親しくしていただきたいわけではありません。ただ、必要以上に恐れることなく、いつもどおりに過ごしていただきたかったのです。レオーネ様にも、町の人々がどのような暮らしをしているのか、実際に見て、知っていただきたかった。それだけですよ」
イスズは、レオーネへ視線を向けた。
少年はまだ、先ほどの桶の重さを思い返しているようだった。
「レオーネ様は、毎日水を汲んで運ぶことが、どれほど大変なのかまではご存じありませんでした。実際に桶を持ってみたことで、初めて分かったこともあったはずです」
「……」
「私は、そうした経験も大切な学びだと思っています。将来、領地を治める立場になられるのであれば、そこで暮らす人々が何に苦労しているのかを知っておくことは、決して無駄にはならないでしょう?」
エルキャパは黙り込んだ。
彼は、レオーネに必要なのは学問や礼儀作法、領地経営に関する知識であり、庶民の仕事を体験させることではないと考えていた。
しかし、イスズの説明にも一理あることは認めざるを得なかった。
何より、先ほどの井戸端を思い返せば、イスズが声をかけた後、女たちの表情は明らかに変わっていた。レオーネが桶を持ち上げたときには、まるで近所の子供を見守るような顔で、彼を励ましていたのである。
もちろん、それで身分の違いがなくなったわけではない。彼女たちが貴族を恐れる気持ちも、エルキャパの懸念も、簡単に消えるものではないだろう。
それでも、ほんの短い時間ではあったが、レオーネは彼女たちの暮らしに触れ、彼女たちもまた、レオーネという少年を少しだけ身近に感じたのかもしれない。
「……イスズ殿のお考えは分かりました」
エルキャパは、まだ納得しきれない表情ながらも、ひとまず引き下がった。
「ですが、今後もこのようなことをなさるのであれば、事前にご相談いただきたい。レオーネ様の安全を守ることも、私どもの務めですので」
「もちろんです。私も、皆さんに危険が及ぶようなことをするつもりはありません。今後は、きちんと相談させていただきますね」
イスズが微笑むと、エルキャパは小さく頷いた。
そのやり取りを聞いていたレオーネが、イスズの隣へ歩み寄った。
「イスズ先生。僕は、今日ここへ来てよかったと思います」
「そうですか?」
「はい。水を汲むことが、あんなに大変だとは思いませんでした。それに、皆さんが毎日どれほど水を使うのか、家によっても違うのですね」
レオーネは、先ほどの井戸を振り返った。
「僕は、屋敷で水を使うとき、誰がどれほど苦労して運んでいるのか、あまり考えていませんでした。これからは、もっと気をつけたいと思います」
イスズは優しく微笑んだ。
「それが分かっただけでも、今日の授業には意味があったと思いますよ」
レオーネは嬉しそうに頷くと、再び街の様子を眺め始めた。
その後ろ姿を見つめながら、エルキャパは複雑な表情を浮かべていた。イスズの教え方には、まだ思うところがある。だが、レオーネがこれほど楽しそうに学んでいる姿を見るのも、久しぶりのことだった。
彼は小さく息を吐くと、気持ちを切り替えるように一行の後を追った。




