第62話 糞尿から学ぶ領地経営
街の中へ入ると、そこには大勢の人々が行き交っていた。
荷物を抱えて足早に歩く商人や、店先で客を呼び込む者たち。通りには、親と手をつないで歩く子供や、腕を組んで楽しそうに笑う若い男女の姿もあった。
そこかしこで人々の話し声や笑い声が響き、街は活気に満ちていた。
レオーネはそんな街の様子を眺めながら歩いていたが、やがてイスズが足を止めた。ストリーガ、トレミー、アージもそれに倣い、通行の邪魔にならないよう道の端へ寄った。
少し離れたところでは、マイア付きの侍従エルキャパも一行の様子を窺っていた。イスズが領政や領民について教える実地研修を行うことは、事前に伯爵とマイアにも報告してある。
エルキャパは、イスズが領政に批判的な発言をしたり、レオーネに問題のある考えを教えたりしないか、注意深く見守っていた。
「レオーネ様。何かお気づきになりませんか?」
イスズに尋ねられ、レオーネは改めて周囲を見回した。しばらく人々の様子を観察していたが、やがて何かに気づいたように顔を上げる。
「みんな忙しそうにしているけれど……笑っている人が多い、ということでしょうか?」
「はい。よくお気づきになりましたね」
イスズが頷くと、レオーネの顔がぱっと明るくなった。自分で気づいたことが正しかったのが嬉しいらしい。
「このレイバックの街、いえ、インプレッサ伯爵領では、忙しく働いている人が多い一方で、笑顔を見せる人も多いのです。それは街だけではありません。農村へ行っても、皆さん忙しそうに働いていますが、明るい表情をしている人が多いのですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。もちろん、誰もがいつも笑っているわけではありません。それでも、領内全体に明るい雰囲気があることは、とても大切なのです」
イスズは、通りを行き交う人々へ目を向けた。
「人は周囲の雰囲気に影響されるものです。周りが明るければ、自分も前向きな気持ちになりやすいものです。反対に、街全体が暗い雰囲気だったら、自分まで気が滅入ってしまうかもしれません」
レオーネは、もう一度街の人々を見回した。忙しそうに働きながらも、互いに声を掛け合い、笑顔を交わしている。確かに、この街には活気だけでなく、明るさもあった。
「東方には『病は気から』という言葉もあります。心の持ちようが、体の調子にも影響するという意味ですよ」
「なるほど……」
レオーネは感心したように頷いた。ただ街を歩いているだけなのに、イスズはそこから人々の暮らしや領地全体の状態にまで話を広げていく。それがレオーネには面白かった。
「それと、レオーネ様はほかの街や村へ行かれる機会が少ないので、まだお分かりにならないかもしれませんが、この領内、特にレイバックの街は、とても綺麗なのですよ」
「綺麗……ですか?」
レオーネは不思議そうに首を傾げた。見慣れた街だけに、何が特別なのか分からない。
そのとき、桶をいくつも積んだ馬車が通りを進んでいった。イスズはそれに目を留め、レオーネに声を掛けた。
「あの馬車をご覧ください。あの桶には、家庭やお店から出た糞尿が入っているのです」
「……えっ?」
レオーネは思わず目を丸くした。
トレミーも驚いたように馬車を見つめた。糞尿の始末を担う者たちがいることは知っていたが、こうして集めて運んでいるとは知らなかったのだ。
ストリーガも意外そうに馬車を見送った。領地の治安や軍事には通じていても、下働きの仕事にまで詳しいわけではない。
レオーネは去っていく馬車を見ながら尋ねた。
「糞尿を……運んでいるんですか?」
「ええ。正確には、家庭やお店から出た糞尿を、あのように集めて運んでいるのです」
イスズは何でもないことのように答えた。
レオーネは馬車を見送り、それからイスズへ視線を戻す。
「でも、イスズ先生。どうして糞尿を集めるのですか? 捨てるためでしょうか?」
「いいえ。あれは、買い取っているのですよ」
レオーネは、ますます分からないという顔をした。
「買い取る? 糞尿を買うのですか? 普通は、お金を払って処分してもらうものではないのですか?」
「そう思いますよね。ですが、私はこれこそ、インプレッサ伯爵領の優れた施策の一つだと思っています」
イスズの言葉に、レオーネだけでなく、ストリーガとトレミーも顔を見合わせた。
糞尿を買い取ることが、領地の優れた施策。一体、どういうことなのだろうか。
少し離れたところで聞いていたエルキャパも、わずかに目を細めた。彼もまた、イスズの説明に耳を傾けている。
「では、レオーネ様。もし、ご自分の家から出た糞尿を、誰かがお金を払って引き取ってくれるとしたら、どうなさいますか?」
「ええと……決められた場所に集めておきます。そうすれば、買い取ってもらえますから」
「その通りです」
イスズは微笑んだ。
「人は、何かをすれば利益が得られるとなれば、それを積極的に行うようになります。つまり、糞尿を買い取る仕組みを作れば、領民が自ら回収に協力する動機になるのです」
「なるほど……」
「ほかの領地では、糞尿を道へ捨てたり、そのまま放置したりすることも珍しくありません。そうなれば悪臭が広がるだけでなく、水や食べ物が汚染され、病気が広がる危険もあります」
レオーネは周囲を見回した。確かに、この街では不快な臭いがほとんどしない。
「そのため、この領では糞尿を決められた場所以外に捨ててはならない、という規則も設けられています。さらに、回収した糞尿を買い取る仕組みによって、領民が自ら回収に協力するよう促しているのです」
「なるほど……。規則で禁じるだけでなく、領民にも利益があるようにしているのですね」
「その通りです。領民は糞尿を売って収入を得られ、領主は街を清潔に保ちやすくなります。双方に利益がある仕組みなのですよ」
レオーネは、馬車が去っていった方向を見つめた。規則で禁じるだけでなく、領民が自ら協力することで街を清潔に保つ。そんな仕組みが領民の健康にもつながっていることに、彼は感心していた。
「すごいですね……。糞尿を買い取るだけで、街まで綺麗になるのですね」
「ええ。ただし、これだけでは終わりません。レオーネ様は、あの集めた糞尿を、そのあとどうすると思いますか?」
「えっと……どこか遠くへ運んで捨てるのでしょうか?」
イスズはくすりと笑った。
「それでは、せっかくお金を使って集めた意味が薄れてしまいますね。実は、あれは農家にとって、とても価値のあるものに変わるのですよ」
レオーネは首を傾げた。ストリーガも腕を組んだまま、続きを待っている。
「糞尿を適切に発酵させると、作物を育てるための肥料になるのですよ」
「……えっ?」レオーネの顔に驚きが浮かんだが、すぐに何とも言えない表情へと変わった。
「ま、待ってください。糞尿を、野菜にかけるのですか?」
「いいえ、野菜に直接かけるわけではありませんよ。十分に発酵させたものを肥料として畑の土に混ぜ込むのです。土に養分を補い、作物が育ちやすくなるのですよ」
「で、でも……糞尿ですよ?」
レオーネは明らかに嫌そうな顔をした。イスズはその反応に小さく笑う。
「気持ちは分かりますよ。だからこそ、適切に発酵させて使うことが大切なのです」
「そうなのですか……」
「ほかにも、草食動物の糞を紙の原料や燃料にしたり、乾燥させた糞を建物の壁材に混ぜたりする地域もあります」
「か、壁にですか?」
レオーネは引きつった顔をした。トレミーも驚いた様子で、ストリーガは感心したようにイスズの話を聞いていた。
「土地によって、手に入りやすい材料も暮らし方も違います。そうした土地の事情に合わせて工夫することも、領地を治めるうえでは大切なのですよ。なかでも私は、糞尿を肥料として活用することが、農業にとって重要だと考えています」
イスズはそう説明してから、ふと思い出したようにストリーガへ顔を向けた。
「そういえば、ストリーガ様。これは、万が一のときに役立つかもしれない知恵なのですが」
突然話を振られたストリーガは、背筋を伸ばした。
「例えば、冬の戦で兵を率いて行軍しているとき、燃料が尽きてしまったら、どうなると思いますか?」
「それは……野営地で火を起こせなくなれば、暖を取ることも難しくなります。状況によっては、兵の体力にも関わりますな」
「そうですね。寒さが厳しければ、兵士の体力が奪われ、凍傷などの危険も増します。そこで、もし周囲に燃料となるものがほとんどなく、どうしても暖を確保しなければならない場合です」
イスズは、先ほどの馬車が消えていった通りの先へ目をやった。
「家畜の糞などは、適切に堆積させて発酵させると、内部に熱が生じます。その熱を利用する方法があれば、燃料が乏しいときにも役立つかもしれません」
「糞の発酵熱を……暖に使うのですか?」
ストリーガは驚いたように聞き返した。
「ええ。糞の堆積物は、発酵が進むと内部が六十度ほどになることもあります。ただし、熱が生じるまでには時間がかかりますし、それを暖房に利用するには工夫も必要です。すぐに使える方法ではありませんが、燃料が乏しいときに役立つ知識の一つではありますよ」」
「なるほど……」
ストリーガは真剣な顔で頷いた。戦場では、武器や兵糧、馬の管理、陣地の選び方など、考えなければならないことが多い。冬の行軍で兵士の体をどう守るかも、決して軽視できない。だが、その対策に糞尿の利用法が出てくるとは思いもしなかった。
「もちろん、臭いはかなりのものですけれどね」
イスズは、そう付け加えて笑った。
「はは……。確かに、それは覚悟が必要そうですな」
ストリーガは苦笑しながらも、イスズへの関心を深めていた。彼女は領地の衛生から農業、さらには軍事にまで話を広げ、どれも当たり前のことのように説明している。
単に書物から得た知識を披露しているだけではない。領地を治める者や、兵を率いる者の視点まで備えているように思えた。
なぜ、これほどの知識を持つ人物が、家庭教師としてインプレッサ伯爵家にいるのだろうか。ストリーガには、それが不思議でならなかった。
「……あ」
イスズは、そこでようやく自分が話し込んでいたことに気づいたらしい。
「少し話が脱線してしまいましたね。では、そろそろ街を散策しましょうか」
「はい、先生!」
レオーネは嬉しそうに返事をすると、イスズの手を取った。
そして、まるで早く次のことを教えてほしいと言わんばかりに、彼女の手を引いて歩き出す。
「レオーネ様、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
イスズは笑いながら、その歩調に合わせた。
ストリーガとトレミー、アージも、慌てて二人の後を追う。エルキャパもまた、一定の距離を保ちながら一行についていった。




