第61話 レオーネの宣言
伯爵邸を出た一行は、街へ向かって歩き始めた。
丘の上に建つ伯爵邸からレイバックの街までは、緩やかな下り坂が続いている。道の両脇には草木が茂り、ところどころに小さな花が咲いていた。
イスズはレオーネの隣を歩きながら、周囲に目を向けている。
「あ、レオーネ様。そちらの草は摘んでも大丈夫ですよ」
「これですか?」
レオーネが足元の草に目を向ける。
「はい。若いうちは食べられます。ただ、生で食べるより、さっと茹でたほうがいいですね。こちらの草も食べられますが、これは茎のほうを使います」
「草って、食べられるんですね……」
「食べられるものは意外と多いですよ。ただし、知らない草を勝手に口へ入れてはいけません」
イスズは少し先に生えている別の草を指差した。
「ほら、あちらは見た目がよく似ていますが、食用には向きません。似た植物でも、片方は食べられて、もう片方は毒ということもありますから」
「見ただけでは分からないですね」
「ええ。だから、知っているものだけにしておくのが一番です」
そう言いながら、イスズは道端に咲いている小さな花にも目を向けた。
「それから、花も同じですよ。花びらが綺麗だからといって、食べられるとは限りません」
「花まで?」
「花そのものではなく、茎や根に気をつけなければならないものもあります。中には汁に、人の体をおかしくするものを含むものもありますからね。少しただけなら何ともないものもありますが、量を間違えると意識がぼんやりしたり、ひどく苦しくなったりします。中には、癖になるものもあります」
イスズは花には触れず、そのまま通り過ぎた。レオーネは振り返って、その花を眺める。
「……綺麗なのに」
「綺麗なものほど危ない、というわけではありませんけどね。植物は見た目だけでは判断できないと思っておいたほうがいいです」
その話を聞いていたストリーガが、感心したようにイスズを見る。
「イスズ殿は、植物にもお詳しいのですな」
「詳しいというほどではありません。暮らしていくうえで必要なことを知っているだけです」
そう答えたイスズだったが、その直後、道端に生えていた茸を見つけると、足を止めた。
「……ああ、茸も勝手に採って食べてはいけませんよ」
レオーネが興味深そうに近寄る。
「茸は特に危険です。食べられるものは全体の一割ほど。毒のあるものも同じくらいで、残りは毒ではないけれど、苦かったり、固かったりして、とても食べられないものが多いです」
「じゃあ、毒じゃないものなら食べてもいいんじゃ?」
「それが難しいのです。食べられる茸と、毒のある茸がよく似ていることがあります。見分け方を知っているつもりでも、間違えることがあるんですよ」
「そんなに?」
「ええ。慣れた人でも間違えることがあります。ですから、茸に詳しい人が見てくれるのでなければ、知らない茸は食べないことです」
レオーネが真剣な顔で頷く。
「それから、鳥や動物が食べているから大丈夫、というのも駄目です。人間には毒でも、動物には平気なものがありますから」
ストリーガは思わず苦笑した。
「そこまで考えたことはありませんでしたな」
「知らなければ、知らないままでいいのです。危険なものを無理に試す必要はありませんから」
そう言って歩き出したイスズは、しばらくして道の脇を流れる小さな水路に目を向けた。
「水も同じですよ。川や沢の水が澄んでいるからといって、そのまま飲んではいけません」
イスズは水面を見ながら続ける。
「水の中には、目には見えないほど小さな悪いものが混じっていることがあります。それが腹に入ると、ひどく腹を壊したり、熱が出たりすることもあります。小さな虫のようなものが体の中に入り、長く苦しむこともあります」
「目に見えないのに……?」
イスズはレオーネに向き直った。
「だから怖いのです。飲み水にするなら、必ず一度、しっかり沸かしてください。沸かした水なら、そうしたものの多くを防げます」
レオーネが頷く。その横で、トレミーとアージも顔を見合わせていた。
「……私も、今まで川の水をそのまま飲むことがありました」
トレミーが小さく呟く。
「私もです」
アージも頷いた。
「ですから、これからは気をつけてくださいね」
イスズは二人にもそう言って、再び歩き出した。しばらくすると、今度は大きな木の根元に目を向ける。
「あの木の根は、食べられますよ」
「えっ、あれも?」
「はい。ただし、そのままでは固いので、きちんと下処理をしてからです」
レオーネは目を丸くした。
草、花、茸、水。歩き始めてから、まだそれほど時間が経っていないというのに、イスズは道端にあるものを見つけるたび、食べられるもの、危険なもの、扱い方まで次々と説明していく。
さらに少し進んだところで、イスズは茂みの奥を指差した。
「あそこには近づかないでください」
「何かいるんですか?」
「蛇がいるかもしれません。見えなくても、草むらに手を入れてはいけませんよ。蛇だけではありません。蜂の巣もそうですし、毛虫にも触らないほうがいいものがいます。野生の動物も、弱っているものには不用意に近づかないことです」
「弱っている動物も?」
「病気かもしれませんからね」
イスズはそこで一度足を止めた。
「それと、動物の死骸や糞にも触らないこと。水と同じで、目に見えない悪いものが付いていることがあります」
「……分かりました」
さすがのレオーネも、少し緊張した顔で頷いた。
そんな二人のやり取りを後ろから聞いていたストリーガは、次第に感心を通り越して呆れ始めていた。
「イスズ殿は、本当に何でもご存じなのですな。草木だけではありません。水や虫、動物まで……」
イスズは何でもないことのように答える。
「知らないと困ることばかりですよ。それに、街や領地を見るときも、道がどこを通っているかだけではなく、雨が降ったときに水がどこへ流れるのか、どこがぬかるむのか、どこなら人が身を隠せるのかを考えたほうがいいんです」
イスズは前方の道を指差した。
「あそこ、少しだけ道が高くなっていますでしょう? 雨が降っても水が溜まりにくい場所です。逆に、あちらの低いところは水が集まりそうですから、大雨の後は歩きにくくなるでしょうね」
レオーネが目を凝らす。
「……本当だ」
「道や土地は、普段だけを見るのではなく、雨の日や冬になったときまで考えるんですよ」
レオーネはすっかり夢中になっていた。ストリーガも黙って周囲を見渡している。
領地を持つ身として、道や水の流れを見ることはあった。だが、イスズのように、食べられる草から毒のある植物、水、虫、土地の高低まで一つにつなげて考えたことはない。
トレミーもアージも、すでに何度も驚かされている。
丘を下りるにつれて、眼下に見えるレイバックの街は少しずつ大きくなっていく。その道すがら、イスズは立ち止まることなく、身近なものを一つずつ拾い上げるようにして、レオーネへ教えていった。
それは、教室の中だけでは決して学べない、生きていくための知識だった。
しばらく歩いたところで、レオーネがふとイスズを見上げた。
「……先生。どうしてイスズ先生は、そんなに詳しいんですか?」
突然の問いに、イスズは少しだけ目を丸くした。
「どうして、ですか?」
「はい。草も、茸も、水も、動物のことも。僕は、そんなこと全然知りませんでした」
イスズは少し考えるように前を向き、それから苦笑した。
「そうですね……私の家は貴族とはいえ、辺境の貧しい騎士爵家でしたから」
「貧しかったのですか……?」
「ええ。今のインプレッサ伯爵家とは比べものになりませんよ」
イスズは冗談めかして笑った。
「野に生えている草や木の実、茸なども、食べられるものは食べないと飢えてしまうくらいには貧しかったんです。だから、生きていくために覚えてしまったのですよ」
「……」
レオーネは黙ってイスズを見つめた。イスズはそんなレオーネの視線に気づかず、また前へ向き直る。
「まあ、今となっては役に立つ知識ですけどね」
そう言って、イスズは小さく笑った。
その笑顔を見たレオーネの胸の奥が、きゅっと締まった。貧しかった。飢えてしまうほどだった。そんな暮らしの中で、イスズはこうして生きるための知識を一つずつ身につけたのだ。
レオーネには、その苦労がどれほどのものだったのか、まだ想像することもできない。ただ、イスズがそんな思いをしていたことが、なぜだか嫌だった。
気づけば、声が出ていた。
「だったら……」
「はい?」イスズが振り向く。
レオーネは少しだけ頬を赤くしながら、それでも真剣な顔でイスズを見上げていた。
「だったら、僕がイスズ先生を養ってあげます! 僕が、イスズ先生を一生守ります!」
思わず言い切ってしまった。
自分でも、なぜそんなことを口にしたのか分からない。ただ、イスズが昔、貧しい暮らしをしていたと聞いて、それが嫌だった。もうそんな思いをしてほしくない。これからは、自分が守ってあげたい。
ただ、それだけだった。
イスズはしばらく目を瞬かせていたが、やがて、その言葉の真っ直ぐさが可笑しくて、そして何より嬉しくて、ふっと頬を緩めた。
「まあ……ありがとうございます。嬉しいです」
イスズは少し照れたように笑うと、くすりと声を漏らす。
「ふふ。では、そのときはよろしくお願いしますね」
「はい!」
レオーネは元気よく答えた。
自分が何を約束したのか、その言葉がどんな意味に聞こえるのか、本人にはまだよく分かっていない。ただ、イスズが嬉しそうに笑ってくれたことが嬉しかった。
一方、その後ろでは、ストリーガが何とも言えない顔をしていた。トレミーも困ったように口元を押さえ、アージは二人の顔を見てから、もう一度レオーネとイスズを見る。
今のやり取りを大人の目から見れば、「僕が一生、あなたを養います。僕があなたを守ります」と宣言した男性に、女性が「ありがとうございます。嬉しいです。では、そのときはよろしくお願いします」と答えたことになる。どう聞いても、まるで――。
だが、三人とも何も言わなかった。レオーネ本人には、その意味など少しも分かっていないのだから。しかもイスズも、そんな深い意味など考えず、ただ純粋な優しさとして受け取っている。
それが分かるだけに、ストリーガたちは苦笑するしかなかった。なんとも微笑ましく、同時に、少々いたたまれない。けれど、それ以上に温かな気持ちになる、そんなやり取りだった。
「……まあ、よいですかな」
ストリーガが小さく呟くと、アージも苦笑しながら頷いた。
「はい……そうですね」
トレミーも黙って頷く。
当の二人は、そんな大人たちの微妙な空気にも気づかない。レオーネは嬉しそうにイスズの隣を歩き、イスズもまた、そんなレオーネを見て自然と微笑んでいた。
丘の下には、レイバックの街がもうすぐそこまで近づいていた。




