第60話 ストリーガの求婚
ストリーガは、イスズの話を聞き終えても、しばらく街並みを眺めたまま黙っていた。
この領都レイバックの防衛戦略は、インプレッサ伯爵家にとって秘中の秘である。
地形の利用から敵の誘導、兵の配置、街中での防衛戦、そして最後の籠城に至るまで、代々の当主と重臣たちが練り上げ、受け継いできたものだった。
それを、街並みを眺めただけで次々と読み解いてしまうとは。
ストリーガは、改めてイスズという女性のことを考えていた。
実のところ、彼はイスズがレオーネの家庭教師になった当初、その指導方法に懐疑的だった。
これまでの家庭教師とは、あまりにも違う。一般的な教本に沿って知識を教えるのではなく、時には勉強とは関係のないようなことまで授業に取り入れ、常識外れとも思える方法でレオーネに接していた。
実際、インプレッサ伯爵からイスズの家庭教師ぶりについて意見を求められた際には、否定的な返答をしたこともある。
しかし、今となっては、その考えが間違っていたことを認めざるを得なかった。
以前のレオーネは、家庭教師との授業中、いつも憂鬱そうに俯いていた。身体を揺らしたり、突然席を立って歩き回ったりと、勉強に集中できないことも珍しくなかった。
家庭教師も長続きせず、数か月で交代することもあれば、わずか数週間で辞めてしまうことさえあった。
ストリーガも、そんなレオーネの将来を心配していた。
レオーネの一つ下の弟、ソルテラは賢く、武術にも魔法にも優れている。しかも、その母親はインプレッサ伯爵の正妻だった。
一方、レオーネの母親は側室である。
もちろん、ストリーガは自分が護衛を務めているレオーネに、できることなら伯爵家を継いでほしいと思っていた。長く護衛を続けるうちに、主従という関係を超えた情も湧いている。
だが、勉強も魔法も武術も、そして本人の性格も、当時のレオーネでは、伯爵家を継ぐには厳しいのではないか。そんな思いが、ストリーガの中にはあった。
しかし、イスズが家庭教師になってから、レオーネは少しずつ変わっていった。
勉強に興味を持ち、自分から質問するようになり、何より表情が明るくなった。今では、イスズの授業を心待ちにしていることが、傍から見ていても分かるほどだった。
最初は認めたくなかったが、今ならはっきりと言える。
(……レオーネ様には、イスズ殿の指導がぴったりだったのだな)
そして、今日の防衛構想である。
知識が豊富なだけではない。目の前にあるものから情報を読み取り、そこに込められた意図を推測する。その思考力は、領地を治めるうえでも大いに役立つはずだ。
ストリーガ自身も、騎士爵として小さいながら領地を持っている。
ただし、今は領地を離れてインプレッサ伯爵家に仕えているため、領の政務は弟が代官として取り仕切り、引退した父もその傍らで助言をしている。ストリーガは折に触れて報告を受け、領主としての務めを果たしていた。
その領地は敵国との国境に近く、過去には侵攻を受けたこともある。これから自分が領主として領地を治めていくうえで、軍事や政治、民の暮らしについて共に考えてくれる伴侶がいれば、どれほど心強いことだろう。
そして、今、目の前にいるイスズは、その条件をあまりにも見事に満たしていた。
(……このような女性が妻になってくれたら、どれほど助かるだろうな)
そこに恋愛感情はなかった。
ただ、自分の領地を守り、発展させていくうえで、これほどの女性はそうそういない。そんな領主としての現実的な考えが、ストリーガの頭に浮かんだだけだった。
そして、その考えは、あまりにも自然に口から出てしまった。
「イスズ殿。よろしければ、私の妻になっていただけませんか?」
「…………え?」
イスズが目を丸くした。
トレミーも、アージも、そしてレオーネも、突然の言葉に固まっている。
次の瞬間、真っ先に声を上げたのはレオーネだった。思いのほか大きな声だった。
「だめ! イスズ先生は僕の家庭教師なんだから!」
その剣幕に、ストリーガはようやく我に返った。
(……しまった!)
そうだった。今はレオーネの実地研修で、屋敷の門を出たばかりではないか。
イスズの話にあまりにも感心してしまい、同僚のアージや侍女のトレミー、何よりレオーネがいることまで忘れて、つい口に出してしまったのだ。
横を見ると、イスズもトレミーも驚いた顔をしている。アージに至っては、何とも言えない表情でこちらを見ていた。
ストリーガは、気まずそうに苦笑した。
「いや、申し訳ありません。先ほどのイスズ殿のお話に、街並みを見ただけで、ここまで防衛の意図を推察されたことに感心してしまいまして。このような方がそばにいてくだされば、さぞ心強いだろうなどと考えているうちに、つい妙なことを口にしてしまいました。……冗談ですので、どうかお忘れください」
「そ、そうだったのですね……」
イスズは、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「私のような行き遅れの者では、ストリーガ様にはもったいないですわ」
「いえ、決してそのようなことは……」ストリーガは反射的に否定しかけた。
実際、イスズの能力を考えれば、もったいないどころか、ぜひとも妻に迎えたいくらいである。だが、隣ではレオーネが、今にも再び抗議しそうな顔でこちらを睨んでいる。
「……いえ、何でもありません」
結局、ストリーガは苦笑いを浮かべるしかなかった。
一方、レオーネは、イスズがストリーガの妻になってしまうかもしれないという想像だけで、胸の中がざわざわしていた。
(イスズ先生は、僕の先生なんだから……!)
もちろん、それが家庭教師としての意味だけではないことを、レオーネ自身もまだよく分かっていなかった。
イスズは何事もなかったかのように、再び街並みへ視線を戻した。けれど、胸の内には、先ほどのやり取りがまだ残っている。
まさか、いきなり結婚を申し込まれるとは思ってもいなかった。冗談だと分かって、ほっと胸を撫で下ろしたのは確かだった。
それでも――少しだけ、残念に思った自分がいた。
二十二歳にもなって、まだ嫁にも行かず、行き遅れだと散々からかわれてきた身である。だからこそ、冗談でも自分を妻に、と言われたことが、思いのほか嬉しかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、イスズはふと隣のレオーネを見た。
先ほど、ストリーガが口にした途端、真っ先に声を上げた少年。あれほどまでに露骨に嫌そうな顔をされるとは思わなかったが、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ――嬉しかった。
十二歳も年下の少年なのに、どうしてこんなにも気になるのだろう。
イスズ自身にも、その理由はまだ分からない。
ただ、レオーネの顔を見ていると、いつの間にか頬が緩んでいる自分に気づいた。
「では、レオーネ様。せっかくですから、実際に街を歩きながら、もう少し詳しく見ていきましょうか」
「は、はい!」
レオーネは慌てて返事をした。
その様子を見て、イスズはまた小さく微笑んだ。
なぜ自分がこんな顔をしているのか、そのときのイスズには、まだ分からなかった。
こうして、レオーネにとって特別な一日が、思いもよらない波乱とともに始まったのだった。




