第58話 実地研修という名のデート?
そして、その数日後。
これまでの授業を踏まえ、レオーネとイスズは実際に街へ出て、その様子を自分の目で確かめる実地研修を行うことになった。
レオーネは、これまでにも馬車で街中を移動したことはあった。しかし、自分の足で街を歩くのは今回が初めてだった。
普段は広い屋敷の庭で散策したり遊んだりするほか、武術や魔法の授業、鍛錬まで、すべて敷地内で行っている。たまに外出するときも馬車で移動するため、自分の領内にある街であっても、これまで一度も歩いたことがなかったのだ。
もっとも、これはレオーネだけが特別というわけではない。上位貴族の子弟であれば、珍しいことではなく、ごく当たり前のことだった。
ただ、今回の外出には、もう一つレオーネにとって楽しみなことがあった。
今日は、少額ながら自分のお小遣いを持ち、買い物に使うことを許されていたのである。その額は、わずか一枚の銅貨(日本円に換算すれば、約千円ほど)。
それでも、レオーネにとっては、自分の判断で何かを買うことのできる大切なお金だった。
(何を買おうかな……)
そんなことを考えるだけでも、自然と頬が緩んでしまう。
もちろん、レオーネには街の様子を学ぶという大切な目的がある。けれど、イスズと一緒に街を歩き、自分のお小遣いで何かを買えるという初めての経験に、胸を弾ませていたのだった。
実は、レオーネがこの日を楽しみにしていたのには、もう一つ理由があった。
きっかけは、数日前に耳にした侍女たちの会話だった。
たまたま廊下を通りかかったレオーネは、部屋の中から聞こえてきた楽しそうな声に足を止めた。若い侍女たちが、休憩時間に恋愛話に花を咲かせていたのである。
「この前、彼と街へ出かけたんですけど、もう楽しくて!」
「まあ、デートですか?」
「ええ。何を話していても楽しいんですよ。相手が笑ってくれるだけで嬉しくなりますし、ちょっと目が合っただけでもドキドキしてしまって」
「分かります! 私なんて、この前、歩いているときに手が触れただけで、心臓が口から飛び出るかと思いましたもの」
「ふふっ、そんなに?」
「本当ですよ! それで、帰りには手を繋いで歩いたんです。夕暮れの街を二人で……もう、夢みたいでした」
「素敵ですねえ。私も早くそんなデートがしてみたいです」
そんな会話が続いていた。
レオーネは、聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がして、その場を離れようとした。けれど、侍女たちの話があまりにも楽しそうで、つい聞き入ってしまったのである。
二人で喫茶店へ行き、甘いスイーツを食べながら話をする。帰り道には手を繋いで歩く。どうやら、そんな時間がデートというものらしい。
レオーネは、その話を聞きながら、いつか自分もそんな時間を過ごしてみたいと思った。
そんな話を聞いたレオーネにとって、今回のイスズとの外出は、いつも以上に楽しみなものになっていた。
もちろん、侍女たちが話していたようなデートとは違う。護衛も付き従うし、街を見て回るのもイスズによる授業の一環だ。イスズ本人も、これは実地研修だと言っていた。
それでも、イスズと一緒に街を歩ける。そのことが、レオーネには何より嬉しかった。
昨夜、ベッドに入ったレオーネの頭の中では、いつの間にか楽しい妄想が膨らんでいた。
イスズと二人で喫茶店に入り、向かい合って座る。そして、顔を寄せ合いながら、楽しそうに話をする。
街を散策しながら、イスズ先生に似合う髪飾りやネックレスを一緒に選ぶ。そして、今日は少しだけ自分のお小遣いを使ってもよいことになっているのだから、選んだものをプレゼントできたら素敵だろう。
そして、屋敷へ帰る夕暮れ時には、二人で手を繋いで歩けたら……。そこまで考えたところで、レオーネは枕に顔を埋めた。
(……いや、さすがにそれは無理かな)そう思いながらも、想像するのをやめられない。
結局、お散歩のことを考えるだけで胸が弾み、次々と妄想が膨らんで、なかなか寝つけなかった。おかげで今朝は少し寝不足だったが、それさえもレオーネには気にならなかった。
そして、いよいよ当日の朝。
玄関には、レオーネとイスズ、侍女のトレミーが集まっていた。今回の護衛を務めるのは、いつものストリーガと、その同僚のアージである。
本来であれば、護衛はもっと多い方が望ましい。しかし、ここはインプレッサ伯爵家のお膝元である領都レイバックだ。街中では兵士たちが巡回し、治安維持に努めている。
それに、街を散策するのに、いかつい兵士が何人も付き従っていては、かえって目立ってしまう。そのため、ストリーガとアージはレオーネたちと少し距離を置き、周囲に溶け込むように護衛することになっていた。
やがてイスズと顔を合わせたレオーネは、嬉しさを隠しながら挨拶しようとした。ところが、その前にイスズが心配そうに声をかけてきた。
「レオーネ様、お顔の色が優れないようですが、大丈夫ですか? 目の下に隈もできていますし、今日は無理をせず、延期した方がよろしいのではありませんか?」
「だ、大丈夫です! 全然平気ですから!」
レオーネは慌てて首を横に振った。すると、後ろで控えていたトレミーが、くすりと笑った。
「レオーネ様は、今日のイスズ様とのお散歩が楽しみで、昨夜はなかなか寝つけなかったのではございませんか?」
「えっ……そ、そんなことは……!」
否定しようとしたものの、言葉が続かない。頬がみるみる赤くなっていく。
そんなレオーネを見て、イスズは不思議そうにトレミーへ視線を向けた。
「トレミーさん、今日はただの実地研修ですよ」
「そうですね。ですが、昨夜からレオーネ様が何度も『お散歩』とおっしゃっていたものですから」
「ト、トレミー!」
レオーネは思わず声を上げた。トレミーは悪びれる様子もなく、楽しそうに微笑んでいる。
イスズは小さく息をつくと、レオーネへ向き直った。
「楽しみにしてくださるのは嬉しいですが、寝不足ではお勉強に差し支えますよ。今日はあまり無理をなさらないでくださいね」
「は、はい……」
イスズに心配をかけてしまった。それでも、自分のことを気遣ってくれるイスズの言葉が、レオーネには嬉しかった。
(イスズ先生と一緒に街をお散歩するんだ……)そう考えるだけで、また胸がドキドキしてくる。
こうして、レオーネにとっては特別な一日が始まった。
屋敷を出た一行は、正門へと向かった。
門の脇には兵士の詰め所があり、ストリーガが声をかけると、詰め所の兵士たちはすぐに応じ、重厚な正門を開いた。
「このインプレッサ伯爵家の方が外出される際は、必ず正門から出ることになっているのです」
ストリーガが説明すると、イスズは少し意外そうに門を見上げた。
「そうなのですね。私はいつも勝手口から出入りしておりますので、正門から出るのは今日が初めてです」
門を抜けると、その外には門番が立っていた。
ストリーガとアージが軽く手を挙げて挨拶すると、門番はレオーネの姿に気づき、すぐに姿勢を正して敬礼した。レオーネも小さく頷いて応じる。
そして、門の外へ出た一行の目の前に、レイバックの街並みが広がった。
初めて自分の足で歩く領都の景色に、レオーネは思わず目を輝かせた。今日はイスズと一緒に街を歩き、その様子を学ぶことができる。
期待に胸を膨らませながら、レオーネの初めての実地研修が始まった。




