第56話 領地を治めるということ
三日目の授業。
いつものように、レオーネの前へ地図が広げられた。
「では、前回のお話の続きをしましょう」
レオーネは嬉しそうに頷いた。
「前は、市場を見ると、領地で何が起きているのか分かるっていう話でしたよね。では今日は、もう一歩進んで考えてみましょう。市場で何が売れているのかを見ると、何が分かるでしょうか?」
「……何が売れているかですか? それが分かると……みんなが何を欲しがっているかが分かる?」
「その通りですね」
イスズは、黒板にいくつかの品物を書いた。食料。衣服。農具。建築材料。燃料。塩。酒。嗜好品。
「例えば、この村では農具がたくさん売れているとしましょう。では、なぜ売れているのでしょう?」
レオーネは少し考えた。
「農具が壊れたから?」
「もちろん、それも考えられますね」
「でも……農地を増やしているのかもしれないし、新しく畑を作っているとか、かな」
イスズは頷いた。
「その可能性もあります。では、反対に、農具がほとんど売れなくなったらどうですか?」
「農民が農具を必要としなくなったから…農業をやめた人が増えたとか? それとも、お金がなくて買えないから?」
「その可能性もありますね」
レオーネは黒板の文字を見つめた。
「同じ『農具が売れない』でも、理由はいろいろあるんですね」
イスズは農村を指した。
「ええ。だから、数字だけを見て終わりにしてはいけません。なぜそうなっているのかを考える必要があります」
「市場を見るだけで、そんなことまで分かるんですか?」
イスズは静かに答えた。
「市場だけでは分かりませんよ。ですが、市場には領民の暮らしが反映されます。そこから気になることを見つけて、実際に農村へ行ったり、商人に話を聞いたりすれば、原因を探ることができます。例えば、食料ばかりがよく売れて、農具がほとんど売れていない村があったとしましょう。その場合、領主は『農具が売れていない』という事実だけで判断せず、『なぜだろう』と考える必要があります」
「農民がお金を持っていないのかもしれない、農地が減っているのかもしれない、それとも、農具が高すぎるとか……」
「ええ。どれも考えられますね」
レオーネは、少しずつ自分で考えることが楽しくなってきたようだった。
「じゃあ、逆に建築材料がたくさん売れていたら、どう思いますか?」
「家を建てている人が多い……とか、村の人口が増えているのかもしれない」
イスズは頷いた。
「その通りです。市場で何が売れているのかを見るだけでも、領民がどんな生活をしているのか、その一端が見えてきます」
レオーネは感心したように地図を見る。
「市場って、ただ物を売る場所じゃなかったんですね」
イスズは笑った。
「そうですよ。前回もお話ししましたが、市場は領地の様子を映す鏡のようなものです」
「じゃあ、領主様は市場をちゃんと見ないといけないんですね」
「はい。ただし、市場だけを見ればいいわけでもありません。領主には、もう一つ見なければならないものがあります」
イスズは黒板に大きく一文字を書いた。
『税』
レオーネは少しだけ表情を曇らせた。
「税金って、領主様が領民から取るお金ですよね?」
「そうですね。ただ、それだけだと少し見方が一方的です」
イスズは農村の絵を指した。
「農民が麦を作ります。その麦を自分たちで食べることもあれば、余った分を売ることもあります。そうして得た収入の一部を、税として納めます」
今度は領主館を指す。
「領主は、その税などから得たお金を使って、街道を整備したり、川の氾濫を防いだり、兵士を置いたり、行政を行ったりします」
「昨日までの話とつながってるんですね……」
イスズは頷いた。
「そういうことです。領民が働く。物を作る。物を売る。お金を得る。そして、その一部が税として領主のもとへ入る。そのお金が領地を維持するために使われる」
「じゃあ、税って、領主様のお金になるだけじゃないんですね」
「ええ。領地を運営するために使われるお金でもあります」
レオーネは納得したように頷いた。
「だったら、税金をたくさん取れば、領主様はもっとたくさんお金を使えるんじゃないですか?」
イスズは、少しだけ考えるような顔をした。
「では、レオーネ様。税を今よりずっと高くしたら、領主の収入も同じように増えると思いますか?」
「……なるんじゃないんですか?」
「では、農民から今までよりずっと多くの税を取ったら?」
「農民のお金が減る。そうしたら、服とか農具とかを買うお金も減る?」
「そうですね」
「じゃあ、商人や職人も困るんだ……」
「その通りです」
レオーネは、はっとしたように顔を上げた。
「税を増やしたら、領主様のお金は増えるけど……領民が使えるお金は減る。そうすると商売も減って、領民が作るものも売れなくなって……そしたら、今度は税を払う人たちそのものが苦しくなってしまう」
イスズは頷いた。
「その可能性があります。税は、ただ高くすればいいというものではありません」
「じゃあ、税を安くすればいいんですか?」
イスズは街道や川、領主館を順に指した。
「それも簡単ではありません。税を下げすぎれば、今度は領主側のお金が足りなくなります。道を直すこともできなくなります。川の工事もできなくなるかもしれません。兵士を維持することも、行政を続けることも難しくなります」
「……どっちも困るんですね」
イスズは微笑んだ。
「そういうことです。領主にとって大切なのは、領民からどれだけ取れるかだけではありません。領民がこれからも暮らし、働き、商売を続けられるようにしながら、領地を維持できるだけの収入を確保することです」
レオーネは黙って地図を見つめた。
農村。街。市場。工房。街道。そして領主館。
これまでイスズと一緒に勉強してきたものが、頭の中で一つにつながっていく。
農民が作物を作る。商人がそれを運ぶ。職人が道具を作る。人々が物を買う。商売が行われれば、お金が動く。
その中から税が納められ、そのお金で領地が維持される。
「……全部、つながってるんですね」
イスズは静かに頷いた。
「ですから、領主が領地を治めるなら、領民がどのように暮らしているのかを知らなければなりません。何が売れているかを見て、何が起きているのかを考える」
レオーネは、しばらく考えてから口を開いた。
「農村の様子も見て、商人の話も聞いて……そうやって、領地全体を見るんですね。昨日、イスズ先生が言っていた『領地は、そこに住んでいる人たちがそれぞれ仕事をして暮らしているから成り立っている』っていう意味が、少し分かった気がします」
イスズは嬉しそうに微笑んだ。
「それは良かったですね。領主は、領民の上に立っているだけではありません。領民が安心して暮らし、働けるようにする。そのために、領地で何が起きているのかを知り、必要なことを考えるのです」
イスズは、真剣に話を聞くレオーネを見つめた。
これまでの授業でも、レオーネは一度も学ぶことを疎かにしなかった。分からないことがあれば素直に尋ね、教えたことはそのまま覚えるだけではなく、自分なりに考えようとしている。
そんな姿を見ていると、レオーネなら、きっと良い領主になるだろうと、イスズは思う。
そして、ふと、この先もそばにいて、その成長を見守ることができたら――そんなことを思った。
自分が教え、支えながら、立派な領主になっていく姿を見届ける。それは、悪くないように思えた。
けれど、そのとき、不意に別の考えが頭をよぎった。
――もし、レオーネの妻だったら。
「……え?」イスズは、自分でも驚いたように瞬きをした。
いや、何を考えているのだろう。レオーネとは、親子ほども年が離れている。そんなこと、あり得るはずがない。
イスズは小さく息を吐き、今の考えを頭の隅へ追いやった。
ただ、立派な領主になるまで、できることなら、その成長を見守っていたい。それだけは、なぜか強く思った。
イスズは小さく息を吐くと、再びレオーネへ目を向けた。
レオーネは頷いた。
「……じゃあ、領主様って、ずっと領民のことを見てないといけないんですね」
イスズは少しだけ笑った。
「そうですね。だから、領主になるというのは、大変な仕事なのですよ」
レオーネは苦笑して「やっぱり大変なんだ……」そう言った。
「ええ。でも、だからこそ、いろいろなことを知っておく必要があります」
イスズは黒板を振り返った。
そこには、この三日間で書いた言葉が残っている。
『領地』『領民』『市場』『商人』『税』
その文字を一つずつ見ながら、イスズは言った。
「これまでのお話は、すべてつながっています。領地に住む人々が、それぞれの仕事をする。市場で物が売買される。商人が物を必要な場所へ運ぶ。そして、そこで生まれたものや収入の一部が税として領主へ納められる」
「……それで、領地が回っていく」
イスズは頷いた。
「ですから、領主が領地を治めるということは、ただ税を集めたり命令を出したりすることではありません」
レオーネは、イスズの言葉を待った。
「その土地で暮らす人々が、どのように働き、何を必要とし、何に困っているのか。それを知り、その上で領地をどうしていくのかを考えることなのです」
レオーネは、地図へ目を戻した。
昨日までなら、ただの村、街、市場、街道にしか見えなかった。
今は違う。その一つ一つに、人がいる。
働く人がいて、物を作る人がいて、物を運ぶ人がいて、それを買う人がいる。
そして、そのすべてがつながっている。
「……なんだか、前よりこの地図が大きく見えます」
「ふふ。そうかもしれませんね」
イスズは地図を見つめるレオーネを見て、穏やかに微笑んだ。
「では、今日はここまでにしましょう」
「はい!」
レオーネは元気よく返事をした。
三日間の授業を終えても、その地図はしばらく目の前に残っていた。




