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学院にも行けなかった貧乏騎士爵令嬢、家庭教師として育てた伯爵家長男に人生で初めて愛されました  作者: 太童好喜


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第55話 変わりゆく少年と、イスズの心

翌日の授業。


イスズは、前回と同じ地図をレオーネの前に広げた。


「今日は、前回のお話の続きをしましょう」


レオーネはすぐに地図を覗き込んだ。


「前は、農民や職人、商人がみんなつながっている、というお話でしたよね」


イスズは微笑んだ。


「よく覚えていましたね。では今日は、その人たちが実際に物を売ったり買ったりする場所について考えてみましょう」


そう言って、イスズは地図の中央にある街を指した。


「レオーネ様。ここに市場があります。そこは何をする場所でしょう?」


「物を売ったり、買ったりするところです。商品が集まって、それを欲しい人が買う。売った人は、そのお金で別のものを買うんですよね」


イスズは頷いた。


「その通りです。市場では、物だけでなく、お金も人から人へ動いていきます」


イスズは、地図の上に小さな札をいくつか並べた。麦、塩、布、農具、木材。


「では、ここで少し考えてみましょう」


イスズは麦の札に目を向ける。


「この市場で、いつもは一袋の麦が鉄貨五枚で売られていたとします。ところが、ある日突然、鉄貨十枚になりました」


「倍になったんですか……麦が足りなくなったのかな」


「その可能性がありますね。今年の不作や、商人の減少、街道が使えなくなって麦を運べないといった事情も考えられます。他の町でも麦が不足し、そちらへ多く運ばれるようになった場合もあるでしょう」


少し考え込んでいたレオーネが、顔を上げた。


「じゃあ、麦を欲しがる人が急に増えた場合も?」


「そうです。商品が少なくなっただけではなく、欲しい人が増えた場合にも、値段は上がりやすくなります」


そして、イスズは麦の札を増やした。


「例えば、市場に麦が十袋しかないのに、百人が欲しがれば、買いたい人同士で競い合うことになり、値段が上がりやすくなります。反対に、百袋あるのに十人しか欲しがらなければ、売れ残ってしまいます。そうなれば、売り手は値段を下げてでも売ろうとするかもしれません」


「じゃあ、欲しい人が多かったり、物が少なかったりすると、値段が上がるんですね」


「ええ。それ以外にも、材料費、運ぶためのお金、働く人への給金、税、保管するためのお金、季節や天候、他の地域での値段など、いろいろなものが関係します」


札を見つめていたレオーネが、ふと疑問を口にした。


「じゃあ、領主が『麦は鉄貨五枚で売りなさい』って決めても、それで終わり……じゃないんですか?」


イスズは静かに首を振った。


「そう簡単にはいきません。例えば、麦を作るために必要なお金や、街まで運ぶためのお金が鉄貨六枚かかるのに、領主が五枚で売るよう命じたら、売る側は損をしてしまいますね。そうなれば、農民や商人が売らなくなるかもしれません」


イスズは麦の札を一枚、地図の外へ動かした。


「価格というものは、ただ数字を決めればいいわけではありません。実際に物を作る人、運ぶ人、売る人、買う人。それぞれの事情が関係しているのです」


レオーネは頷いた。


「……じゃあ、市場を見ると、いろんなことが分かるんですね」


イスズは、市場の場所を指した。


「そこが、今日のお話で一番大切なところです。市場は、ただ物を売る場所ではありません。そこを見れば、その領地で何が起きているのかを知る手がかりがたくさんあります」


「例えば、さっきの麦ですか?」


「はい。突然、麦の値段が上がったとしましょう。領主がそれを見て、『麦が高くなった』だけで終わらせてしまったら、原因は分かりません。農村で不作が起きているのか、街道に問題があって麦が運ばれてこないのか、商人が減っているのか、あるいは別の地域で大量に麦を必要としているのか。原因によって、必要な対応も変わってきます」


「同じ値上がりでも、理由が違うんですね」


「その通りです。だから市場を見るときには、値段だけでなく、何が売れているのか、何が売れ残っているのか、何が不足しているのか、どこから商品が来ているのか。そして、以前と比べて何が変わっているのかを確かめるのです」


レオーネは、少し考えてから市場を見た。


「市場は、領地で起きていることを教えてくれるんですね」


イスズは微笑んだ。


「市場は、領地の様子を映す鏡のようなものだと考えてもいいでしょう。すぐにすべてが分かるわけではありませんが、領民が何に困っているのか、何かがおかしいということには気づけます」


「例えば、塩の値段が急に上がった場合も?」


「そうですね。塩を作っている場所で何かあったのかもしれませんし、途中の街道が使えなくなったり、商人が来なくなったりした可能性もあります」


少し得意そうに笑うレオーネ。


「市場の値段を見るだけでも、いろんなことを考えられるんですね」


「そうです。そして、ここで商人の役割も重要になってきます」


イスズは、農村と街の間にある街道を指した。


「例えば、この農村では麦がたくさん取れるけれど、塩がほとんどありません。一方、海辺の町では塩がたくさん作られているけれど、麦が足りないとします」


「じゃあ、お互いに交換すればいいんじゃないですか?」


「その通りです。ただ、農民が自分で海辺まで麦を運び、塩を持って帰るのは大変ですね。そこで商人が間に入ります」


イスズは指を動かした。


「農村で麦を買い、それを海辺の町まで運びます。そこで麦を売って、代わりに塩を買い、その塩を今度は農村へ運ぶのです」


「商人が運んでくれるから、遠くのものも買えるんですね」


「ええ。商人は、ただ安く買って高く売っている人ではありません。もちろん、商売ですから利益は必要です。でも、商人がいることで、必要な物を必要としている場所へ届けることができます。麦が余っている場所と、麦が足りない場所。塩が余っている場所と、塩が足りない場所。その間をつなぐのも、商人の大切な役割です」


「……じゃあ、商人も領地を支えているんですね」


「ええ。農民が食べ物を作り、職人が道具を作り、商人がそれらを必要な場所へ運ぶ。そうやって、それぞれの仕事がつながっています」


レオーネは、農村と海辺の町を交互に見つめていた。やがて、何かを思いついたように顔を上げる。


「じゃあ、商人がちゃんと商売をできるように、道を整えたり、盗賊が出ないようにしたりするのも、領主の仕事なんですね」


「そうですね。道が安全で、物を運びやすければ、商人も遠くまで商品を届けられますから」


「だったら、領主は商人のことも考えないといけないんだ」


そう言って、レオーネはイスズを見上げた。


その表情に、イスズは思わず息を止めた。


いつも自分の話を一生懸命に聞いてくれる、素直で可愛らしい教え子。けれど、今のレオーネの瞳には、ただ教えられたことを理解しようとするだけではない、確かな意志が宿っていた。


自分が将来背負うことになるかもしれない領地を、そこに暮らす人々を、真剣に考えようとしている。


――こんな顔もするのね……。


胸の奥が、きゅっと締めつけられた。まだ幼さの残る顔立ち。それなのに、真っ直ぐに自分を見つめる瞳に、イスズはなぜか目を逸らせなかった。


――あら……私、何を考えているのかしら。


ふと、自分が彼を一人の男の子として意識していることに気づき、イスズは戸惑った。


レオーネは大切な教え子だ。これからも、彼が立派な人間になれるよう支えていく。それが自分の役目なのだから。


そう言い聞かせても、先ほどのレオーネの真剣な眼差しは、なかなか心から消えてくれなかった。


「……イスズ先生?」


「あっ、いえ。そうですね。よく気づきましたね」


イスズは、いつものように微笑んだ。


「領主は、領民がそれぞれの仕事を続けられるよう、環境を整えることも大切なのです」


レオーネは、前回の授業で見た地図を思い出した。


農村。街。市場。工房。街道。昨日はただ地図に描かれた場所だったものが、今はそれぞれがつながって動いているように見える。


「……領地って、本当にいろんな人がつながってできているんですね」


「そうですね。そして、そのつながりがきちんと動いているかどうかを知るためにも、市場を見ることは大切なのです」


レオーネは、しばらく市場の印を見つめていた。


「じゃあ、次は……市場で何が売れているのかを見るんですか?」


イスズは微笑んだ。


「そこまで分かれば、今度は市場の数字から、領民がどんな暮らしをしているのかも見えてきますよ」


レオーネは目を輝かせた。


「それ、面白そうです!」


「では、次回はそこから始めましょう」


そうして授業は終わった。


レオーネは、次の授業への期待を胸に、楽しそうに地図を片づけ始める。


その姿を見つめながら、イスズは先ほどの彼の表情を思い返していた。


領地の人々の暮らしを真剣に考え、自分の言葉で領主としての役割を見つけようとしていた、あの真っ直ぐな眼差し。


あの時のレオーネの真剣な眼差しを受けた瞬間、イスズの胸が跳ねた。


いつもそばで教えているはずなのに、ほんの数ヶ月の間に、こんなにも成長していた。男の子は、少し見ないうちにも変わっていくものなのだろうか。


そんなことを思いながら、イスズは胸の奥に残る温かな感情をそっと確かめるように、レオーネを見つめた。


そして、なぜだか先ほどから、彼のことがいつもより少しだけ気になっている自分に気づいていた。






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