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学院にも行けなかった貧乏騎士爵令嬢、家庭教師として育てた伯爵家長男に人生で初めて愛されました  作者: 太童好喜


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第54話 領地と領民の暮らし

イスズは、レオーネの前に一枚の大きな紙を広げた。


そこには、いくつもの村や街、畑、林、河川、街道などが描かれている。


「レオーネ様。前回は、貴族とは何をする者なのか、というお話をしましたね」


レオーネは頷いた。


「領地に住んでいる人たちの生活を守ることも、貴族の大切な仕事だって」


「その通りです。では今日は、その『領地』について、もう少し詳しく考えてみましょう」


イスズは紙の中央を指した。


「まず、領地には何があるでしょうか?」


「えっと……領主の館?」


イスズは微笑んだ。「もちろんありますね。では、それ以外には?」


レオーネは地図を覗き込んだ。


「村……かな。それから街? 市場とか、お店とか……あ、畑もあります」


イスズは頷きながら、紙の上を指でなぞっていく。


「そうです。農村、街、市場、商店、工房。場所によっては鉱山や林もあります。川や街道もありますし、街道沿いには宿があるでしょう。海に面した領地なら、港があるかもしれません。もちろん、領主館や寺院などもありますね」


レオーネは、改めて地図を見た。


「……いっぱいあるんですね」


「ええ。ですから、領地というものを考えるとき、領主館だけを見ていてはいけません」


イスズは地図の端にある小さな村を指した。


「ここにも人が暮らしています。そして、こちらの街にも人がいます。市場にも、工房にも、街道沿いの宿にも、人がいるでしょう」


「領地って、領主様が住んでいる土地のことじゃないんですね」


イスズは頷いた。


「そういうことです。領地とは、領主が住んでいる土地のことではありません。そこには、農民も、商人も、職人も、兵士も、旅人も暮らしています。領地を治めるということは、その人々の生活そのものを支えることでもあります」


レオーネは、昨日の授業を思い出すように地図を見つめた。


「だから、領主は領民のことを知らないといけないんですね」


「はい。では、そのためには、まず何を知らなければならないでしょう?」


「……どんな人が住んでいるか?」


「それも大切です。では、もう一つ」


レオーネは少し考えた。


「……その人たちが、何をしているか?」


イスズは、地図の中から農村を指した。


「正解です。では、この村にいる農民は、何をして暮らしているでしょう?」


「畑を耕して、麦とか野菜を作っています」


「そうですね。では、作ったものは全部、自分たちで食べてしまうでしょうか?」


「全部は食べないと思います」


「では、余った分はどうしますか?」


「売る……?」


イスズは、農村から街へ続く道を指した。


「そうです。農民は、自分たちで食べる分とは別に、余った作物を市場などで売ることがあります。その代わりに、お金を手に入れますね。では、そのお金で何を買うでしょう?」


レオーネは考えた。


「食べ物……は、自分で作っているから、あまり買わないのかな?」


「そうです。もちろん、作っていない食べ物を買うこともあります。それ以外には?」


「服とか……農具?」


「ええ。塩も必要でしょうし、鍋や生活用品を買うこともあります。農具が壊れれば、新しいものも必要になります」


イスズは今度は街の工房を指した。


「では、その農具を作っているのは誰でしょう?」


「職人です」


「そうです。職人が農具を作り、農民がそれを買う。職人は、その代金で食べ物や衣服などを買います」


「じゃあ、職人が作ったものを売る相手も必要なんですね」


イスズは今度は市場を指した。


「その通りです。そして、商人もいます。農村で作られた麦や野菜などを買い、それを街へ運んで売る。そこで得たお金で、今度は別の商品を仕入れることもあります」


「農民と職人と商人が、みんなつながってる……」


イスズは頷いた。


「一人の人間だけを見ていると、それぞれ別々の仕事をしているように見えます。でも、実際にはそうではありません」


イスズは、地図の上で指を動かした。


「農民が作物を作る。作ったものを売る。商人がそれを買って別の場所へ運ぶ。職人が農具を作り、それを農民が買う。そして、農民も職人も商人も、生活するためにまた別のものを買います」


「……ずっと回ってるんですね」


「そうですね。お金も物も、人から人へ動いていきます」


レオーネは、しばらく地図を眺めていた。


「じゃあ、誰か一人が困ったら……他の人も困るのですか?」


イスズは少しだけ表情を引き締めた。


「そこが大切なところです。では、考えてみましょう」


地図の農村を指す。


「もし、この村で今年、ほとんど作物が収穫できなかったら、どうなるでしょう?」


「農民が困ります。食べるものが足りなくなるし、売るものもなくなるから……お金も少なくなります」


「その通りです」


「それで、農具とか服とかを買うお金も減るのかな?」


「ええ。そうなる可能性があります」


イスズは、農村から街へ視線を移した。


「では、農民が農具を買わなくなったら?」


「農具を作っている職人が困ります。それに、農民が市場で買い物をしなくなったら、商人も困る……商人が商品を仕入れなくなったら、その商品を作っている人も困るし、運んでいる人も困る?」


「その通りです」


レオーネは少し驚いたように目を開いた。


「……農民が不作になっただけなのに、街の人まで困るんですね」


イスズは微笑んだ。


「そういうことです。逆に、豊作だったらどうでしょう?」


「えっと……農民がたくさん売れるから、お金が増える?」


「そうですね」


「お金が増えたら、服とか農具とか、いろんなものを買えるようになる。そうしたら、今度は職人や商人も儲かる……」


レオーネは、自分で答えながら地図を見渡した。


「……やっぱり、みんなつながってるんですね」


イスズは頷いた。


「ですから、領主が領地を治めるとき、自分の館や税金だけを見ていてはいけません。農村で何が起きているのか。街では何が売れているのか。職人たちは仕事を続けられているのか。商人たちは商品を仕入れられているのか。そうしたことまで考える必要があります」


「昨日言っていた、『領民の生活を支える』って、こういうことなんですね」


イスズは嬉しそうに頷いた。


「領民がそれぞれの仕事をして、必要なものを作り、売り、買う。そのつながりがあるからこそ、領地の暮らしは成り立っています」


レオーネは、先ほどまでただの地図にしか見えなかった紙を見つめた。


そこには村があり、街があり、道があり、市場がある。その一つ一つに、人がいる。農民が畑を耕し、職人が工房で道具を作り、商人が荷物を運ぶ。


そう考えると、地図の上に描かれた小さな村や街が、急に生きている場所のように感じられた。


「……イスズ先生。じゃあ、領主って、みんながちゃんと仕事をできるようにすることも考えないといけないんですね。農民が作ったものを売れるようにしたり、商人がちゃんと運べるようにしたり、職人が仕事を続けられるようにしたり……」


イスズは頷いた。


「その通りです。もちろん、すべてを領主一人で行うわけではありません。家臣や商人、職人たちと相談しながら考えていくことになります。そして、将来レオーネ様が良いお嫁さんを迎えたなら、その方と一緒に家のことや領地のことを考えていくこともあるでしょう」


「お嫁さん……」


その言葉に、レオーネはふと考えた。自分が大人になれば、結婚する。貴族なのだから、家同士の都合で相手が決まることも多い。そんなことは、レオーネも知っていた。


では、自分のお嫁さんは、どんな人なのだろう。レオーネは、なんとなく隣にいるイスズを見た。


――イスズ先生みたいな人だったら、いいなぁ。そう考えているうちに、イスズの授業が少し遠くなった。


「レオーネ様?」


「……え?」


レオーネは、はっとして地図へ視線を戻した。いつの間にか、授業から意識が逸れていたらしい。


「……す、すみません」


「ふふ。では、続けますね」


レオーネは慌てて地図を見る。けれど、さっきまで頭に入っていた話が、なぜか少しだけ頭に入ってこなかった。



昨日までは「領民の生活を守る」という言葉を、どこか漠然としたものとして聞いていた。


けれど今は、その言葉の中に、畑で働く農民も、工房で物を作る職人も、市場で商品を売る商人も含まれていることが分かる。


「……なんだか、領地って大きな一つのものみたいですね」


イスズは地図を指で軽く叩いた。


「ええ。とても良い捉え方だと思います。では、次はその『つながり』を、もう少し詳しく見てみましょう」


「はい!」


レオーネは身を乗り出した。さっきまで地図の上に並んでいるだけだった村や街が、今は少し違って見えていた。


そして、その隣にいるイスズのことも、なぜか少しだけ違って見えた。


将来、自分がこの領地を背負うようになったときも、こんなふうに隣で微笑んでいてくれたらいいのに。そんなことを、レオーネはぼんやりと思った。


どうしてそんなことを思ったのか、自分でもよく分からなかった。


ただ――いつか大人になった自分の隣に、イスズがいてくれたら。


それは、なんだか嬉しいことのように思えた。


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