第53話 貴族とは何か
今日は、イスズがレオーネの母であるマイアと話し合い、ようやく授業についての合意が取れた日だった。
領地の政治に関する授業は認められなかったが、市場や商業、そして領民がどのように暮らし、どのような営みをしているのかについてなら、授業をしてもよいということになった。
ただし、授業にはマイア付きの侍従が同席し、その内容を見守ることが条件だった。また、領地の政治や経営に関わる話には踏み込まないことも、イスズは約束していた。
今日も、レオーネのそばにはトレミーとストリーガがいる。
そして、もう一人。マイア付きの侍従であるエルキャパも同席していた。
エルキャパは、マイアが実家にいた頃から仕えてきた老侍従である。今回の授業では、マイアから直接、授業の内容を見守る役目を任されていた。
イスズも、そんなエルキャパの視線を感じていた。とはいえ、今日教えることについては、すでにマイアとの間で話がついている。
イスズはレオーネへ向き直ると、静かに口を開いた。
「では、今日は市場や商業、そして領民がどのように暮らし、どのような営みをしているのかの授業です。でも、その前に今日は少し違ったお話をしましょうか」
イスズがそう言うと、レオーネは机の上に置いていた筆を止めた。
「違った話?」
「はい。レオーネ様は、貴族とは何だと思いますか?」
すると、それまで黙って授業の様子を見守っていたエルキャパが、静かに口を開いた。
「イスズ殿。そのようなことが、今回の授業に必要なのでございますかな?」
イスズはエルキャパへ視線を向けると、穏やかに微笑んだ。
「ええ。私は必要だと思っておりますわ。市場や商業について学ぶ前に、まずは貴族とは何なのか。そして、なぜ貴族というものがあるのか。そこを考えておく必要があると思うのです」
イスズは、レオーネへ視線を戻した。
「自分たちが何者なのか。そして、その立場にはどのような役割があるのか。それを知らなければ、自分が何をするべきなのかも分かりませんもの」
そう言って、イスズは柔らかく微笑んだ。
「ですから、今日はそこから始めたいと思いますわ」
「貴族とは何か」と問われ、レオーネは少し考えた。
「えっと……爵位を持っている人? それとも、お金持ち……とか?」
「そうですね。それも貴族の一つの条件です。ただ、お金を失ったら貴族ではなくなるのでしょうか?」
「……違うと思う。では、領地を持っている人でしょうか?」
「そうですね。ただ、すべての貴族が自分の領地を持っているとは限りません。帝都には、国の政務や行政に携わる法衣貴族の方々もいらっしゃいます」
レオーネは首を傾げた。
「じゃあ……貴族って、何?」
「そこを一緒に考えてみましょうね」
イスズは机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、一つの領地を簡単に描いた地図があった。中央に街があり、その周囲にはいくつもの村がある。村と街をつなぐ道が伸び、さらにその先には森や畑、川などが描かれている。
「これは、一つの領地だと思ってください。この領地には、領主がいます。では、領主は何をしているでしょう?」
レオーネは地図を眺めながら考えた。
「税金を集める、兵士を持つ、悪いことをした人を捕まえる……とか?」
「それも領主の仕事です」
レオーネは少し得意そうな顔をした。
「じゃあ、貴族っていうのは、そういう仕事をする人かな?」
イスズは地図を指差した。
「それも一つです。でも、それだけではありません。この領地には、いくつもの村があります。そこでは農民が畑を耕し、食べ物を作っています。街には商人や職人がいて、農具や衣服を作ったり、必要な物を売ったりしています。他にも、兵士や宿屋の者など、実にさまざまな人が暮らしています」
レオーネは地図を見つめた。
「では、領主が自分の館の中だけを見ていたら、この領地はどうなるでしょう?」
「……分からない」
「例えば、村で作物があまり取れなくなったとします」
「食べ物がなくなる。そうしたら、みんな困るし……税金も払えなくなる?」
「その通りです。さらに、農民が困れば、農具を作っている職人も困ります。農民が物を買わなくなれば商人も困ります。商人が商品を仕入れなくなれば、街の人たちも困ります」
レオーネは地図を見ながら考え込んだ。
「全部、つながってるんですね!」
イスズは微笑んだ。
「そうです。領地というのは、領主だけで成り立っているものではありません。そこに住む人たちが、それぞれの仕事をして暮らしているからこそ、領地が成り立っているのです」
「じゃあ、領主は、その人たちのことも考えないといけない?」
「それが、貴族にとって大切なことの一つです。税金を集めることも必要です。でも、税金を納める領民が暮らしていけなければ、領地そのものが成り立ちません」
レオーネは、少し驚いたようにイスズを見る。
「じゃあ……領民が豊かになれば、領主も豊かになる?」
「必ずしも簡単にはいきませんが、基本的にはそう考えてよいでしょう」
イスズは地図の上を指でなぞった。
「農民が作物を作る。商人がそれを必要な場所へ運ぶ。職人が農具や衣服を作る。そして、人々がそれを買う。そうして、お金や物が領地の中を巡っていくのです。その結果、領民が生活しやすくなり、商売も活発になれば、領地全体が豊かになっていきます。そして、その中から税も納められるようになるのです」
レオーネはしばらく地図を眺めていた。
「……じゃあ、貴族っていうのは、自分だけが豊かになるんじゃなくて、領地の人たちがちゃんと暮らせるようにする人?」
イスズは嬉しそうに微笑んだ。
「とても良い答えです。ただ、もう一つ大切なことがあります。貴族には、自分の家や領地だけではなく、その土地で暮らす人々の命や生活を守る責任もあります」
「責任……」
「はい。道が壊れれば直す。川が氾濫しそうなら対策を考える。盗賊が出れば取り締まる。作物が不作になれば、どうすれば領民が飢えずに済むのかを考える。そして、領地でどんな商売が行われ、どんな物が不足し、どんな物が余っているのかも知らなければなりません」
レオーネは目を丸くした。
「そんなにたくさんあるの?」
イスズは少しだけ笑った。
「領地を治めるというのは、それだけ大変なことなんですよ。だから私は、貴族とは何かと聞かれたら、こう答えます」
レオーネが顔を上げる。
「少なくとも、領地を治める貴族とは、自分が偉いから人の上に立つ者ではありません。多くの人の生活を預かり、その人たちが安心して暮らせるように責任を負う者です」
レオーネは、しばらく何も言わなかった。
やがて、地図に描かれた小さな村を見ながら、ぽつりと呟く。
「……じゃあ、僕が大人になって、もし…伯爵になれたら、この人たちのことを考えないといけないんだね……大変そう」
イスズは笑った。
「うふふ、そうですね。だからこそ、今のうちから、いろいろなことを知っておきましょうね」
「はい!」
レオーネは地図をもう一度見つめた。
さっきまではただの絵にしか見えなかった村や街が、今はそこに暮らす人々の姿まで含めた、一つの大きな世界のように見えていた。
大人になれば、自分もこの世界を背負うことになる。そう考えると、少しだけ気が重かった。
けれど――ふと、隣にいるイスズを見た。
もし、これからもこうしてイスズと一緒にいろいろなことを教えてもらえたら。
そんなことを、レオーネは理由も分からないまま思った。
大変なことも、イスズと一緒なら、少し楽しいのかもしれない。
そう思いながら、レオーネはもう一度、地図へと目を戻した。




